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北条時宗が元に対して強硬だった理由

北条時宗が元に対してあそこまで強硬だった理由はなぜでしょうか? 元と話しあう気がまるでない様です。 最初の無礼な国書に腹を立てたせいでしょうか? 結果として勝ちましたが、当時時宗は勝算ありと見ていたのでしょうか? それとも勝算など度外視した戦いだったのでしょうか?

みんなの回答

noname#224207
noname#224207
回答No.10

No.3.7です わざわざお礼を記入頂きありがとうございます。 補足を頂戴しましたので、追加の説明をさせて頂きます。 >地侍とは一体なんでしょうか?地頭とは違うのでしょうか? 違うといいますか、地侍の中には地頭になった奴もいる、とお考えになられた方が宜しいかと思います。 そもそも混乱された原因は多々あります。 「侍」とか「武士」という言葉自体が、教科書や文献と慣用的な使い方とでズレがあります。 教科書や文献も臨機応変といいますか、その時々で都合良く使っています。 印象としましては、官許といいますか身分制度上の定義とか説明の際の使い方と、歴史事象の説明の際の使い方にズレがあります。 史実説明の際には、官の認可とか身分格付けとは無関係な人間をも含めて説明しています。 身分体制が整った江戸時代には、実は武士なる階級も「士」と「卒」とに厳密に分けられていました。 さらに、この士卒階級にも属さない「郷士」と呼ばれる人間もいました。 有名なのが幕末の新撰組です。 新撰組のメンバーは士卒ではなく郷士でした。 近藤勇が切腹ではなく斬首で処刑された原因もこれが元になっています。 明治になって戸籍制度で「士族」という階級を設けた際に「士」も「卒」も「郷士」も全部一緒くたにしてしまいました。 お江戸の武士が聞いたら目を剥くでしょう。 地侍と言いますのもこの手の言葉です。 出自がさまざまです。 地頭という言葉は、取りあえずは鎌倉獏府内での身分呼称です。 厄介なのが、江戸時代にも領主を意味する言葉として慣用的に使われていました。 これをときどき時代小説家が流用しますので、混乱に拍がかかります。 歴史解説書には地侍の他にも国人、 悪党、領主、名主、、乙名、沙汰人などといろいろ出てきて訳が分からくなります。 以上のような混乱は「村」と呼ばれる社会集団呼称ができてきた経緯に関係しています。 実は、村という生活様式といいますか社会制度の方が、武家政権よりも早く始まっています。 村としての制度を維持するための習慣的な法制度も早く出来上がっています。 鎌倉時代以江戸政府までの間の為政者が農村を統治する制度は、全てこの自然発生的に出上がっていた制度を自分の組織に組み込んでいっただけです。 この村の制度から生まれた武装勢力と、天皇の系譜から生まれた源平という武装組織という二系列の流れがあります。 この二つの流れが統合される過程の時代が鎌倉時代です。 平清盛や源頼朝が天皇の系譜から派生した流れに属していたのに対して、頼朝の配下は村制度から派生した集団であったといういわば二重構造になっていました。 この村の制度から生まれた武装勢力が地侍と呼ばれる人達です。 頼朝挙兵に加担した連中を地頭という名称で幕府の制度下に組み込んだのが頼朝の鎌倉幕府です。 村の制度から派生した連中が主導権を獲得していったのが戦国時代です。 村の制度から生まれた自治組織を徹底的に利用して、その上に乗っかっていたのが江戸幕府です。 江戸幕府もこの自治組織を無視すると自分達が乗っかっている御神輿がなくなって、いわば梯子を外されることになりますので歴代苦労しています。 「一揆」と呼ばれる行動によく現れています。 1532夜『一揆の原理』呉座勇一|松岡正剛の千夜千冊 1000ya.isis.ne.jp/1532.html この歴史的な関係を欧米の真似をしてぶち壊したのが明治政府です。 >源平や北条にも損得はあるから彼らは損得よりも矜恃を大事にする人たちで、その後の地侍たちはそんな矜恃持ってないから損得だけで動くということですかね お互いに出自や存続基盤がそれぞれですから、結果としては違った対応にならざるを得なかったでしょう。 最近は為政者側からだけでの見方ではなく、社会基盤である農村側からの見方に基づいた歴史研究が盛んになってきています お暇なおりに目を通してみてください。 図説 尼崎の歴史-中世編 - 尼崎市立地域研究史料館 www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/chronicles/visual/02chu... 「武装した在地領主」という項目があります。 中世のむら ―大地への刻印 - 水土の礎 suido-ishizue.jp/daichi/part1/03/04.html 村の発展と様子が図入りで説明されています 村落の立地と機能 - H555.net www.hm.h555.net/~azeta/09tiri_b/23/sonraku.html 「村」という言葉に関する用語の説明があります 「中世村落の総合的復原研究-備中国新見荘の歴史と ... - 早稲田大学 www.f.waseda.jp/ebisawa/ebisawa/info01-houkoku.pdf 新見氏という国人(地侍)の役割の説明がされています 新しい歴史教科書・その嘘の構造と歴史的位置・中世の日本批判20 ... www4.plala.or.jp/kawa-k/kyoukasyo/2-20.htm タイトル通り主義主張に基づいて書かれていますが、ある意味では分かり易いです。 正しいかどうかは別です。 チョットご趣旨からはずれたかも知れませんので、再度補足をお願いします。

  • titelist1
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回答No.9

国書が来るまで幕府はモンゴルのことはまったく知らなかった。その後の幕府の文書に蒙古と記されるようになるのです。当時のモンゴルは満州まで来ていたが、日本にしては遥か遠方の地であった。現在でも満州の地がどうなっているのを日本人にはよく分らない。日本に来ていた中国の宗の僧侶はモンゴルを野蛮人と教えたに違いない。 国書が届いても、幕府は朝廷にそれを送っているので、外交のことは朝廷まかせなのです。幕府と言っても支配地は全国統一ではなく京都より東側だけです。幕府が自分で調べようにも東日本だけの支配地では手の打ちようも無かったと思われる。その点、朝廷が返書を送らなかったのは賢明であった。最初の国書は高麗が代筆した国書であったからです。 朝廷には武力がないので幕府が支配する御家人に国土防衛を頼むしかなかったのです。幕府は元寇によって後の戦国大名になった大内、菊池、島津などの御家人を九州に定着させることになり、初めて全国統一できたのです。

  • titelist1
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回答No.8

高句麗はモンゴルに滅ぼされてはいなかったが、モンゴルには逆らえなかった。 無礼な国書だがモンゴル帝国の意向が反映されていた。昭和期に日本が大東亜共栄圏の国に送った国書にも「兵を用いるに至る」と書いている。支配を目論む国書とはそのようなものです。 高句麗は日本がモンゴルになびかず、モンゴルが諦めることを望んでいた。戦にしたのはモンゴルで日本は戦を望んではいなかった。 高句麗は悩んだと思います。日本がなびけは高句麗は滅ぼされる。なびかなければ先兵となって日本への攻め込みを命じられる。結果は滅ばされたくないので後者を選んだ。元寇はほとんどが高句麗の兵で膨大な費用で船も作らされ、嫌々日本にやって来たのです。 幕府の執権が宗の僧侶の言いなりなのは、当初はモンゴルの存在すら知らなかったのです。何も知らないので僧侶の言うことを鵜呑みにするしかなかったのです。宗の僧侶は日本が滅ばされても、徹底抗戦してほしかったのです。その点では朝廷の対応は賢明であったのに、それを握りつぶさせたのです。 元寇は2回あったが、海岸線に防塁を作ったのは1回目の後です。1回目は脅かしに来ただけでした。3回目も計画されていたのですが、宗を滅ぼしてベトナム進行に失敗をして日本侵攻を諦めたのです。日本とベトナムは中国の侵攻に抵抗し勝利した国なので、現在の中国侵攻にも協力して対抗すべきなのです。

subetenoaruji
質問者

お礼

titelist1さん、いつも回答ありがとうございます なぜ幕府はモンゴルのことを知らないなら自分で調べなかったのでしょう? 他国の者が言うことだけを自分で調べもせずに疑いもなく信じるなんて武将としてあまりにも愚かすぎると思うのですが 朝廷の対応はどのようなものだったのでしょう? 回答ありがとうございました。またお願いします。

noname#224207
noname#224207
回答No.7

No.3です わざわざお礼を記入頂きありがとうございます。 お礼の中に疑問といいますか感想がありましたので、些か愚考をさせて頂きました >その後の時代で敵が強いと見ると戦わずして降伏したり寝返ったりして戦を回避しようとする動きがよく見られますが、これは鎌倉武士とその他の時代の武士の思想の違いによるものなんでしょうか? 思想の違いといいますか、武士なる階級の構成員の歴史的な差があるのではないのかと思います。 鎌倉幕府の開幕当初に頼朝が守護・地頭を設置したとされていますが、実態はすでにありました。 頼朝はこれらの人達に公人としての資格を朝廷に認めさせて、幕府の組織に組み込んだだけです。 守護は、承平年間に朝廷が地方の治安維持のために設けた追捕使が原型となっています。 地方の行政組織としては、平安時代には、奈良時代から引き継いだ国司がいました。 当時の国司は現在の都道府県庁と同じように戦闘用の武力は所有していませんでした。 荘園の所有者が都に在住していて、荘園内の経営は地元任せの状態でした。 この荘園が拡大した上に治安が悪化したために設けられた、いわば治安部隊です。 当時朝廷には、軍隊に相当する機能を持った組織は存在せず、全て侍と呼ばれる階層に丸投げしていました。 平安朝廷は国軍を持たない王朝という世界史に例をみない特異な王朝でした。 これを専門に請け負っていたのが源平と呼ばれる氏族です。 彼らは旧来の公家階級に対する新興階級でした。 結果として新興階級としてのプライドといいますか「「武家らしさ」ということが重視されていました。 同時に、いかに武家らしいか、ということを標榜していました。 この階層の連中が守護という公人格を手に入れて組織として朝廷から委託を受けて統治を始めたのが鎌倉幕府です。 地頭というのは、荘園内で自然発生的に治安維持を担っていた武力集団が公人格を得たものです。 極端に言えばヤクザの親分のような社会的性格を持っていた連中です。 いわば荘園内の集落を縄張りにしていた連中です。 後の室町幕府はいいかげんで、全国統治などという面倒な仕事を放置してお茶だ絵画だ文化だと遊びほうけていました。 結果として地方の人々は自衛手段として村落という形態を発達させてました。 現在の農村風景の原型はこの時代に創り上げられたものです。 この自治組織が自警団として武器の取り扱いになれた連中に委託しました。地侍と呼ばれます。 他の村落とのトラブルの解決も請け負っていました。 当然自村の損得を勘定に入れながら行動していました、 これが拡大したのが戦国時代の武将、ときには戦国大名と呼ばれる人達の原型です。 発想の原点には、自分の領地全体の損得を考える思考方法が受け継がれていました。 この思考方法が主力となって表れたのがその後の時代の武家です。 強そうだから負けそうだから、という発想ではなく、どちらに与したら得になるかという発想です。 敵対していても、他者に対して有利になると判断すればその場で手を組みますし、友好関係でもその場で損になると判断すれば手を切りました。 何分にも一族郎党の命がかかった判断ですから、情や義理等にはかまってはいられない時代だったとお考えください。 講談や時代小説の世界ではありません。 >鎌倉武士は敵がいれば戦い、負ければ自害する。というふうに潔くみえます。戦国時代のように敵に腰を低くしてまで長生きしようなんて考えは思いもよらないというように見えます。 鎌倉武士と仰られておられますが、平家物語や源平盛衰記などからくる印象ではありませんでしょうか。 武家階級としての矜持を持った源平氏族の戦と地侍あがりの連中が争っていた時代とでは自ずと行動が異なってくるのは止むを得ないのではないのでしょうか。 一口に武士といっても内実は、その時代その時代で違っていました。 江戸時代でも初期と末期とでは全く気質が違います。 まぁ~歴史をその時代の価値観で見る、ということの難しさです。 実は元寇の頃にはこの地侍の意識というのは芽生えていました。 有名な蒙古襲来絵詞も地侍のなれの果てであった竹崎季長が幕府に戦功を認めさせ恩賞としての領地を獲得するのを狙って作成させたものではないかとされています。 いわば自分の利益のための恩賞目当ての連中が既に存在していて参戦していたことになります。 鎌倉時代といえども中には戦国時代と余り変わらない発想行動をする連中もいました。 源平の矜持を持った北条一族のような人達ばかりではありませんでした。 以上ですが、何かあれば補足で追加願います。

subetenoaruji
質問者

お礼

ichikawaseijiさん、お礼遅くなって申し訳ありません。 いつも回答助かってます。

subetenoaruji
質問者

補足

ichikawaseijiさん 地侍とは一体なんでしょうか?地頭とは違うのでしょうか? 源平盛衰記のことはよく知らないのですが、言われてみれば平安時代後期から鎌倉鎌倉幕府滅亡までの源氏や平氏や北条の武士のイメージです。 源平や北条にも損得はあるから彼らは損得よりも矜恃を大事にする人たちで、その後の地侍たちはそんな矜恃持ってないから損得だけで動くということですかね

  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.6

1266年、モンゴルは高麗王朝に使者を出して東方を順化せしめよと命じたのです。高麗は日本が良い返事をしないと判断して使者を旅出させたが途中で帰らせたのです。日本との戦いになると高麗が苦しむからです。 モンゴルはこの態度に怒り高句麗に書かせた国書を日本に届けるように命令した。その国書は大宰府に届き、40日後に幕府に届けられ、1ヶ月後に朝廷に奏上したのです。朝廷は20日連日議論し返書を出さないと決したのです。「大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉ず」から始まり「相通を好まざれば兵を用うるに至る」と書かれていたのです。 翌年1267年に二度目の高麗の使者が日本に来て、数ヶ月大宰府に留め置いて返事も持たせずに返したのです。1268年に三度目の使者には蒙古人が含まれ、対馬島まで来て日本人二人をモンゴルに連れ帰えり、モンゴルの繁栄を見せて、モンゴル人とともに日本に来たのです。四度目の使者です。朝廷はこれには返書を送ろうと返書草案を作り帰らそうとしたが、幕府はこれを握り潰したのです。 無礼であったのは幕府なのです。 幕府は禅宗を宗教としていたので中国の宗の僧侶が多数来ていた。モンゴルが日本に国書を送ったのは中国の宗を滅ぼすために日本を味方に付けるためであるが、宗からの僧侶はこれに反抗するように幕府に働きかけていたので、幕府はこのような態度を取ったのです。 高句麗に書かせたモンゴルの国書が強圧的な態度である理由は日本がモンゴルになびくと高句麗がモンゴルに飲み込まれることを恐れたからだと言われています。 幕府は西国の御家人に防備を固めるようにめいじているが、御家人は熱心ではなかった。勝算など無く、宗からの僧侶の言いなりだったのです。運良く勝っただけです。 日本の歴史・中央公論・蒙古襲来からの抜粋です。

subetenoaruji
質問者

お礼

titelistさん、いつも回答ありがとうございます。 >日本との戦いになると高麗が苦しむ >高句麗に書かせたモンゴルの国書が強圧的な態度である理由は日本がモンゴルになびくと高句麗がモンゴルに飲み込まれることを恐れたから ここ矛盾してるように思うのですが 高麗はいったいどうしたかったんでしょうか? イキナリあんな無礼な国書送ったら戦さになると思うのですが 日本を怒らせず日本がなびかない国書書かないとダメだと思うのですが あと当時高麗はとっくにモンゴルに飲み込まれていたのでは? 幕府はなぜ宗の僧侶の言いなりだったのでしょうか?奴らの言いなりにならなきゃいけない理由はどこにも無いと思うのですが いつも回答ありがとうございます。またお願いします

回答No.5

強硬と言うか時宗は単に元を知らなかっただけです 元々お坊ちゃま育ちで政治外交は重臣安達康盛任せ これでは…ねぇ

subetenoaruji
質問者

お礼

azuki-7さん、いつも回答ありがとうございます 時宗は元を知らなかったんでしょうか? 亡命してきた宋の僧侶たちとたくさん交流があったと聞きましたが 安達泰盛に政治外交を全部任せてたんですか? 最初的には時宗が決定していたのではないのですか? 回答ありがとうございました。またお願いします。

回答No.4

<最初の無礼な国書に腹を立てたせいでしょうか?> 蒙古からの国書に、 「大蒙古国<皇帝>は、書を、日本<国王>にたてまつる」「相通好せざるは、あに一家の理ならんや。<兵を用うる>に至りては、それ誰か好むところぞ」 とありましたので、日本を属国としていること、従わなければ攻めるぞ!とあること、これらを許せなかったのでしょうね。 (鎌倉)幕府から報告を受けた朝廷公家衆は、「非礼」「返信不要」を決定、これを幕府に伝えました。 この決定を受けた幕府執権・北条時宗による、蒙古に対する挙国一致の抗戦体制は、ここから始まったようですね。朝廷の意思、それですね。

subetenoaruji
質問者

お礼

takeruhikoさん、回答ありがとうございます。またお願いします

subetenoaruji
質問者

補足

ということは時宗の強硬な態度の理由は無礼な国書へ対する怒りってことですかね

noname#224207
noname#224207
回答No.3

北条時宗という人物の評価は第二次世界大戦を境に180℃変わった人物です。 江戸時代にも、国学者が贔屓にしてはいたようです。 現在も、巷間ではどちら側からかの視点で云々されているようですが、管見では全て結果論に基づいて類推したものではないのかと思います。 当時の時宗と言いますか、武家政権としては、ごくごく当たり前の対応だったのではないかと思います。 元が送ってきた国書なるものの内容を知りませんので推測になりますが、当然冊封体制に入れという趣旨だったのではないのでしょうか。 少なくても、対等の国として親善関係を結びましょう、などという類のものではなかったでしょう。 何の付き合いもない国の国主からいきなり、オレの配下になれ、と言われてハイわかりました、とは誰も言わないでしょう。 国際感覚がどうのという以前の話でしょう。 前後して高麗で元に歯向かっていた、三別抄から援軍の要請が来たのも黙殺しています。 縁もゆかりもない国どうしのゴタゴタに関与しなくてはならない積極的な理由がなかったためでしょう。 当時の鎌倉幕府に朝鮮半島経営などという発想は毛筋ほどもありません。 日蓮を流刑で流したにもせいぜい佐渡島です。 大航海時代の秀吉とは時代の発想が違います。 しつこく国書なる手紙を押し付けてきた挙句に恫喝の使者が来れば、当然首をはねます。 軍使の首をはねるのは、話し合いの余地なし、ということの回答であることは、武家の作法としては、当然の行為です。 現在のような感覚で軍使を見ると誤ります。 これは、別に日本だけではなく、万国共通の回答方法です。 軍使というのは、何時の時代どこの国でも命がけの仕事でした。 自分の首が返書がわりになることを承知で出かけていました。 古いハリウッド映画の「アラモ」でも、スペイン軍の最後の軍使に向かって大砲をぶっ放して返事をするシーンがあります。 (you tubeで見れます) 以上のように強硬でもなんでもありません。 武力を背景として政権を維持している国の長であればごく当たり前の対応をしたのではないのでしょうか。 元側の史料によれば、 斬首の報せが元に届く前に、クビライは日本征服の戦艦の造船を開始していました。 更に、軍使の斬首の報せが元に届くと、迂闊に元から反応を示さないことに決していました。 つまり、軍使の首を切るという返事があることは充分承知していたと考えられます。 軍使の首を切ったらから元が攻めてきたという理屈付けは成り立ちません。 勝つ見込みがあったかなかったか以前の話です。 戦を生業としている武家に負けるかもしれないからなんとか話し合おうなどという発想はありません。 駆け引きの余地があるかどうかの判断だけです。 戦争は止めましょう平和に話し合いましょう、などという現代の価値観で考えると誤解が生じます。 蛇足 元がユーラシア大陸を席巻して史上最大の帝国を築いたとされていますが、人口の少ない蒙古族が一々戦闘をしていた訳ではありません。 攻略した部族に次々と戦闘をさせていただけです。 監視員を兼ねて王侯貴族の子息が派遣されていただけです。 現に、博多へ押し寄せてきた軍勢の大半は高麗人でした。 詳しくは下記のサイトをご覧下さい キプチャク - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/キプチャク バトゥ - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/バトゥ 巷間では、ロシアの首都モスクワも攻略したなどと言っていますが、そもそも元の時代にロシアという国家は地上に存在しません。 後にモスクワ大公国がでかくなっただけです。

subetenoaruji
質問者

お礼

ichikawaseijiさん、いつも回答してもらってますね。 戦を生業としている武家に負けるかもしれないからなんとか話し合おうなどという発想はありません。 駆け引きの余地があるかどうかの判断だけです。 確かにその通りですよね。 でも、その後の時代で敵が強いと見ると戦わずして降伏したり寝返ったりして戦を回避しようとする動きがよく見られますが、 これは鎌倉武士とその他の時代の武士の思想の違いによるものなんでしょうか? 鎌倉武士は敵がいれば戦い、負ければ自害する。というふうに潔くみえます。 戦国時代のように敵に腰を低くしてまで長生きしようなんて考えは思いもよらないというように見えます。 いつも詳しい回答ありがとうございます。またお願いします

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.2

海外情報の多くは公家が握っていて、時宗には 十分な情報が伝わってなかった、という面が あります。 後は、外交に不慣れだった、という点も指摘 されています。 外交に馴れている公家と異なり、なにしろ武士ですから 強硬路線に走りたがるのです。 売られたケンカは買う、ということです。 公家にやらせておけば、もっと上手に処理していた という説もあるところです。

subetenoaruji
質問者

お礼

hekiyuさん、回答ありがとうございました。またお願いします

subetenoaruji
質問者

補足

時宗が亡命してきた南宋の禅僧たちとたくさん交流があったと聞いたのですが海外情報を十分持っていなかったのですか? 戦さを本分とする武士が相手のことを知りもせず戦ったのでしょうか? 時宗の対応は外交に不慣れなゆえの対応なのでしょうか? 初めから断固として徹底抗戦すると決めていたように見えます。 武家なんだから戦うのは当然なのではないでしょうか? 公家の外交ってのらりくらりと躱すだけで、結局相手が武力にうったえてきた場合には無力だと思うのですが、あの時の時宗以上に国を守るために公家に何かできたんでしょうか?

  • lions-123
  • ベストアンサー率41% (4360/10497)
回答No.1

>北条時宗が元に対して強硬だった理由    ↓ 端的に言えば「井の中の蛙:情報不足と世間知らず」 特に、文永の役では名実ともに条件反射的な対応であり、弘安の役では一応の元への対応策や防御計画・撃退戦法の工夫等が見れる。 元&高麗に対する戦力比較や勝利への戦略&軍事シュミレーションが無く、威圧的な書状に怒り心頭、マーケティングの無さと裸の王様的な過信が無礼な申し入れに対する怒りをして条件反射的に決断を左右させた。 それが、結果的には国家方針、危機管理に結び付き、大本営(鎌倉政権)は無能無戦略でも、俗にいう神風と成れない船上生活や長期遠征疲れ、高麗軍の指揮の低さ、元と高麗の連携の無さにも助けられ、九州の御家人のマンパワーが時間稼ぎ・善戦を行い、それが外敵から身を守る愛国心や挙国一致の方向に纏まり、鎌倉武士や御家人の矜持によって長期的ビジョンや戦略的判断の勝利と言うよりは飛び来る火の粉は払わねば成らないと言う流れで展開オーソライズされ、相手側の指揮の低さ厭戦気分に内紛や疾病も加わり、天候の悪化もあって、持ちこたえ撤退させたのが実情・経緯ではないだろうか・・・。 それが時宗の英断や勇気と表面的には見られ称賛されるが、実態としてはリスクの大きなバクチで勝利を呼び込んだ。 奇跡を功績に置き換える他力本願や天佑神助・神風信仰のベースに成っているのでは・・・

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