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北条時宗の評価、逸話
北条時宗についての皆様の評価をお聞かせ下さい。 名君なのか、それとも彼の周囲の人物に恵まれただけのか? 彼の功績は? 元寇への対策は彼の力なのか「神風」(運)なのか? また、彼は武芸に秀でていたようですが実際どうだったのか? そして、彼についての逸話、日蓮とは会ったことがあったのか?? などなど、宜しくお願いします。
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一言で言えば、強運に恵まれたと思います。 鎌倉幕府は武士の政権ですから、モンゴルと一戦交えることは当然ですが、勝つためには情報収集が必要なのに、彼は全くそれをやらず、強気一辺倒にことを推し進めます。 モンゴル軍と日本軍の戦力ですけど、数を除けば日本軍が有利と見ます。 日本軍は地の利を得た地元で戦いますし、個々の兵は戦闘意欲も旺盛で、モンゴル軍に引けはとりません。 一方、モンゴル側は馴れない敵地への遠征の上、いつもの大量の軍馬を連れて来れないので、お得意の騎馬戦が出来ず、軍を編成する朝鮮人はいやいや侵攻してきているので、戦意は上がらず、夜は不安だから船で寝ようとしたら台風で沈没したという状況です。 2度目の遠征は旧南宋の軍をあてていますから、こちらも士気は上がりません。 こういう状況が北条時宗にプラスに働いたので、幸いモンゴル軍を撃退できましたが、優秀な政治家とまではいえないと思います。 しかしながら歴史の評価としては、結果がよければ全てよしとしますから、運が良かったとはいえ、結果が良かったのですから、彼を大政治家と考えても間違いとはいえません。
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- Pinhole-09
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時宗は元寇の対処については、よくやったと言えるでしょう。 ただ名君と呼ぶのには、少しひっかかりがあります。 その点はさてき、時宗は運の悪い男です。 元寇に当たったからです。 神風と呼ばれた暴風雨により、元の船団が壊滅したのは、運がよいと云われますが、元寇ののち1286年、ベトナムに侵攻した元の船団も、そのあと1292年、ジャワに侵攻した元の船団のいずれも、暴風雨で壊滅しており、日本が特に運がよかったわけではありません。 私は元寇は避けられたのでは、ないかと思っています。 フビライは日本を統治下に置こうとは考えず、制圧した新羅の反乱軍への、援助をやめることと、朝貢して交易すればよいとの考えでしょう。 日本の先は海だけですから。 元の親書は漢文に慣れていた、日本人にはわかり辛くしかも高圧的であったと思われ、真意を掴めなかったのでしょう。 粘り強く交渉して平和的に解決すべきでしたし、可能だったでしょう。 ただしこれは時宗のせいでなく、実務を取り仕切っていた、側近の責任です。 20歳前後の時宗では、難しかったでしょうが、指導力を発揮して欲しかったですね。 しかも実務派の中の権力闘争があり、運が悪かったといえます。 ただ元の使者を殺したのは、どう考えても誤りで、時宗が最終決断したなら問題です。 もし日本が平和的に済んでいたなら、ベトナム、ジャワ侵攻も無かったかもしれません。 日本侵攻の失敗を隠すための、ものとも考えられます。 日蓮の書面は側近が処理し、時宗とは会っていません。
お礼
ご回答有難うございます。 ジャワ島侵攻にまで影響するとは 歴史のつながりとは大変奥が深いですね!!
- fe-shokugyou
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『名君』という表現が適切かどうかは、意見が分かれるところでしょう。それでも、『暗愚』という表現にはならないと思います。 最大の功績は、二度目の元寇襲来に備えて北九州に防塁を作り侵入を見事打ち破った事でしょうね。これには、既に御存知の通り当時の天候も味方となった事で時の大陸軍はほぼ壊滅に等しい状態で撤退したと言われています。
お礼
「名君」かどうかの意見が分かれるのは、どういった点でなのでしょうか?名君では無いと考える人は元寇を退けたのを「運」として考えるからなのでしょうか?それとも他にもまずい政策などがあったのでしょうかね? ご回答有難うございました!
お礼
「運」ですか。なるほど、島国だったのも幸いだったようですね。 分かりやすい解説有難うございました!!