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花が美しいのはなぜ? 天の恵み?
花が美しいのはなぜでしょう? 色々考えたのですが、うまい説明が見つかりません。 初めは、進化論的なメリットがあるのかなぁと考えてみました。でも、花にとって、ハチを惹きつけるのは意味がありますが、人を惹き付けてもしょうがないと思いました。また、人にとっては、花が美しいと、確かに気分はいいですが、それが、種として生き残るための必須条件とも思えません。 それなら、教育の効果かなぁと考えてみました。親が子に花は美しいと教えたためでしょうか? でも、現実には、親の好きな歌を子供も好きだということは、むしろまれです。いくら教育しても、人の嗜好は強制できないと思いました。 ということで、「花はなぜ美しいのか?」 うまく説明できません。天の恵みでしょうか? うまい説明があったら、教えてください。
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これはモシ社会も含む黒人アフリカ全般にいえることだが、造形表現で、自然を模写したものがまったくないといってよいくらい欠如している。また、花を植えたり、切り花をして鑑賞したり、自然の景色を愛でたりというならわしがない。サバンナの落日でも、雨期のはじめのパルキア樹の花盛りでも、タチアオイに似た西アフリカ原産の植物であるオクラの花が家の裏一面に、朝露に濡れた花を開いているときでも、私は美しさに思わず足をとめて眺めてしまう。そんなとき、傍らにいるモシの村人に何度も「きれいだね」と同意を求めるように言ってみたことがあるが、反応はなかった。見馴れているから特別の感慨はない、ということでもなさそうだ。 これは私一人の個人的な体験ではなく、一般的な形でモシ社会の知識人の何人かに尋ねてみた結果でも確かめられた。アフリカとインドを主な専攻地域とするイギリスの人類学者ジャック・グディの花の比較文化史の浩翰な著述でも、サハラ以南のアフリカ社会に、花を観賞するならわしがないことがいくつかの留保つきでだが、指摘されている。 (『コトバ・言葉・ことば』川田順造) 長い間、学習は本能と対置されて考えられてきた。この立場では、本能は遺伝によって決定されている行動で、学習は遺伝子から解放された行動ということになる。しかし、この二分法が正しくないことは、二〇世紀の中頃には確立した。ニコ・ティンバーゲンの教科書にはつぎのようなことが書いてある。行動の発達と発現を制御する遺伝的なシステムのことを、本能あるいは生得的行動機構という。経験の結果、この生得的行動機構にある程度持続的な変化がおきたとき、これを学習という。そのとき、中枢神経の過程になんらかの変化が起こっているはずである。(『人間性はどこから来たのか』西田利貞) 飛行機が落ちた原因を、人はあれこれと調査しますが、 だれかが、「それは重力だ」と叫べば、笑われてしまいます。飛行機が落ちた原因は飛んだからです。 色々有りますが、頑張ってください、これを言いたかっただけ(代読、笑。
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- hakobulu
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#13です。 ご返事ありがとうございます。 「>山、森、川、夜空の月や星などの自然も、やはり、人間には美しく感じられると思うのですが、それも、やはり、偶然・・・?」 ちょっと考えてみましたが、いわゆる造形美というものも確かに存在するのでしょうし、自然が美の必要十分条件ではないようにも思います。 メタンガスを吐き出している泥沼も自然と言えるでしょうから。 しかし、偶然と言ってしまっては面白みに欠けますし、何より前回も付記しましたが、必然的理由の存在を全く否定できるという段階には至っていないので、もう少し考えてみました。 その結果、「可能性のあるもの」というのが美の最低必要条件のように思えてきたのですがどうでしょうか。 たとえば、何かに必死で打ち込む人の姿や眼差しは通常美しさを伴うと思いますが(その必死さを売り物にして人を誤魔化せると思っているテレビ関係者が増えてきたようなのには辟易しますが)、それは、大げさに言えば人類の可能性を示唆していると受け止めることが可能だからではないでしょうか。 ただ、これは理屈ではなく直感的に、すなわち遺伝的な感覚として感じるわけで、ある意味、無意識の記憶のなせる業と言うことができるのかもしれない、と妄想したりしています。 何に対しても無意識の記憶という便利な言葉で詭弁を吐いているんじゃないよ、というお叱りを覚悟の上で述べてみますが、我々は、花の色・形状・匂いなどが生命の継続の可能性の象徴であることを無意識的に感じ取っているのかもしれません。 因みに、「うんこ」はあらゆる可能性を吸い取られた後の存在なので、色・形状・匂い共に心地よさとは無縁のものを割り当てられているのでしょう。 「うんこ」が出る、というシステム自体が奇跡的なことなわけですから、そのような割り当てがあったとしても特に不思議なことではない、と考えるのが妥当なのかもしれません。 「>同じ人間同士なら、もっと血縁関係が強いのだから、互いに慈しみあって、戦争なんかしないはずなのに、なぜ、うまくいかない・・・? 」 そうですね。ただ、姉といってもあくまで「面倒をみてくれる年上の身内」というニュアンスでしょうか。 つまり、利益が競合することは殆んどない、という関係を想定しています。 人間同士であれば、同格の存在としてひとつの評価の対象にされる可能性があるわけで、本質的にはどちらかが二者択一の犠牲にならざるを得ない危険性をはらんでいるわけです。 僻み、嫉妬、憎悪などの根源はこの辺にあるのではないかと思っています。 つまり、勇気のないものほど煩悩の虜になりやすい、ということでは・・・。 ちょっとずれますが、地球は太陽の内部矛盾による分裂(分解)を解決するために吐き出されたものということを聞いたことがあります。 端的に言うと引力と斥力に関連しているのだろうと思いますが、吐き出された地球自体も矛盾による分裂の危機を引き継いでいるらしいです。 当初の公転運動だけではなく自転運動も採用したのですが、赤道付近は太陽の引力の影響を受ける割合が多いわけで、結果として扁平形にならざるを得ません。 扁平形は物理運動の原理からして加速されるでしょうから、相変わらず分裂の危機は回避されません。 そこで地球は考えたらしいですね。 体の一部を犠牲にして本体の分裂を防ごう、と。 かくして放出されたのが月、というわけです。 このへんは科学にお強いkobareroさんとしては常識的な見解かもしれませんね。 さて、地球の公転・自転に拘わらず太陽の引力は変わらず作用し続けますから、分裂の危機は完全に過ぎ去ったわけではありません。 ところが、二つ目の月を放出しようと考えた時点では、幸か不幸か地球は硬化を始めていて自らの一部を放出することは不可能になっていました。 そのまま放置すると分裂するしか道はなかったのでしょうが、頭の良い地球は生命を生み出すことによってエネルギーの放出を量より質で補おうとしたらしいです。 その結果生まれたのが生物で、これが生命の起源の最も科学的(物理的)な理由である、という説です。 地球は分裂の危機を常に内包しながらうまく折り合いをつけることによって存在し続けることが可能になっている、ということで、 人体のみならず、心もこの原理に則っているのは(遺伝であるから)当然の結果である。 人は、殆んど死と同様の状態(胎児)にありながら生きようとする意志を潜在的に持っており、しかも結局はまた死に向かって生きていく、という矛盾の存在であって、しかし、そのような矛盾があるにも拘わらず両者のバランスをとりながら確かに生きている。 つまり「拮抗」そのものが生命なのだ。 といったような概要だったと思います。 脱線時間が長かったようで恐縮ですが、そいういったわけで、花は地球の崩壊を救う先駆者として生み出された植物の本質であり、動物、ましてや人類はおっとり刀で火事場に駆けつけた消防士のようなもので、まだまだ学ばなければならないことは多くある。 などという解釈もまた一興かと考えます。
補足
ご回答ありがとうございます。 >「可能性のあるもの」というのが美の最低必要条件のように思えてきたのですがどうでしょうか。 おっ! 「美とは何ぞや?」の話になりましたね。 「可能性があるもの」というのは、新しい視点なので、思考が刺激されてうれしいです。 このように広く捕らえておくと、花という特定の対象だけでなく、広く「美しい」と感じられるもの全般に当てはめて考えられるので得した気分です。 確かに「可能性があるもの」を美しいと感じる傾向がありそうです。それで、あらためて考えてみたのですが、もう一つありそうな気がしてきました。それは、「調和のとれたもの」です。シンメトリーなどは、その典型のような気がします。東洋人がシンメトリーを本来的に美しいと感じるかどうかの疑問は残りますが。天空の月、星なども、「可能性があるもの」というよりは、「調和のとれたもの」のような気がします。あまり自信がありません。 >我々は、花の色・形状・匂いなどが生命の継続の可能性の象徴であることを無意識的に感じ取っているのかもしれません。 そうですね。花の部分に限らず葉や根を含めた植物全体に生命持続の可能性を感じてもいいわけですが、おっしゃるっとり、花には、その「象徴」という意味合いが強いのかも知れません。 >因みに、「うんこ」はあらゆる可能性を吸い取られた後の存在なので、色・形状・匂い共に心地よさとは無縁のものを割り当てられているのでしょう。 2,3日前のTVでやっていましたが、カンガルーの赤ちゃんは生後すぐに、お母さんカンガルーのお腹の袋に入って、何ヶ月もその袋の中で生活します。その間、当然、ウンコもおしっこもし放題なわけですが、「さて、その袋の中のウンコやおしっこはどうやって処理するのでしょうか?」というクイズ番組でした。答えは、「お母さんカンガルーが舐めて掃除する」でした。お母さんカンガルーにとって、子供のウンコやおしっこは、子供の成長の「象徴」なのかも知れませんね。 >人間同士であれば、同格の存在としてひとつの評価の対象にされる可能性があるわけで、本質的にはどちらかが二者択一の犠牲にならざるを得ない危険性をはらんでいるわけです。 同じ会社の人より、全然違った分野の人の方が真の意味の友達になりやすいというのと似てますね。 >そこで地球は考えたらしいですね。体の一部を犠牲にして本体の分裂を防ごう、と。かくして放出されたのが月、というわけです。 言われてみれば、その通りですね。 >そのまま放置すると分裂するしか道はなかったのでしょうが、頭の良い地球は生命を生み出すことによってエネルギーの放出を量より質で補おうとしたらしいです。 すごくユニークでおもしろい考えですが、このような考えを持っている学者とかいるんですか? エネルギーがあり余って、ブツブツ顔から出てくるニキビを思い出しました。 >動物、ましてや人類はおっとり刀で火事場に駆けつけた消防士のようなもので、 まさか、我々が消防士だとは思っても見ませんでした。おもしろい譬え、ありがとうございました。
- ojizou-sam
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再度の10です。 >>「ウンコは臭い」も煩悩 「臭い」とか「いい香り」が煩悩なのでは無いんです。 五感が煩悩なのではないんです。 じゃ何が煩悩かというと、匂いを受けて、その次に起こる反応、つまり「昂奮」が煩悩なんです。 「ああ~、クセーな! 誰のクソだよ!」とか 「綺麗な花だな。これはきっと天の恵みだ」というのが煩悩なんです。 平たくいうと、それについてとやかく想うのが煩悩なんです。 だって匂いそのものは、単に、身体が感じる感受にすぎないんです。 ウンコには、ウンコ独特の個性的な匂いがあるんです。 それを私たちの身体が感受して、「これはウンコである」と識別するんです。 花には、花独特の個性的な匂い、外見があるんです。 それを受けて、「これはウンコでは無く、花である」と識別しているんです。 煩悩とは、その単なる個性について「綺麗だから摘み取ってしまおう」とか、逆に「大切にしよう」、臭いから捨ててしまえ、蓋をしてしまえ・・・というのが煩悩なんです。 この分別が、私たちを不幸にしている精神の働きだというんです。 学歴が低いから私は駄目人間です。とか、逆に、あいつは劣っている。とか、 容姿が悪いから死にたい・・・となっちゃうんです。 スマップの「世界に一つだけの花」という歌がありましたが、みんな元々特別なオンリーワンなんです。 しかし、上記のように分別する心(煩悩)があるから、ナンバーワンを目指してしまうんです。 そして、それが結果的に戦争になったり、自滅的になってしまう精神の働きであるということなんです。 花の美しさは、ただの個性です。 花は、ただその個性を持って、そこに咲いているだけなんです。 そこに人間が来て、いろいろな感想をもって摘み取ったり、燃やしたりしているんです。 ウンコの臭さも、ただの個性です。 我々が「臭い」と感じますが、それは、単なる識別反応にすぎないんです。 で、識別反応も、一人、一人、みんなが違う感じ方をします。 だって、この世には、眼の見えないという個性をもった人も沢山いるんです。 鼻が悪いという人だって、沢山いるハズです。 ですから、みんなが一様に花を美しいと感じてるハズが無いんです。 ですから、「感受」は「身体によって起こる」という解釈が正解なんです。 逆に言うと、絶対的、世界統一的な感受はありえないんです。 ですから、天の恵みである(絶対的価値観)ということはありえないと想うんです。 あくまでも個性です。 ただの成り行きです。 ・・と、ちなみに私が話しているのは仏教的な解釈です。 ちなみに、仏教の経典では、この感受のことを「第一の矢」と表現してます。 花を見て「美しい」と想うのが第一の矢です。つまり感受の段階です。 そして、次に「美しい花だから家に持って帰ろう」とか「この花が枯れないように周囲の雑草を抜きとろう」とか、「美しいから写真に収めておこう」・・・とかいうのを「第二の矢」と表現するんです。 第一の矢は、身体に刺さる矢です。 第二の矢は、心に刺さる矢なんです。 心に刺さる矢とは、つまり昂奮です。 「昂奮」とは、我を忘れた状態ですよね。 これがつまり人間を不幸にしてしまう精神の働き(煩悩)だというんです。 でも、お釈迦さまの教えを聞いたものは、第一の矢が刺さった時点で、第二の矢が刺さるのを防げるので、昂奮することがないので、冷静で、穏やかに、安らいだ状態で、心健やかに暮らせる・・・というのです。(なかなか難しいですけどね) ああ~、なんか、説明が立て込んでしまい、申し訳ないのですが、だいたいこんな感じです。
補足
大変興味深いご回答ありがとうございます。仏教からの視点は新鮮でした。 1>「臭い」とか「いい香り」が煩悩なのでは無いんです。五感が煩悩なのではないんです。 五感そのものは、ニュートラルな情報に過ぎないと考えれば、確かに煩悩ではないような気がします。 2>「ああ~、クセーな! 誰のクソだよ!」とか、「綺麗な花だな。これはきっと天の恵みだ」というのが煩悩なんです。 確かに、この例では、いかにも煩悩らしいです。でも、必ずしも煩悩とは言えない場合もあるような気がして、やや混乱します。例えば、「ああ~、クセーな! 誰のクソだよ!」と言う場合は、心の中に怒りの気持ちがムラムラしているので、いかにも煩悩くさいです。でも、「ああ~、クセーな、でも、このクセーうんこが出るから、今日も健康に生きていけるんだなぁ。感謝、感謝。」と言う場合は、煩悩ではないような気がします。要は、心の持ち様ではないでしょうか? 3>ウンコには、ウンコ独特の個性的な匂いがあるんです。それを私たちの身体が感受して、「これはウンコである」と識別するんです。 おっしゃるとおりだと思います。 4>煩悩とは、その単なる個性について「綺麗だから摘み取ってしまおう」とか、逆に「大切にしよう」、臭いから捨ててしまえ、蓋をしてしまえ・・・というのが煩悩なんです。 「大切にしよう」まで、煩悩と言ってしまっていいのでしょうか? 2>と同じ疑問です。 5>しかし、上記のように分別する心(煩悩)があるから、ナンバーワンを目指してしまうんです。 「ナンバーワンを目指すべきとか、目指すべきでないとか」にこだわるのが煩悩のような気がしますが、でも、難しくて、よくわかりません。 6>ウンコの臭さも、ただの個性です。我々が「臭い」と感じますが、それは、単なる識別反応にすぎないんです。 おっしゃるとおりだと思います。 7>ですから、みんなが一様に花を美しいと感じてるハズが無いんです。 ここは、大変興味あるところです。例えば、ある女性を美しいと感じるか、美しいと感じないかは、人それぞれ違っていると思います。しかし、「花は美しい」ということに関しては、人によってそんなにバラツキがないのではないでしょうか? その証拠に、「花屋さん」という商売が成り立っているのではないでしょうか。 ところで、#14で、大変興味深い回答をいただきました。アフリカの黒人は、花を美しいと感じることはないそうです。従って、「花が美しい」は人類共通の感じ方でないことがわかりました。そこで、私の疑問は、古代4大文明の延長線の文明圏に住んでいる人々にとって、「花が美しいと感じるのはなぜか?」になります。全人類でないだけに、いっそう、不思議な気がします。 8>花を見て「美しい」と想うのが第一の矢です。つまり感受の段階です。 えーと、 私の当初の質問は、「花が美しいのはなぜ?」でしたから、ここでの私の質問は、「第一の矢は、なぜ、花を美しいと感じるのか?」になりそうです。というのは、「美しい」というのは、1>で登場した五感そのものではないように思うのです。もし、五感なら、全人類共通だと思うのです。 9>お釈迦さまの教えを聞いたものは、第一の矢が刺さった時点で、第二の矢が刺さるのを防げるので、昂奮することがないので、冷静で、穏やかに、安らいだ状態で、心健やかに暮らせる・・・というのです 仏教は、宗教であっても、何か思考を要求するところがあって、どちらかというと哲学に近い感じがして興味深いです。とはいえ、私自身は仏教について、ほとんど門外漢で、よくわかりません。ただ、禅語には、共感を覚えるものがいくつかあります。それで、最後に、上述の2>や4>と関連して、私の疑問を述べさせていただきたいと思います。 禅語の中には、花を織り込んだものが少なからずあります。 (1)柳は緑 花は紅 (2)百花春至りて誰がために開くか (3)花を弄すれば 香 衣に満つ 例えば、(1)では、それこそ、日頃、煩悩に取り付かれていると、「柳が緑で、花が紅? アホらし、当たり前じゃないか」となるのですが、その当たり前のことが、実は、「非常に有り難たい(奇跡的である)」ことに気付くとき、自然に心に「花や柳の美しさ」が感じられるようになるというものではないでしょうか。 また、(2)や(3)は、花は何かの目的を意識して美しくなっているのではなく、無心に咲いていることが、結果的に、万人に差別なく美しさを感じさせているということを詠っているように思います。 ですから、「花を美しい」と感じるのが煩悩ではなく、煩悩にとらわれなければ、「花の美しさ」を素直に受け止められるということになるのではないでしょうか?
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
美しいかどうかは別にして、殆んどの場合、花があのような色や形をして目立つのは昆虫などを引き寄せて受粉させるためであろうと思います。 これは言わずもがなで、ではなぜ人までが美しいと感じるのか、ということですよね。 論理的に考えると、これは単なる偶然であるとしか言いようがないような気がします。 美しいと感じる条件はいろいろあるでしょうが、花が昆虫などを引き寄せるための形状や色が、(多くの)人間にとっては美しく感じられるような要素を偶然含んでいた、というだけのことではないかと思います。 「植物にとっての必要性」と「人間にとって美しく見える」ということの間に相関関係はないだろうということです。 例えば棚田の風景なども上空から俯瞰してみると美しく感じられます。 しかし、そこで苦労してお米を作っているお百姓さんは美しく見せるために棚田を作っているのではないことと若干似ているようにも思います。 ただ、「天の恵み? 」という点に関して少し考えてみました。 生物としての植物は地球が生んだ子供のようなもので、基本的には月と同じように、人類の姉であると言っても良いように思います。 人類の深い記憶が、肉親への親近感としてその装いに美しさを感じているという解釈も全く否定することはできないような気も多少はします。
お礼
ご回答ありがとうございました。 >美しいと感じる条件はいろいろあるでしょうが、花が昆虫などを引き寄せるための形状や色が、(多くの)人間にとっては美しく感じられるような要素を偶然含んでいた、というだけのことではないかと思います。 そのように考えることもできるとは思うのですが、例えば、山、森、川、夜空の月や星などの自然も、やはり、人間には美しく感じられると思うのですが、それも、やはり、偶然とお考えですか? >そこで苦労してお米を作っているお百姓さんは美しく見せるために棚田を作っているのではないことと若干似ているようにも思います。 なるほど。それで、気付いたのですが、人間は、花に限らず、「何らかの秩序あるもの、調和しているもの」に「美」を感じるのかも知れませんね。 >生物としての植物は地球が生んだ子供のようなもので、基本的には月と同じように、人類の姉であると言っても良いように思います。 親戚同士の仲間意識ですね。そうであるなら、同じ人間同士なら、もっと血縁関係が強いのだから、互いに慈しみあって、戦争なんかしないはずなのに、なぜ、うまくいかないんでしょうね。
- ruehas
- ベストアンサー率68% (816/1194)
こんにちは。 kobareroさん。何度忠告したらこのような幼稚なスタンド・プレーをやめるのでしょうか。 >花が美しいのはなぜでしょう? 色々考えたのですが、うまい説明が見つかりません。 当たり前です。貴方の知識では、答えなど見付かるわけがありません。 このようなことは、生物学、進化論でも既に幾つかの説明が成されていることですから、ちょっと検索すれば調べられることですし、このサイトでも、何度も同様の意見交換が成されています。 貴方は、知識を得ようとしているのではなく、ただ独占的な解釈で自分の意見を主張をしているだけに過ぎません。他人の意見や既存の事実を受け入れられないのならば、質問する権利はありません。
- mogurayama
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こんにちは♪ 哲学というよりは、生物学に感じます。 哲学として考えられるのは 花が美しいと思う人にとって花が美しいわけでして 花が美しくない人には花は美しくないわけです。 菜の花が美しい人には、菜の花が美しく、 ひまわりが気味悪い人には、ひまわりは気味悪いのです。 人の価値観は、全ての生けるものに同じではなく また同一の個性でさえ、時間や空間の変化で 同じものを同じように美しいと感じなくなったりします。 哲学の観点で言えば 花が美しい理由は、私が花を美しいと思ったからです。 多くの人にとって美しいと感じる理由は やはり、その色彩と形状であり、機械や絵の具では 作り出せない自然に美を感じるからだと思います。 まぁ美の感じ方は先に述べたように人それぞれですが。 生物学的にはって考えると 頭悪いのでチンプンカンプンです。 でも、植物の身になると分かるような気がします。 花って生殖器なわけですから、 生物・・・我々でいえば あられもなく股をおっぴろげて頭を土につっこんで いるようなものですよね。 それが猛烈な数であちこちに ちりばめられているわけですよね。 その中で自分の生殖器に興味を持ってほしい!! とすれば、必然的に周りの色とは かけ離れた色になることでアピールするでしょう。 また、いいにおいを出すのも手ですし、 ねばねばさせて花粉をつけやすくするのも手です。 形状だって回りとは異なって目立つ格好にするでしょう。 花が人類に摘まれるようになったのは、 花の歴史からすれば一昨日からのことです。 被子植物が生まれたのは1億年前ですが ホモサピエンスが生まれたのは たった3万年前の事です。 人がもぎ取ることを避けるために 更に進化をするのには時間ともぎ取られる量が 少なすぎると思います。 こっちは生物学ですので、 まったく素人の意見ですが・・・ 私はお花好きですよ!! 参考になれば幸いです♪
お礼
ご回答ありがとうございました。 >あられもなく股をおっぴろげて頭を土につっこんで この表現、大いに気に入りました。売ってください。 >花が人類に摘まれるようになったのは、花の歴史からすれば一昨日からのことです。 そうなんですよ! 私もそこが不思議だったんです。花は未来を予測して進化したのかって。でも、逆だったんですね。花は、まさか、将来、人間に見初められて毟り取られるとは予測できずに、”あられもなく股をおっぴろげて頭を土につっこんで”しまったんですね。うーん、大いに納得。 花が進化して、美しくなくなる前に、大いに花を愛でましょう!
- ojizou-sam
- ベストアンサー率30% (12/39)
まとまりの無い文章ですが、そのまま投稿します。 たとえば「光」は「影」からできていますよね。 部屋が真っ暗であれば、あるほど「光」は光り輝きます。 だって真っ白な部屋にいくら光を放ったって、光り輝きません。 このことを逆にいうと「光」を作っているのは「影」なんです。 つまり「光」と「影」は、相互依存関係にあるんです。 二つで一つなんです。 「美しい」も「醜い」から出来ているんです。 だって、もし、この世に同じ種類の「花」しかなかったら・・・。 上から下まで一種類の花だらけだったら、美しいも何もなくなるんです。 美しくないものとの対比によってしか「美しい」は出来てこないんです。 じゃあ「出来ている」とは、具体的にどこに「出来ている」のかというと、我々の心の中に出来ているんです。正確にいうと「生まれる」んです。我々の心の中に、そのような認識が”生まれる”んです。 なぜ、そのような認識が生まれるのかというと、心が反応(動揺)するからです。 言い方を替えれば、いい意味でも悪い意味でも、心が不安定になると「生まれる」が起きるんです。 不安定な心からは、常に何かが生まれている・・・と言ってもいいのかも知れません。 「風」が生まれるのと同じ理屈です。 詳しくは知りませんが大気?の状態が不安定になると台風が生まれたりするんでしょ?(苦笑) 逆に大気の状態が安定していれば「風」も「波」も生まれてきません。 穏やかで安らいだ状態からは、何も生まれてこないんです。 暴れて、乱れている状態からは、次から、次へと、生まれてくるんです。 これを仏教では「煩悩」というんです。 検索したら「煩悩」とは人間の苦しみを生み出す精神の働き・・と説明されてました。 ・・・と、この話はしだしたら中々終わらないですが、花の美しさは「煩悩」であると想います。 「花」にしてみたら、ただそこに咲いているだけなのであって、 それに反応(動揺)した不安定な心(煩悩)が「花は美しい」を生み出すのだと想います。
お礼
大変おもしろいお考えありがとうございます。 >心が不安定になると「生まれる」が起きるんです。 この表現、気に入りました。 >花の美しさは「煩悩」であると想います。 これも、わかるように思います。 そこで、質問なんですが、「花は美しい」が煩悩であるように、「ウンコは臭い」も煩悩だと思うのですが、同じ煩悩同士で、なぜ、片方は「美しく」、片方は「くさい」と感じるのでしょうか? もしかしたら、質問が変?
黒く艶々したその輝き!ゴキブリだってほんとのところは見事な美しさなのかもしれませんね。 アリにしたって、蛇にしたって、いや生き物はみんな、審美的な目で凝視したら美しいのかも。 しかし、人間の美醜の感覚は、多分に感情的で、否定的な、あるいは警戒的な感情をむける対象には、審美的な目を向けることはしない。 それだけのことかもしれませんね。馬の縞模様がうつくしいからといって、さて、それは馬と人間の関係において、どんな意味があるんだ、などと腕組みしたりしないでしょう。なぜ花の美しさだけ、そんな意識で見るのかな。 花が人間に無関係に美しく咲いているとしたら、それが人間には許せない。 なにも人間の気をひこうとして美しいわけでもないのかもしれないのに、人間という生き物は、なぜおれに色目をつかってるんだ、とくる。それは万物の霊長という人間の傲慢さの反映なのかも。
お礼
>なぜ花の美しさだけ、そんな意識で見るのかな。 私は、馬のケツでも、ゴキブリでも、それなりに美しいと思いますよ。ただ、「花」以外は、必ずしも、その美しさを共感していただけないのではと思い、質問を「花の美しさ」に限定させていただきました。 ところで、何故、この世界(自然界)は、こんなに調和していて、美しいのでしょうか?
- 3980
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人間が花を見て美しいと感じるのは「美」というイデアが実在しており、個別の花に「美」のイデアが分有されているからである。 とかなんとか言っても矛盾を含むイデア論。。しかもコピペ 自然とは元来美しいものであって花は表現された一部であると思います。 人間がいなくても季節ごとに花は咲きつづけます。 誰のためでもなく。ただ咲き散るのみ。 山や川、海、空、自然はどれも神秘的で美しいです。 神の手が介在しているのではとつい思ってしまうくらいです。 ゴキブリであっても見ようによっては。。きっと。。たぶん。。 熱帯魚もきれいな色彩でおまけに早く泳ぐためというより美しく見せるために思えるヒレをつけたものもいます。 自然界では不利に思えるのに進化して勝ち得た特質なのでしょう。 人間が考える都合でなく魚なりの都合で。 花にも同じことが言えると思います。 人間にとって個の嗜好があるので美しさの基準やその時の感情に左右されてしまうようですが 花が美しいと感じる時、人間も美のイデアを有しているかもしれません。
お礼
>人間が花を見て美しいと感じるのは「美」というイデアが実在しており、個別の花に「美」のイデアが分有されているからである。 「美のイデア」が実在しているという考え方は、スッキリ割り切れていいですね。自然界が調和しているのも、「調和のイデア」か「理のイデア」が実在していると考えれば、スッキリ説明できます。でも、何故、最近、このような考え方があまりはやらなくなってしまったのでしょうね。自然科学の解明が進めば進むほど、自然界の調和の事実が判明していると思うのに、不思議です。 >神の手が介在しているのではとつい思ってしまうくらいです。 やはり、天の恵みではないでしょうか? >ゴキブリであっても見ようによっては。。きっと。。たぶん。。 ゴキブリの美しさを何に譬えましょうか? 平べったくつぶれたグリコ・アーモンド・チョコレート。これは、ひどい! でも、多分、美しいと思います。 >花が美しいと感じる時、人間も美のイデアを有しているかもしれません。 花が単独に美しいのではなく、それを美しいと感じる人間の心があって初めて美しいので、確かに、人間の心の中に「美のイデア」があるんでしょうね。
- nabayosh
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そろそろ出番ですかね。 kobareroさんの「天の恵み」説を裏付ける回答からはじめてみましょう。 自分勝手な仮説ですけどね。 人類の歴史にとって植物は重要な意味を持っていたのではないでしょうか。 植物を草食動物が食べ、それを肉食動物が食べるという食物連鎖に関わって生きている人類は、やはり基本となる植物をバロメーターとして考えていたと思います。 つまり、草が生い茂ると牧畜は健やかに育ったり、肉食動物もそれにつられて肥えたりするわけです。 なぜここでバロメーターになったのが動物ではなくて植物なのかということを考えると、それが基本であるということもそうなのですが、なによりも植物は動かないというのが重要だと思います。 動物は、天候が荒れているところを避けることができますが、植物は一度根付いてしまったら、そこから動けません。それゆえ、その土地の肥え具合を見るには植物を目安にするようになったと思われます。 もちろん、人間も植物の実りを期待するのですが、実がなる前に収穫を期待することができるのが花だったのではないでしょうか。花に元気がないようだったら、実りは期待できないということになります。 そしてもちろん、花が咲くために大事なのはもともとの土壌だけではなく、天候ですから、よい花が咲くことは、天の恵みによる実りの豊かさと解釈することもできます。 (もちろん、ここでは天と言っていますが、大地信仰もありますし、今思われるような天に限定して考えない方がよさそうです) 花が咲くということは、その植物の生命力(をもたらす大地の力?)があるということですから、これを愛でようとする考えが花を美しいものとする伝統を生んだのかもしれません。 さて、私はこのような仮説を立てたわけですが、実は本音は違います。 「花はなぜ美しいのか?」という問いそのものに問題意識を向けなければならないのではないかと思います。 「花は本当に美しいのか」をまず考えなければなりません。 例えば嫌なことがあって心穏やかでない状況にある人がいたとして、その人は一輪の花を美しいと思うでしょうか。 常に美しいと思えるものでなければ、つまり心持ちひとつで美しくなったりならなかったりするならば、「美しさ」というものが花そのものに内在している、というのは無理な考えなのではないかと思うのです。 これは花だけに限らず、人間の美醜などにも言えそうなところです。 私がもう1つ考えるのは、「花はなぜ美しいのか?」という問いは、植物の他の部分、葉や茎や根を美しいと思わないのはなぜなのか、という逆質問も併発するのではないかということです。 もちろん花が目立つということはあるでしょうが、私は葉も茎も根もそれなりに美しいと思えるところがあります。 ついつい花にばかり気をとられてしまい、全体を見ることができないのが人間の性なのかもしれませんが、この問いは「なぜ花に限定するのか」というところをじっくり考えた後でないと設定できない問題のようにも思われます。 案外、すべて美しいのかもしれませんよ。
お礼
またまた、ユニークなご回答ありがとうございます。 花は肥沃な土地のバロメータであり、それに惹かれた人類が繁栄するという流れですね。nabayoshさんは、進化論との関係をどう考えておられるのかわかりませんが、この考えで行くと、進化論的にも筋が通っているようですね。 >常に美しいと思えるものでなければ、つまり心持ちひとつで美しくなったりならなかったりするならば、「美しさ」というものが花そのものに内在している、というのは無理な考えなのではないかと思うのです。 これは、例えば、親に対する愛情はベースにあっても、時には、腹が立って憎らしく思うのと同じで、「花」に対しても、ベースは美しいと感じるけど、時によって自分の気分が悪いと、別に美しくなんかないと感じるようなものではないでしょうか? >「美しさ」というものが花そのものに内在している、というのは無理な考えなのではないかと思うのです。これは花だけに限らず、人間の美醜などにも言えそうなところです。 確かに、論理的に考えても、花を美しいと感じるのは、「花」と「人間の心」の相互作用の結果ですから、「花」の側に、一方的に「美しさ」が内在しているということはないでしょうね。花と人間の心の「関係の中」に美しさが内在していることになりそうです。でも、そう言ってしまうと、「じゃ、花が美しいかどうかは、人による」ということになってしまいますが、私としては、「花が美しい」というのは、比較的広く認められている人間の感じ方だと思っているのですが。 >案外、すべて美しいのかもしれませんよ。 これは、正におっしゃるとおりだと思います。 実は、私の本音は、「花はなぜ美しいか?」を問うより、むしろ、「自然はなぜ美しいのか?」を問いたかったのです。ただ、範囲を自然まで広げてしまうと、自然の中には、通常の「常識」では「美しい」と思えない事例も少なからずありそうなので、まずは、花に限定して質問させていただきました。
- taco8ch
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チンパンジーには、 横向きの赤ピーマンに反応する脳細胞がある。 この細胞は青ピーマンには反応しないし、 赤ピーマンを縦向きにしても反応しない。
お礼
おもしろい話ですね。 ご回答ありがとうございました。
お礼
「モシ社会」の話、眼からウロコで、へーそういう社会があったんだとびっくりしています。早速、Webで調べてみると、太鼓の音だけで、王朝物語を伝える話がでてきて、「へー、へー、へー、。。。」の100「へー」です。これって、「トリビアの泉」に出せるんじゃないですか? 貴重な情報、ありがとうございました。 >花を植えたり、切り花をして鑑賞したり、自然の景色を愛でたりというならわしがない これは、書き言葉がないことと何か関係があるんでしょうかね。大変興味深いです。 >しかし、この二分法が正しくないことは、二〇世紀の中頃には確立した。 私は、本能か教育(+経験)かの二分法で考える傾向がありました。それをどう突破するのか、ご紹介いただいた本を参考に考えてみたいと思います。 どうもありがとうございました。
補足
川田順造さんの著書で、ご紹介いただいた『コトバ・言葉・ことば』、それと、『人類の地平から』を買いました。まだ、読み終わったわけではないですが、すごく参考になる本でしたので、あらためて、お礼を述べさせていただきたいと思います。 川田さんの言っておられる「文化の三角測量」という考え方は、大変示唆に富んでいて、様々な応用ができそうです。これについては、#22の補足でも少しふれさせていただきました。 どうもありがとうございました。