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なぜ英語やるの?
どうして英語を学ぶのでしょうか? 学校では英語は必修科目になっています。もちろん受験で必要だから学ぶというのもあります。 しかし、受験で必要ない生徒たちもいっぱいいます。そんな人たちにとって英語を学ぶ・学ばなければいけない理由って何なんでしょうか? 外国旅行にいったり、道で外人さんに道を聞かれたり。そのために英語を勉強するってちょっと理由としては寂しいと思うし、そんな理由のためだけに多大な時間と労力をかけるのはちょっとどうかと思います。 それに基本的に学校の英語はコミュニケーション主体じゃないし。 理由もなくただやみくもにやるって、生徒にとっても不幸なのかなって思ったりもします。 皆さんにとって英語を学ぶ理由、特に受験以外で必要な理由って何ですか? 必要ないよ って意見でもOKです。考えをお聞かせください。
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面白い質問ですね。 私なりの考えを書かせて頂きます。 ■まず、私は英語が大嫌いでした。 勿論テストの順位は下から数えて一桁台に入ります。テストの点は0~3割。 中学2年の頃から嫌いになり、大学受験でも逃げ続けました。 幸い専門性の強い大学を選択したので、そちらの能力で入った様なものです。 それでも何故勉強しなかったか。 それはCchanさんが書かれた通り「英語を学ぶ理由」が理解出来なかったからです。 ・日本に居る限りコミュニケーションには困りません。 ・旅行で外国に行ってもツアーで行けば問題無いです。 ・私の学生時代は英語が喋れる大人は少なかった。しかし皆普通に生活している。 ・英語力を付けるより、専門能力を付けた方が将来有利。 上げればキリがないです。意味無い事はしたくないです。誰だって。 ■そんな私は現在30歳ですが、中学英語の参考書を必死になって解いています。 仕事中にもリスニングのCDを聞いています。24時間英語漬です。 10月には英検4級を受けます。中学生に混じって。物凄い恥ずかしさです。 そんな状況の中何故、英語を勉強し始めたのか。 それは「英語を学ぶ理由」が出来たから。 専門職の能力をより発揮し、私が考える物を開発するには、国内では無理で アメリカに行き、住み、ある企業で働く必要があるのです。 ■そんな英語苦手な私が思う、日本の英語教育に対して考える最大の欠点は、 英語という"ツール"を教えるだけに留まっている所だと思います。 ツールは目的に沿って使わなくては効果は出ません。目的が無くては意味がない。 例えると、目的もなくパソコン買う人達に似てます。 「必要だから」「皆やってるから」それではそのパソコンはいずれ使わなくなります。 勿論目的は人夫々違いますが、コミュニケーションを取る、という方法は同じな筈です。 ちょっとバブルな話ですが、修学旅行等でカナダやオーストラリア等に行き、 言葉の重要性を痛感する様な修学旅行であれば、考え方も変わるでしょう。 ■■英語が大嫌いだった元学生の言葉としては、 言葉がツールとして目的を果たせる、英語教育になる事を切に望みます。
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- 奈加武良 可春之計(@signak)
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「理由もなくただやみくもにやるって、生徒にとっても不幸なのかなって思ったりもします。」ということであれば、化学や物理や古文などは勉強する理由があるのでしょうか。一体高校では何を学習すればいいのでしょうか。 英語に限りませんが、学校で学ぶということはその教科をマスターするほかに、学習を通して、社会人として必要な考え方の基本が身に付くという利点があります。 英語で考えること、数学で考えること、国語で考えること、それぞれ違いがあり、それらが総合的に噛み合って深みのある思考方法、社会人として必要な思考方法を形成するものではないでしょうか。
お礼
その教科自体を学ぶというよりも その教科を「通して」学ぶ っていうのはいいですね。 教科を教えるその先を見通して教えておられる方が少ないかもしれません。なかなかそんなこと考える暇ないですからね
- lazyage
- ベストアンサー率15% (5/32)
質問者のように受け止めているのであれば(その考えを批判しているわけではないですよ。どう感じるかは個人の自由ですからね)英語を学ぶ必要もないし、その理由もないですね、確かに。 今の日本では英語なんか使えなくても問題なく生きていけますし、海外旅行にもいけますから。 自分の場合、英語というものは選択肢を広げるための手段として学んだものですね。 自分にとって、たまたまそれが英語だったということでしょう。ですから、状況が違っていれば、それがフランス語だったかもしれないし、野球だったかもしれないし、音楽だったかもしれないし、まあ、色々あるうちのひとつですね。
お礼
たとえ、将来使うことが無くとも選択肢が広がるということでしょうか。 音楽にしろ数学にしろ。 直接使わなくても、将来の選択が広がりますよね
- Bflat
- ベストアンサー率24% (6/25)
No.22の回答へいただいたお返事への補足みたいなものです。 書かれていた- ”旅行の時なんかで感じるのですが、旅先で出会ったすぐとなりの国の韓国の人と話すのに「英語」ってのも妙な感じです。”-という部分です。 この場合どちらの国での出会いかというのもありますが、日本語が自然なのか韓国語が自然なのか、いずれにせよどちらかの言葉で話すのだとしたら結構面倒なことになります。今度中国の人とはどっち、オーストラリアの人だったらどっち、インドの人だったらどっちと、色んな言葉を話す必要が出てくる可能性があります。こういう時にとりあえず真ん中で折り合えるのが英語になっているのが現実です。 英語ができなければだめというより、このような人の広がりの輪に入りたいと考えるか、別にいいやと思うかということの違いと自分は言いたかったのです。ただ後者は今後寂しく感じることが多くなるかしれないなと。
お礼
いやいや。 お互いがお互いの母国語(日本語とか韓国語とか)が通じないからお互いが理解し合える英語で話すことになる。そのことが、おもしろいなって思ったのです。 とりあえず、英語はやはり共通語でしょうか
- Ganbatteruyo
- ベストアンサー率63% (4601/7273)
アメリカに38年住んでいる者です。 私なりに書かせてくださいね。 95%の時間を英語で生活しているわけですがその5%の内にここで私の考えを書いています。 英語と言うものが一種の「教養」の一部とみなされて、読むことと書くことを重要視してきた、と言う人が日本では本当に多いと思います。 だから、英語をしゃべることの出来る人は少ないし、仕方ないとも言います。 本当にそうなんでしょうか。 読み書きが本当に出来るのであればしゃべることはそれほど難しいことではないと私は信じます。 つまり、読み書きが出来れば文章を作れる、と言う事なのです。 文章を作ることが出来れば後は発音だけではないですか。 学校で発音を教えていない、と言う事はないですね。 教えているのです。 しかし、文章を作ることが出来ない、書いてあることが出来ない、インターネットで書いてあることが理解できない、と言う事はすなわち、読み書きも教えていない、と言う事になりますね。 確かに私は学校でもしゃべれるように教えるべきだ、といっています。 そして更に、しゃべれない先生が英語を教えている以上しゃべれるように教えられるわけはないとも断言しています。 また、多くの人が難しい単語や難しい表現を学校では教えすぎている、とも言いますね。 私も同感です。 いっそのこと大学受験に英語をはずしちゃえ、と言う人もでてきています。 私もこれには賛成です。 しかし、教育としての英語の勉強は「義務教育」のレベルとするのであれば英語を「一応」分かる程度でも、日本人として最小限の義務としての英語力を付けさせることは多いにできると思います。 今の時代に英語をぺらぺら出なくても、ジャパニーズイングリッシュでもいいじゃないですか。 そのレベルに教えることが出来ていないのです。 これじゃ、英語が出来る人と出来ない人、就職に特に出来る人と出来ない人、出来ない人・使う必要のない人の社会で出来れると言うことはその社会・会社で得をする人でもあります。 だからこそ、100人中かなり多くの人が「英語が出来たらいいと思いますか?」と言うアンケートにかなりの人は「出来たらいい」と答えると思います。 英語で生活する必要はまったくありません。 しかし、できる人がこれほど多くなれば必ず、危険・恐怖を感じる英語の先生、しておけばよかったと思う学校卒業生、子供にも英語を使えるようになって欲しいと思う、などと感じる人はますます多くなるはずです。 なぜなら、このままで行けば必ずもっと出来た方がいいと切実に思うようになるからです。 前置きが長くなりましたが、結局英語を昔どおりに「使えなくてもいい」「英語は学問である」「中学高校と英語を習っても他の学問と同じように使えるようになるために教えているのではない」「中学生への教え方、英語に対する興味を持たせる教え方を改善する必要よりも小学生のなスポンジのような頭に英語をなじませた方がいい」等と考えている教育制度がある限り、また、試験のため、つまり、試験があるのだから試験の答えとして採点しやすい方法に頼る教え方をする英語教育ではそのための勉強をすることになり、結局英語を使えるようになるためとは学生も感じないし、今でもは昔よりもっともっと学生の間に「学校英語と実際の英語とは違う物だ」と言う事実に接してきているのです。 私の場合は、中学一年で初めて英語教育に若い綺麗な英語の先生にめぐり合えた、と言う事が英語に興味を持つ事になりました。 女性先生の注目を得たいと言う男子の願望だったわけですね。 一学期だけで私の家族は引っ越してしまいましたのでその先生とはそれでお別れになったのです。 しかし、3ヶ月の間ゼロから始めて100の英語への興味がわき(邪推による物ですが)よく勉強したことが、今の私の英語の基礎を「自然」に身に付けたわけですね。 英語を学ぶ(がんばって勉強した)理由は先生への異性的憧れだったわけでそれが今回の回答なんです。 中学一年の先生が英語がぺらぺらで発音も聞き取りも(そして読み書きも)抜群で、試験にしても会話にしてもいい得点を取れるように教えることが出来、会話がしたい、映画を理解したい、など「英語は使う」もの(試験でいい点を取るのも英語に強いことになる)と言う土台中の土台をクラスの半分でもいいから作り上げることが出来れば、後は私みたいに「惰性で」身につくはずだと私は信じます。 しかし、今はそれが出来る先生にめぐり合える人は非常に少ないと思います。 しゃべれない先生や試験英語しか分からない先生が一般会話的表現を、例えば、「昨日アメリカの人とチャットしたんだけどこう書いてきました、なんていっているのですか?」「You're kiddingといってましたが、なんでこういうことを私に言っているのでしょうか?」なんて聞かれて、ちゃんと説明できないんじゃ「英語の勉強なんてしたくない」と感じてしまうのは当然なのではないでしょうか。 多くの会社でリストラが行われていますね。 いい点と悪い点があります。 しかしうまくリストラを行った会社は伸びているし社員もいい人が残りますね。 国鉄もしました。 電電公社もしました。 タバコもそうですね。 じゃなぜ、教師にしないのでしょうか。 これらのことを積極的にすれば、「英語を習うことを負担に思う」「学生時代をうまく使えなかった」と言う事が少なくなり、結局、今回の質問への回答は「使えるようになってよかったと言う人が多いのでそれに影響された」「必要はないかもしれないけどいつか恥ずかしい思いをしたくないから」なんていう回答が出てきてもおかしくないと私は思います。 英語が分かることで「得をした」と言う事が私の人生で大部分を占めますので、もっともっと身に付けたい英語がまだ残っていると私は感じるわけです。 (でも、小説家にはなれないな<g> それだけの英語力は私には無理でしょう) 最後に、このカテで書き始めてから5年過ぎましたが、本当に思うのは日本人自体が日本語の表現を意識的に理解していないため英語の表現を身に付けることをより難しくしていると思います。 これでいかがでしょうか。 分かりにくい点がありましたら、補足質問してください。
お礼
長いご回答ありがとうございます。 先生の影響、特に中1の時の英語授業の影響はすごく大きいですよね。その意味では、中一でいい先生に巡りあった回答者様はラッキーですね。 それと、「土台の中の土台を作る」という考え方には賛成です。その土台というのは、学習者自身が感じる必要性でありやる気だと思います。 教える側としたら実は、この「土台」こそが一番難しい部分で、「土台ができさえしたら」の「・・たら」が一番難しくかつ大切な部分なのだと思います。
- Bflat
- ベストアンサー率24% (6/25)
学校教育の中で英語を学ぶ意味が明確になってないんですよね。きっと。今の日常生活の中で必然性は感じられないし。 自分の意見ですが、インターネットの普及による人と人とのコミュニケーションは爆発的に広がっていると思います。政府間、企業間が中心となって国際的な対話を図ってきた時代から、個人対個人が担っていく時代に向かっているんだと思います。 現在英語は世界の公式な場での標準語になっています。中国でも英語教育に一生懸命になっていると記事で読んだことがあります。彼らもおそらく中国語が世界の標準語になることは難しいと感じているのだと思います。(本当のことはわかりませんが) 国境を越えて個人と個人が経済的にも、情報共有でも、友人としての交流でも、さかんにコミュニケーションを取っていく時代が確立された時にその共通言語は英語である可能性が一番高いと思います。 そんな時代のうねりにおいて行かれないためにも、若い人達に英語を学ぶ機会を学校教育の中で与えて、その必要性をきちんと説いて行く姿勢が大事なのかもしれません。英語ができればあういうこと、こういうことが可能になるかもしれないっていう可能性を語る部分ですね。
お礼
国連本部はアメリカだし、なんだかんだいっても やっぱり英語ですね。世界では。 旅行の時なんかで感じるのですが、旅先で出会ったすぐとなりの国の韓国の人と話すのに「英語」ってのも妙な感じです。 若者よ!英語をやれ!って感じですね。 でも、その前に国語をやれ とも思います。 ありがとうございました
- IXTYS
- ベストアンサー率30% (965/3197)
> しかし、受験で必要ない生徒たちもいっぱいいます。 そんな人たちにとって英語を学ぶ・学ばなければいけない理由って何なんでしょうか? Cchan こんにちは。 私の高校の英語の先生は隣の工業高校から移って来られました。 工業高校ではみんな英語の時間は寝ていたそうです。 私は大学を卒業し、ある化学メーカーに就職し、技術移転の仕事をしました。 工業高校を卒業した技術者を連れて海外でプラントを建設する仕事です。 ひとつだけいえます。 英語の出来ない人で『自分は英語が出来ないから海外には行きたくない』という人はひとりもいない。 ほとんどの工業高校出の技術者は『もっと英語を勉強すべきだった』といいましたよ。 私が造った法則はこういうものです。 (1) 英語の出来ない人ほど外国への憧れが強い。 (2) 英語の出来ない人ほど、外国へ行った事を自慢するものだ。 あなたはそうなりたいですか?
お礼
なるほど そうですか。 憧れっていうのは、コンプレックスと紙一重の微妙なもののような気がします。 平均的日本人って基本的にみんな持っているような気がします。 子供の頃に憧れていたオトナしか手が出せないもの、たとえば(成人映画・タバコなどなど)も、実際手にしたらたいしたことなかったりして。。。 私はまだその域にまでいってないのかな!? 実際に現場にたって問題に直面しないと人間は取り組まないものなのでしょうか ご回答ありがとうございます
- kitt323
- ベストアンサー率43% (36/82)
うーん、まずCchanさんの質問の意図は何でしょうか。 「必要のない人も多いのになぜ誰も彼も英語をやらねばならないのか」を知りたい、ということなのでしょうか? 最初は「英語なんてやりたくない!なぜやらねばならないのか」という趣旨にも思えたのですが、実際には英検1級をお持ちなんですよね?そのくらいの実力があるなら、英語を学習する意義もご存知なのでは、と思うのですが。 最後の文を読むと「自分の場合にはこのような理由で学習してきたが、他の人はどうなのか教えてほしい」という意味のように思いますので、それを前提にお答えしますね。 私個人にとっては「英語が好きだったから」ということで、他に理由はありません。英語がある程度わかるようになった現在、やっておいてよかったと思う場面は時々ありますね。 ・・・・・これで回答ということになります。 ついでに、英語が不要な人もなぜみんなやるのか、ということも考えてみました。結局日本という「島国」の特性もあると思いますが、食料にせよ産業にせよ外国に依存する割合が大きいわが国は外国と関わりを持たずにはやっていけません。 やはりこのことが根底にあって、学校では最低限基本的なことをやっていると言えるのではないでしょうか。高校までの英語は、卒業するだけならそう高いレベルのものではありません。難関大学を目指す人は将来それなりに英語を使う機会が出てくる(そういう進路に就いてくれることを大学が期待している)のだと思います。 昔は外国からの知識が書物で入ってくることが多かったため、英文を読解(和訳)することが日本の英語教育の中心になっていました。外国との直接交流が盛んになると、今度は「話せたり、聞けたりしなくては」ということでオーラルコミュニケーションが重視されるようになりました。 現在は、インターネットの普及により再び読み書きの能力が重視されるようになっていますね。
お礼
私の質問の意図が何かだんだんずれてしまって、他の方が一生懸命答えてくださってるので、直接それには触れず、くださった回答の中から自分なりの答えを見つけ出そうとしました。 私の質問の書き方が悪かったのかもしれません。 私自身、英語を勉強してきました。 私が知りたかったのは、多くの英語を必要としない人、したくない人が現実として存在しているという事実。そしてそんな中で義務教育という体系の中で教えねばならない、教わらなければならない人がいるという現状に何かの矛盾を感じたのです。 もちろん英語やる利点も皆さんが書いてくださった通りあります。ただ、私がここで取り上げたかったのは「英語嫌い人間」「必要性を感じない人間」にとってその意味を探りたかったのです。 ここに回答くださった方は、ほとんどの方が英語好きで書いてくださったのだと思います。 ただ、多くの方のご回答を読ませてもらう中で何となくぼんやりではありますが見えてくるものがあると思います。 話がややこしくなりすいません。
#13です。お礼、ありがとうございます。先ほどのお話の続きをします。それではまた別の例を。 ある旅行者でガイドを募集しているとします。 枠は3つあり、各一人ずつの募集です。一つは英語の話せる人。二つ目は中国語の話せる人。三つ目は日本語さえ話せればOKです。この場合、三つ目が最も易しいとは限らないんですよ。三つ目に物凄い数の人が応募したら 凄まじい競争率になります。その中から一人選ぶんですから、容姿から性格、その他厳しい審査を受けることになります。ですから、最も難しいのは実は3番目かもしれません。 二つの話とも抽象的な喩えになりましたが、趣旨をご理解いただけたでしょうか? それと、この質問の焦点である英語の必要性という面ですが、音楽や美術、体育だって必要ないと言えば必要ないと思います。音楽だって、本来は音を楽しむのが目的のはずなんですが、音楽が「音が苦」になっては本末顛倒です。私が思うに音楽の授業もいまだに戦時中の意志を引き継いでいる要素が0ではありません。 戦時中は ラッパの音に合わせて愛国心を高め、意思を統一する目的がありました。しかし、音楽というのは 個人によって好みも大きく違うし、これもまた理想とは程遠い教え方だと思います。 ただ、英語と違うのは 英語の方がウェイトが大きく、 嫌いな人も多いことでしょう。 それでは、教育の原点について考えてみます。日本の 義務教育の基本概念は 全員に均等な教育を施し、その上で優劣のランク付けをすることにあります。これは 音楽だけでなく、兵隊の養成教育に通じるものもあります。そういう前提で考えますと、英語というのも 実用性よりも、全員が学習して知識を共有することに意味があるのです。これは英語に限らず、こういう姿勢こそが日本が高度成長期にも 外国ほど貧富の差を作らず、多くの国民が中流意識をもつゆえんだと思います。ですから、英語は勉強したい人だけ勉強すればいいというのは、前回の回答でも少し示唆しましたが、 このような差別化教育が徹底すると、必ず社会格差が 広がり 貧富の差がより一層大きくなる引き金にもなりうるということです。
お礼
時代が変わり人の生活様式が変わるにつれて、教育体系も昔とは合わなくなっているところは多いと思います。義務教育の制度もそうではないでしょうか。 戦後、おそらくアメリカの教育制度の影響を強く受けたのだろうと推測します。GHQの影響で。 教育の機会均等という義務教育の本来の意味合いはもう薄れてきているのかな。 義務教育はともかくも、高校、はたまた大学まで総保育園化してきているといえば言い過ぎでしょうか。
- ryu_chan
- ベストアンサー率37% (69/186)
これは英語に限らず全ての科目にいえるでしょうね。私のような人間は、数学や理科は非常に重要な科目ですが、大半の人は卒業後、まず使うことはありません。 ヨーロッパの一部の国のように、小学校卒業後、大学進学コース・高等技術専門コース・普通技術専門コースみたいに選択させるのも手だと思います。 全く、個人的な意見を述べたいと思います。参考程度に聞いていください。 英語や数学を選択性にさせるのには賛成です。そして、上記のヨーロッパの国のように、早い段階で自分の将来を選択させるのもいいと思います。ただしこの場合、子供に強い自立心・客観的に自分を見られる力・将来、自分が何をしたいかを決められる力をつけさせる必要があると思います。親が子供の将来を決めてはダメで、子供にそれを決めることができる力を養うことが重要だと思います。 途中で予定変更をしたくなるかもしれません。それはそれでかまわないでしょう。大学に行きたくなったら、自分で勉強をすればいいでしょう。将来、自分がなりたい強い目標があれば、勉強もそれほど苦ではありません。 ただ、今これは機能しないでしょう。これを達成させるためには、段階を踏んで進めていく必要があると思います。もちろん、私の意見は共産主義みたいに、単なる理想論の可能性も高いですが。^^; でもこのような議論をする必要性はあるとは思います。実際、されているのかな? 家に、小2(女)と小4(男)の子供がいますが、学校でネイティブによる英語の授業がありました。二人ともその授業をすごく楽しみにしていて、英語を習いに塾に行きたいとまで言っていました。 言語を学ぶ楽しさは、やはり、異なる文化を持つ人とのコミュニケーションができることが大きいでしょうね。それから、知的好奇心をかなり刺激したみたいです。そういう意味でも、授業のあり方は非常に大切ですね。
お礼
日本の教育改革は大きなテーマですね。 小学生の英語教育が論議されていますが、子供さんが楽しんで学んでおられるということが何よりです。嫌になってしまったら元もこもないですからね。 貴重なご意見をありがとうございます
- ryu_chan
- ベストアンサー率37% (69/186)
個人的には二極化しているように感じられます。とりわけ日本は英語を知らなくても普通に暮らせる国ですから。中高で英語を学んでも、結局使う機会がないのでほとんどの人が忘れてしまうでしょう。 自分がもし仮にバスの運転手になっていたとしたら(実はなりたい)、英語なんて全くしないでしょう。英語を学ぶことは(皆さんがおっしゃっているように)いいことですが、今の日本にその必然性はあまり感じられません。もちろん、グローバル化がすごく進んで、英語が必然になる時が来るかもしれませんが。その先取りとして英語を学んでいれば、それはそれですごいと思います。 ここにいる皆さんのように仕事で英語が必要の人や、英語をするのが好きな人(もしくは英語を通して好きなことをする人)は、その価値は大きいと思いますが、必然性のない人が嫌々する必要はないと思います。
お礼
必要性というのは大事な要素だと思います。 必要なら、教えなくても学ぶという考えもあります。 日本では必要な人、必要でない人 好きな人、好きでない人 いろんな人がいて、それでも学校では一律に英語という科目があります。 問題というか、私が一番知りたいのは、 英語が (どうしても)必要でない人 (どうしても)好きでない人 が少なからずいて、それでもやっぱ学校で英語という科目がある。 そこでどうしたらいいのかなって思ったのです。 学んでいる生徒も大変だろうけど 教える先生も大変だろうなって そう思いました。 率直なご意見ありがとうございます
お礼
目的の無いパソコン購入のたとえ話はとってもわかりやすいですね。 現在、英語と格闘されているとのこと。 必要となったときがはじまりですね。 きっと努力が実ることと思います。