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心の構造
私的にふと考えこんだら止められなくなってしまいました。 『心』及び『精神』『脳』と言われる物の構造ってどのような感じでしょうか。 個人的に『心は思考・記憶・知覚に分かれる』と一度考えたのですが、それだけでは感情は生まれるのか?と考えてしまいます。 それに、それぞれがそれぞれにどのように作用するんだ?等、どんどん疑問が膨れ上がってしまいます。 Wikipediaなどから探して読んでみたのですが、肝心な所がありませんでした。 ひょっとしたら、心理学的にも難題かもしれませんが、ご回答よろしくお願いします。 ちなみに、「この質問はオカルト的質問ではありません」。又、「私は未だ高校生なので難解な用語等は解りません」。故に「専門的すぎる説明は不要です」ので、そこを踏まえてご回答お願いします。
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難しい問題ですね~ 「心」は形、色、匂いなど物質的な要素を持たないので、 (ブラックボックスと云う言い方もします。)取り出して、 見せる訳にも行きませんし、標準値みたいものを設定することも難しいでしょうね。 私なりの考えですが… 「心」は、受動感覚器官だと考えています、 外界の刺激(気温、湿度、感触、見る、聴く、匂うなど)で、 喜び、快、不快、喜怒哀楽、恐怖などを感じる器官です。 自分での「心」のコントロールは、難しいですが、まったく出来ない事ではないですし、 心理療法では、積極的に色々な方法でのコントロールを試みます。 人の心は、その歴史や成り立ちによってそれぞれに 凸凹(感覚の鋭い部分と鈍い部分)を持っています。 これが(受動的な)個性とも言えますし、人それぞれに感じ方が違う部分です。 「意識」が、心と思考(脳)の上位器官で、 「記憶」は思考のデータベース(倉庫)です。心で感じた事を元に『どう動くのか?』を 「思考」が「記憶」を使い動く為の方法を探り、最終的に決定するのが「意識」です。 脳の中では、「前頭葉」と「扁桃体」が感情を司る部位と言われています。 http://www.toukoukyohi.com/trauma/nounokouzoutokokoro.htm ※個人的には、「心が脳の中にある」というのには賛成出来ませんけど(笑) (異論もあるかと思いますが)「精神」は「魂」とも言い、 「意識」の中の中核的な部分を占めるもので、無意識にもつながっている、 意識の根っ子のような部分であると考えます。 まとめ、心(受動感覚器官)=意識を通じて、外界の情報を受け取り、感じる器官 意識=心や思考からの情報を受け取り判断し、行動を決定する器官 思考=色々なバラバラの情報を組み合わせ、ひとつの形に統合する働き、 記憶=思考の最大の情報源 精神(魂)=意識のコアの部分、無意識とつながる部分 「感情は何故起るか?」については、 原始的には、生き延びる為に、不快や恐怖の感情が表れたとの説が在ります。 そして、獲物を得た時の興奮と生存の安全感が快(感)につながり、 幼児がやるように、目と目を合わせて笑い合ったり、言葉以外のコミュニケーションとして 感情と感情表現が発達して来たものと思われます。 ※言語の違う国はいくつもありますが、感情の違う国や人種は聞いたことがありません。
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- tenntennsevengoo
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実は私はこの答えを知っています。実はこの世の中は物理的な世界だけでできているわけではありません。もう一つ世界があってそれが意識です実はこの世界の事は科学的にも未解明です。(なんせ観測装置を置くことが出来ないので・・・)つまり物理の世界ともう一つ違う何かの世界(科学者でも解らないので意識とよんでおりますが・・・)が組み合わさった状況が心です。茂木健一郎によるとクオリアというものが発生すると心となり、「熱い」とか「寒い」とか「痛い」etcなどの感情が意識化されるのだそうです。多分なぜ脳とか化学物質とかの反応で心が生まれるのだという疑問なのだと思います。参考までにネットで”意識とは何か?”と検索してみてください。いろいろな意識の仮説理論が出てきて面白いと思いますよw
お礼
なんだか、正直オカルト的と言いますか、哲学的な話ですね。 ですが、ご回答ありがとうございました。
- kobarero
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#3です。 >欲望と欲求も同義かと思いましたが、細かくは異なるのですか。 サルは欲求するけど、欲望しない。欲求は予めプログラミングされた「刺激-反応」を惹き起こすだけだから、1万年前のサルの生活と現在のサルの生活は変わらない。ヒトは欲求するだけでなく、欲望するから、予めプログラミングされていない新しい心像を創造することが出来る。だから、1万年前のヒトと現在のヒトの生活は全く違う。従って、「心」の本質は「創造」だと思います。すなわち、人間の「心」だけが「歴史」を創り、「今とは違った自分」を生み出すことができるのだと思います。
お礼
なんだか壮大な話になってきましたね。 新たなご回答ありがとうございました。
一つの受精卵は全ての感覚(触角、味覚、聴覚、視覚、嗅覚、and more? )と知覚神経(情報入力)自律神経(情報出力)を包括していましたし、明確な心の場所になる境界もなかったそうです。 それが細胞分裂しながら臓器になって職業差別(?)が進み、特性が固定されていきますが、精神も全身の臓器、或いは細胞の一つ一つとで連絡をとりあっているので(リーブ21の社長さんも力説してますね)脳以外にも心がある可能性は残っているのではないかと考えていたところです。(科学的立証は示されていませんが) 無事生まれた赤ちゃんに客観性はありませんので、外界に触れる内、強制的に入る刺激的な外側の情報が自分と思うようになります。母親の乳房も自分、自分の手足以上に自分とと思っています。異なる精神活動(自分が心を持っている自覚がない)を知らないから。制御できない外界に対して自律神経(出力)は揺さぶられ神経を増やしたり伸ばして行ったりしますが、12歳頃まで神経の簡素化を進めて、複雑な感情、思考、行動の仕組みを整えるそうです。上手に神経を減らせると達人とか天才になるでしょうね。 個人差もありますが、心は自律神経に大きく影響を及ぼすことから、自然がくれた恒常性です。 精神は自分の為で無く外界、それは大切な人のためや人類の為や、あるいは地上でよりよく働きたいという自分を客観視できる、これが経験により獲得された知覚自我(共認回路)と思います。 素朴な心理学ですのでアテにはなりませんよ。参考意見です。
お礼
脳以外にも心がある可能性は残っているとは、思いもよらぬ話ですね。 ご回答ありがとうございました。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
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こんにちは。 以前、似たような質問をさせていただいたことがあります。 私もときどき「こころ」なるものを体内から取り出して観察してみたくなります。 何がどのように私に作用して、私の中で何が起こって、○○な気持ちになって、 私に○○という行動をとらせる、という様子なんかを観察してみたくなります。 といっても実際「こころ」という物体が存在するわけではないので無理なんですけどね。 「こころ」は、五感と脳が手をたずさえて働いて「起こるもの」だと思います。 池に石を投げたときに起こる波紋みたいなものだと思います。 毎日毎日、情報・刺激をたくさん受け、「こころ」もかなり忙しく起こっては消えて 起こっては消えているのではないかと思います。 起こって消えて起こって消えて・・の様子は、だいたいこんな感じかと思います。 「欲求」→「探索行為」→「対象審査」→「快感充足」→「弛緩」→「安らぎ」→「欲求」 →「探索行為」→「対象審査」→・・・・・・・・・・ 例えばおなかがすいているとします。周りをひととおり眺めるとラーメン屋やらコンビニ やらケーキややらいろいろ見えます。「目」がこれらの情報を脳に送り、脳は「記憶」をも とに「ラーメン屋」「コンビニ」「ケーキ屋」というものに対するイメージを呼び出します (この「記憶」の中に「感情・・・おいしかった・まずかった・熱くてやけどしてイヤだ った・楽しかった・店員の態度にムカついた・・」も一緒にしまわれているのではないか と思います)。そして呼び出されたイメージをもとに、よし、寒いからラーメン食うか・・ いただきます・・ごちそうさま・・という行動を取ります。 この行動を選択し実行するのも「感情」に基づいている部分は大きいと思います。 _____________________________________ 質問者さますみません。場所をお借りします。 質問とは無関係なことを書きますので、規約違反として削除されるかと思いますが・・。 ruehas様、hakobulu様。 ruehas様、hakobulu様のご回答、いつも読ませていただいて参考にしております。 今回、「回答欄」を使って回答ではない内容が書かれていることを、利用者として、 お二人の意見を参考にしている者として、悲しく思いました。 質問者様も困惑しておられるのではないかと思います。
お礼
解りやすい例えも書いていただき、ご解答ありがとうございます。
- schneewittchen7
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- schneewittchen7
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感情というものは、詰まるところ「個体の保全存続のため」に起こるものでしょうね、本来は。 その目的から外れてしまうような結果を招く行動を選択する場合、大概は「目論見が外れた」ということなのだと思われます。 ですから知性や理性のレベルが問われてくるわけです。知性や理性だって「個体の保全存続のために」サポートするのが本来の役割でしょうから。 知性や理性の働きが脆弱で感情面だけが突出していると、これは要するに個体の保全存続面に重大なミスを招く恐れがありますから、我々は知性や理性を高めることが大切との認識を共有しているわけです。 ところが情動本能というのか感情が突出していると、本来は自分の身を守る役割であるはずが、知性理性という頼もしいお供の支えを失った、つまりコントロールがきかない状態なわけですから、こうした状態のヒトは「赤ちゃん並み」だとか「幼児的」だとか甚だしいときは「異常者」の烙印を押されてしまうわけです。 ほんものの赤ちゃんや幼児でしたら感情剥き出しで知性理性が発達していなくても、そもそも要求することも単純なレベルのことですから周囲も、その要求に応えてやることが比較的可能です。 しかしある程度の年齢になってくると要求レベルも複雑高度化してきますから周囲は、その要求に応えきれないばかりか周囲との摩擦を生み出し易くなります。ですから一般社会から逸脱疎外されてしまうのです。これでは個体の保全存続にとって非常に不利になってしまいますね。 いずれにせよ全ては「個体の保全存続」が目的であり、そこから外れてしまうのは知性理性の不足による「目論見外れ」(いわゆるフツーのヒトが一番失敗する理由) 知性理性が極端に機能しにくく「個体の保全存続」に最も貢献するはずの情動・感情が肥大していると「イジョー」と言われてしまいます。(この逆も、かな?) こういうヒトは自分を守ろうとする意識が強い割りに実際はバランスがガタガタで自分の足で立っていられないから他者に依存する気持ちが非常に強いです。その依存を支えてくれる存在があればラッキーですがね。 その突出した感情つまり「自己保全存続欲求」が強ければ強いほど本来なら知性理性も、それに見合って強くならねばならないはずなんで、これがうまくバランス釣り合ってると俗世間と言うか社会的には、むしろ「やり手」とか言われて高い地位を確保しているかもしれません。 私も全くの専門外ですので大雑把な私見に過ぎませんが 「学問を後ろ盾にして」というのは専門家だろうが素人だろうが殆んどの人がやっていると思います。 単に割合の違いですね。専門家は膨大な公的データを持ってるんでしょうが素人は公的データの量が知れてるから「足らん分」だけ「自前で」調達してるだけでしょう。公的データでも自前でも古い理論でも極端に偏ってるのは、やはり依存かもしれませんね。
お礼
「個体の保全存続」とは、初めて聞く言葉です。 ご回答ありがとうございました。
- ruehas
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こんにちは。 「心」といいますのは、我々動物の「神経系における情報伝達」によって成り立っているものです。従いまして、これは情報の伝達と、それによって我々の身体に発生する反応の結果でありますから、それは「心の変化」「心の動き」として捉える必要があります。そして、この「心の動き」というものを司っているのが即ち「心の構造」ということになります。 ですから、「心の構造」を理解するためには、まず我々の身体のどの神経系からどのように信号が伝達されるのかといったことを解剖学的・生理学的に整理しなければなりません。当たり前のようなことに思われるかも知れませんが、このような解釈ができるようになったのは、実はつい最近の話です。従来、このようなことは専ら哲学や心理学によって扱われてきたことですが、近年の脳科学における研究技術が急速に発達したため、「心の構造」とは即ち「神経系の解剖学的構造」であるとすることが、ようやくできるようになったんです。 さて、只今申し上げました通り、我々の神経系では何処から何処に信号が流され、それぞれがどのような働きをするのかというのが「心の構造」であります。 中学校の理科で習いましたように、我々動物の神経系といいますのは「中枢神経系」と「抹消神経系」に分かれていますよね。「中枢神経系」といいますのは入力信号に対して情報処理を行い、その結果を出力する神経集合であります。 「抹消神経系」は「感覚神経系」「運動神経系」「自律神経系」分かれますが、「感覚神経系」が身体内外の環境から様々な情報を取り込み、中枢神経系に信号を送り込む「入力部」であるのに対しまして、「運動神経系」と「自律神経系」といいますのは中枢神経系の処理結果を命令として受け取る「出力部」に当たります。この信号の流れとそれぞれの働きを順番に並べますと以下のようになります。 「信号入力(感覚神経系)―情報処理(中枢神経系)―結果出力(運動・自律神経系)」 我々の神経系における「心の動き」といいますのは全てがこの経路に従って発生するものでありまして、一切の例外はありません。何故ならば、「心の動き」というのは感覚神経系によって獲得された身体内外の環境情報を基に発生するものであり、それに対して中枢系の処理・判断が行われることにより、自分に与えられた状況に対応した適切な反応や行動を発生させるというのが即ち「心の役目」であるからです。 これだけでは、単なる左から右への情伝達でしかありませんが、我々の心理現象において中核を成すのは申し上げるまでもなく中枢神経系であり、最も複雑なのはその情報処理過程であります。神経系全体の「心の動き」を「横方向の時間的変化」としますならば、こちらは「縦方向の信号のやり取り」ということになり、複数の中枢が一斉に信号を送り合うというたいへん複雑な構造になっています。 知覚入力を「心の動き」というものに変えているのはこの中枢神経系であり、その解剖学的構造こそが我々の「心の構造」であります。ここでは「知覚」「認知」「情動」「学習・記憶・再生」という作業が行われるわけですが、「認知」「情動」では入力情報に対する「価値判断」が成されるだけではなく、「思考」や「創造」、また「意識(自覚)」「感情」といった、形として見ることのできないたいへん複雑な現象が伴います。 質問者さんもご質問の中で取り上げておられますが、「思考」と「感情」というのは、いったい何処がどう違うのでしょうか。 まず、「思考」と「感情」では脳内で発生する場所が違い、その役割が違います。我々の脳(中枢神経系)は、その働きによって以下のように三層に分けられ、それぞれの中枢が司る「反応」や「行動」の性質が異なります。 「脳幹以下脊髄まで(生命の中枢):無条件反射(本能行動)」 「大脳辺縁系(情動の中枢):情動行動(学習行動)」 「大脳皮質(思考の中枢):計画行動(学習行動)」 このように、「思考」と「感情」は脳内で扱われる場所が違います。そして、上記に示しました通り、 「情動:情動行動」 「思考:計画行動」 といったように、それぞれに選択される行動の様式が異なります。 「思考」とは、大脳皮質の認知作業として行われる複数の情報を対象にした論理的な情報処理を言います。 「知覚」とは、感覚器官から取り込まれた感覚情報が大脳皮質の入り口であります「感覚野」に到達する過程で認知の可能な「ひと塊の情報」に整理されるということであり、「認知」とは主にこの感覚野から入力された知覚情報に対し、脳内の記憶情報を基に比較・分類を行い、それを特定の対象として識別する作業です。 ですが、このようにして識別された認知結果は実際の行動選択に用いられたり、単に新規記憶として保管されたりするだけではなく、それそのものがまた新たな認知作業の材料となります。ですから、このような認知作業の連携や継続、またあるいは、記憶情報同士といった純粋に内的な情報処理も含め、それを広く「思考」と呼ぶことができます。 「認知作業」あるいは「思考」とは、脳内で一度に複数の情報を比較するということであります。ですから、そのためにはそれぞれの情報は一旦何処かに収納されなければならないわけですが、そのような一時収納場所を「ワーキング・メモリー」といい、それには大脳皮質で「連合野」と呼ばれる部分が使われています。認知や思考に用いられる知覚情報や、そのために呼び出された記憶情報などは、作業が終わるまでの間「短期記憶」としてこの連合野の中に保持されます。そして、このような情報が一定の時間「短期記憶」として保持されるために、我々は初めて脳内のそれを自覚するということが可能になります。これを「意識」といい、認知や思考には必ずや何らかの意識現象が伴います。ですから、これによって選択される結果は全てが「意識行動」であり、自覚の成された「計画行動」ということになります。ちなみに、このような大脳皮質の意識に上る「計画行動を選択するため動機」のことを「意思」と呼びます。 視野に入っていても、意識に上らなければ見たことにはなりませんし、記憶にも残りません。過去の体験が「長期記憶」としてきちんと保管されていましても、それが短期記憶として連合野に引っ張り出されなければ思い出したことにはなりません。このように、認知作業といいますのは短期記憶を用いるために大脳皮質には意識が発生し、自覚というものが可能になります。 これが大脳皮質の構造に伴う「思考」や「意識」といった心の動きであります。ですが、自覚ができるのですから、それを体験するのは全く難しいことではありませんし、我々は日常、それを特別な心の動きとして捕らえることはほとんどありません。何よりも、質問者さんの仰る通り、これでは感情というものの発生する余地が何処にもありませんよね。我々が知りたいのは、何が自覚され、何が意識に上ったかではなく、自分はどうしてそう思い、何故そう感じたかという「生の心の動き」であります。 ところが、このプロセスを自覚し、心の動きとして体験することはできません。何故ならば、これが大脳皮質において意識に上り、自覚されているとしますならば、それは自分の意思によってコントロールされた立派な「計画行動」であり、全ての結果は予測を基に選択されていることになってしまうからです。では、自分がどのように感じ、どのような感情を抱くかを事前に予測しているひとが果たしているでしょうか。 「大脳辺縁系」に発生する「情動反応」に従って選択される行動を「情動行動」といい、これは学習行動でありますが、基本的には「無意識行動」です。そして、我々の日常生活における学習行動は、大脳皮質の意識に上る計画行動ではなく、ほとんどがこの「情動行動」によって賄われています。従いまして、我々にとってその日常を司る実際の心の動きとは、無意識行動を選択するための情報処理であり、それは「大脳辺縁系の情動反応」ということになります。知覚入力に対して大脳辺縁系に発生する情動反応は、例えば嬉しい、悲しい、好き、嫌いなど、このようなあらゆる欲求や動機に基づいて行動を選択し、我々を知らず知らずのうちに目的に向かって突き動かしてゆきます。 我々の脳内で「心の動き」というものの中核に当たるのは情動反応を司る「大脳辺縁系」であり、これは本能行動を補佐するために「生命中枢(脳幹以下、脊髄まで)」の上部に位置し、大脳皮質よりも少し前に発達した新皮質であります。そして、大脳辺縁系には身体内外からのあらゆる知覚情報が入力されており、ここではそれに対して「利益・不利益の価値判断」が下されることにより「情動反応」が発生します。 大脳辺縁系には学習機能が備わっており、この「価値判断の基準」として用いられますのは生後体験の結果に基づき、「扁桃体」と呼ばれる神経核に学習獲得された「情動記憶」というものです。ここには嬉しい、悲しい、怖いに始まり、好き嫌いなどの個人の好みや、正しい正しくないといった道徳観に至るまで、生後体験から獲得されたありとあらゆる過去の反応結果が記憶されており、それが実際の行動や言動を選択するための価値判断に使われているというわけです。ですから、我々の個性や人格、性格といったものは、この大脳辺縁系の中に作られていると考えて頂いて全く構わないと思います。 「情動行動」とは、この大脳辺縁系に発生する情動反応に従って無意識のうちに選択されてしまう行動ですが、情動反応の規準となります情動記憶は扁桃体に獲得された学習記憶でありますので、入力された知覚情報に対し、過去の体験を基に適切に選択された学習行動ということになります。また、このような「情動行動」といいますのは、大脳辺縁系に発生した情動反応が運動神経系に出力された結果でありますが、これが自律神経系に出力されたものを「情動性自律反応」といい、例えば、好みの異性に胸をときめかせるとか、緊張して冷や汗が出る、怖くて足が竦むといったようなものは、みな無意識に発生する情動性の身体反応であります。 さて、ここまで申し上げればもうお分かりと思いますが、「心の構造」とは情動反応を司る大脳辺縁系を中心に構成されているものであり、情動、行動、喜怒哀楽、人格や性格、個人の好み、社会的な道徳観からセックスに対する羞恥心に至るまで、我々の脳内における「心の動き」とは、全てがここから始まると断言して一向に差し支えありません。 では最後に、問題を整理し、質問者さんの疑問にお答えするために、大脳皮質における「情動の自覚」に就いて、そのプロセスを説明させて頂きます。 「自覚」といいますのは大脳皮質での認知作業に伴う意識現象でありますから、これが発生するためには対象は知覚情報として入力されなければなりません。そして「感情とは」、大脳辺縁系に発生した情動反応に従って身体に表出された情動性身体反応が体性感覚として大脳皮質に知覚され、認知・分類の可能になった状態を言います。 大脳皮質には、大脳辺縁系に発生した情動信号が直接送られて来るわけではありません。大脳皮質は、大脳辺縁系の情動反応に従って身体に発生した情動性身体反応を内臓感覚などの体性感覚を通して知覚し、その結果に対して過去の体験記憶を基に認知・分類を行います。これにより初めて、自分に発生した情動が「喜怒哀楽」のどのようなパターンに属するかということに判断が下され、そして、現在に与えられている状況と答え合わせをすることにより、自分がいったい何に対してそのような情動を発生させているのかを自覚することが可能になります。これを大脳皮質における「情動の原因帰結」といい、我々はこのようにして自分に感情が発生したことを自覚します。 質問者さんがお考えになった通り、感情とは大脳辺縁系に発生する情動反応の結果が大脳皮質に知覚されることによって初めて自覚されるものであり、認知や思考の過程で生み出されるものではありません。何故「原因帰結」などといった言い回しが使われるのかと申しますと、それは知覚情報としての認知が成されない限り、如何に大脳皮質といえども自分の脳内に何が起きているかを知ることができないからです。申し上げるまでもなくこれは、情動の発生する場所が大脳皮質ではなく、大脳辺縁系であるからですね。 従いまして、大脳皮質がそれに気付くまでの間に選択される反応や行動は、全てが「無意識行動」であり、知覚が成されないものを抑制するということはまず以って不可能です。このため、自分の意思によって情動行動をコントロールすることは本質的に困難ということになるわけです。 情動行動とは、大脳辺縁系に獲得された生後体験に基づく学習行動であり、我々の日常生活のほとんどはこの無意識行動によって賄われています。ですが、如何に学習行動とはいいましても、情動反応によるその場その場の選択よりも、過去の経験を基に未来の結果をじっくりと予測する大脳皮質の計画行動の方がより価値の高い結果を獲得てきるというのは間違いのないことであります。 では、最後に最も肝心なことを述べるようになりますが、行動選択には動機というものが必要不可欠であるわけなのですが、大脳皮質にはそれを作ることができません。何故ならば、全ての行動選択の動機とは「欲求の実現」であり、それが即ち「情動」であるからです。大脳皮質には情動を発生させる機能はありません。従いまして我々の脳内では、大脳皮質には行動選択の決定権というものは一切与えられておらず、如何に価値の高い計画行動を立案したとしましても、情動反応を司る大脳辺縁系がそれに対してYESと反応しなければ実行に移されることはないということです。 そして「心の役割」とは、知覚情報として獲得された環境の変化を基に適切な行動を選択することであり、その行動選択における動機を発生させているのが脳内では唯一大脳辺縁系だけであります。従いまして、「心の構造」とは大脳辺縁系を中核として構成されるものであり、その役割を果たすための「心の動き」とは、全てが大脳辺縁系の情動反応によって方向付けられているということになります。 「嬉しい、悲しい、欲しい、怖い、逃げろ、それはやってはいけない」 感情が発生するということは、行動の目的が示されるということです。大脳辺縁系に情動反応が発生しなければ、我々は欲求を達成することも、自分の身を守ることもできません。大脳皮質の論理的な情報処理だけでは、我々は日常の如何なる判断も下すことができず、何ひとつの行動を選択することも適いません。このように、我々にとって「心」といいますのは、行動の選択を行うためにあります。そして、それは大脳辺縁系の情動反応によって作られています。 以上、これが現在までに判明している心の構造とその役割であります。
お礼
膨大な説明のご回答ありがとうございます。
- vrtemjin
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一応大学で生物学の勉強をしているものです。 まず、人間の心が脳および肉体の生化学的な機能の上に成り立っていることは確かです。実際、脳に腫瘍ができたり、脳に物理的、化学的な刺激が加えられることで人間の性格はがらりと変化する事例が数多くあることからも、確かだと言えると思います。 心というのは言ってみれば本能と感情と理性の複合体であると考えられます。これらの要素は全て自分がどう行動するかを決定するための機能です。 すなわち心の生物学的な存在意義は行動の選択ということだと考えられます。 もっとも基本的なものが本能ですね。これは大量の条件反射(一定の刺激に対して機械的に同じ対応をする機能)の複合体です。たとえば鳥類にとっては子育ては本能なので小鳥が違うものに変わっていたり数が減っていても気が付きません。成長段階や季節ごとの気温の変化、異性のフェロモンなどの外部からの刺激が条件を満たすと、スイッチが入ったように交尾を行い、卵を産み、育てる行為をとるわけです。 次に生まれたのは感情だと思います。感情とはどう行動すれば大きい快楽が得られるか、を決定するものです。 本能が単純であれば、たんに機械のように本能に従って行動していればいいわけですが、脳の発達により本能が複雑化していけば、複数の本能的行動の条件を満たしてしまうことも増えてしまいます。 たとえば、目の前に獲物がいる。匂いや空腹刺激などから獲物を襲え、という本能が起動する。同時に、今はひどく疲れている。無理に襲うより休んで体力の回復を図れ、という本能も起動してしまえば、どちらを優先するかを感情が決定するわけです。感情的判断というものは過去の経験や遺伝などから、単純に複数の本能的行動に優先順位を割り振り、その場で一番優先順位の高い行動を選ぶだけの単純なものです。 最後に理性が生まれたと思います。脳がさらに複雑化して、単純な本能や感情だけに従うよりも、より高度で柔軟な行動選択機能を持ったほうが生存や種の繁栄に有利だったわけですね。 自然界にはざまざまな事態が起こりますから、本能と感情だけでは適切な行動を選べないことがあります。理性は言ってみれば多数の感情的行動選択のなかからもっとも適切なものを選ぶ機能であると言えます。 例として、強い敵がいる。放っておけば自分や家族に損害を与える恐れがある。倒したいが、かかっていけば殺されるかもしれない。勝率はどうか、殺された場合、家族はどうなる、自分個人としては行きたいが大切な家族の主の立場としてはいきたくない、と言う風に複数の本能的判断のうち、感情的判断や過去の経験、予測される未来などをもとにどれが一番適切かを分析し選択する、というのが理性です。 理性が発達することで、多数の情報の分析能力がさらに発達し、過去の情報をもとに未来を予測したり、思考したりする知性が発達したと考えられます。 そしてこれらが複合して心という概念でくくられる精神的活動が生まれたのではないでしょうか。 長くなりましたが、心とは、原始的かつ単純な1か0か、という条件反射が膨大かつ複雑に結びついて、結果として生み出されたのではないかと私は考えています。 以上の論はいろいろ文献で読んだり、教授と話したりしていて得た知識をもとに自分なりにまとめてみたもので科学的な根拠のあるものではないです。ま、参考まで、ということで。
お礼
そういえば国語の「山月記」という小説を習った時に、先生が理性と本能と分けて説明してくれたことがありました。 ご回答ありがとうございました。
私も興味があります。 まず最初に人間は動物の中の霊長類でありますから・・・動物が感じるものは持っていると思います。 私たちは特別の人である様に考えますが基本を忘れてはいけないと思います。 ただ不思議だと思うのは「喜怒哀楽」を早く出すことがたの動物違っていると思います。 人間の目は白目と見る瞳がはっきりしていますのは、心の動きを例えば 喜び、悲しみ、警戒、安心、哀れみ等が他からみられます。 一般の哺乳類や動物の目ははっきりしていません! だから人は訓練によって「心」「精神」等は、記憶する脳の能力も上がると思います。 脳は不思議と記憶されたものはどこかに残りますがそれをうまく取り出したり、整理したりする事ができる人とできない人がおってうまく考えたり、話すことも、理解することとかが違って感情っていて表現も違いも変わります。 ・・・そこですべての違いがでてくるのではないでしょうは? パソコンをいらっていると人間はすばらしいな! ・・・て感じます。的が外れているかも知れませんが私の考えの一部です。
お礼
力説のご回答ありがとうございます。
- kobarero
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>個人的に『心は思考・記憶・知覚に分かれる』と一度考えたのですが、それだけでは感情は生まれるのか?と考えてしまいます。 おっしゃるとおり、思考・記憶・知覚からは、感情は生まれません。思考・記憶・知覚は、ロボットでも持つことができますから、「心」の本質ではありません。「心」の本質は「欲望」です(欲望が感情を引き起こします)。「ロボット」は「欲望」を持つことができません。もちろん、「ロボット」があたかも「欲望」を持っているかのように作ることは可能ですが、それは、ロボット自身の「欲望」ではなく、ロボットを作った人間の「欲望」の反映に過ぎません。 同様に、動物も「欲望」を持つことができません。動物が持つことができるのは、「欲望」ではなく「欲求」です。「欲求」とは具体的な何かを求めることであり、「欲望」とは具体化される前の「モヤモヤ」とした何かを求めることです。この「モヤモヤ」が「創造」の源泉であり、人間の「心」の本質だと思います。 「モヤモヤ」とは何かというと、「そうではないんだ」ということです。「今、自分は何となくこのように生きているが、でも、自分が本当に有りたいのは、そうではないんだ。もっと、別なことなんだ。」ということです。その「もっと、別なこと」が初めは具体的に見えないというのが特徴です。そこに、かってない新しい生き方を模索するエネルギーが生まれてきます。このエネルギーが「欲望」であり、心の本質だと思います。 従って、「心の構造」を考えるとき、その中心には「欲望」というエンジンがあり、そのエンジンが思考・記憶・知覚を駆動するという風に考えれば良いと思います。「欲望」は「欲求」とは違い、「創造」の源泉です。
お礼
欲望と欲求も同義かと思いましたが、細かくは異なるのですか。 そして欲望がエンジンの役目になる。良く解りました。 ご回答ありがとうございました。
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お礼
ご回答ありがとうございました。