- ベストアンサー
日本での英語教育の歴史についての疑問
今、学校の発表で英語教育の変遷や問題点を調べています。 具体的には、コミュニケーション能力を育てるための英語教育とは何か?現状での問題点は何か?ということです。 調べていく中でいくつか疑問が生まれました。 ○昭和17年から英語教育は小学校時代から教わっていたということ。 詳しく言及されていないので詳細は分からない状態ですが、ではいつからその小学校での英語教育は消えたのか? ○英語?外国語?が、平成14年まで選択科目であったということ。 本当なのでしょうか?僕は中学校で英語は必修でとっていたとしか記憶がありません。 具体的には昭和22年の学習指導要領にあるようです。 簡単に要点を書くと、「地方の人には英語が必要ないかもしれないから、不必要なことをいちいち教える必要性が見当たらない」 といったようなことが書いてあります。 このあたりが絡んでいるようですが、まず選択であった記憶がないこと。また選択でなくなった理由は何か?が明確になりません。 ○英語が公用語として理解されつつある世の中ですが、コミュニケーション能力を育てようという流れは分かります。 受験英語のように文法や単語を覚えるのは英語を習得するための重要ポイントであることはわかりますが、 あくまでも社会的評価を行う点数上での評価にほかならないと感じます。 例えばリスニングを増やすことは、聞き取り能力を向上させるのに一躍買うし比較的簡単に行える事項だと思うのですが、 会話を増やすには日本の英語教師の英語力も問われてきます。 コミュニケーション能力を上げるためだけに外国人教師を雇うなどということは、人件費や人手不足が問題になると思います。 小学校から英語を必修とするのも1つの手だと思いますが、では果たして学習内容はどう変えるといいのか? 結局似たようなパターンしか思い浮かびません。 ネイティブスピーカーを雇うことは、やはり費用面などの障害が大きいのでしょうか? コミュニケーション能力を育てる教育に、何が欠けているかのヒントをいただければと思います。
- みんなの回答 (7)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
○小学校の英語教育は明治期からなされています。といっても、高等小学校が中心でした。おおまかに言うと、戦前の小学校は尋常小学校と高等小学校に分かれていて前者が義務教育となっていました(尋常小学校を終えたら、一部の生徒が高等小学校に進学するという仕組みです)。高等小学校に進むのは10歳でしたから、今で言う小学四年生くらいから英語を学んでいたことになります。高等小学校ができたのが明治19年、それが「(制度としての)小学校英語」のはじまり、といっても良いでしょう。(残念ながら、ご指摘の「昭和17年説」は聞いたことがありません) →もっとも明治41年になると尋常小学校の修業年数が2年伸びます。その関係で高等小学校で英語をはじめるのが、12歳から、つまり今の中1の年齢からとなります。その状態が昭和の終戦まで続きます。ですから「高等小学校」で英語教育がなされていましたが、年齢としては今で言う中学生にあたるということになります。 ○そこで戦後ですが、この「高等小学校」での教育が「新制中学(いまの中学)」の教育に引き継がれる形になりました。名前が「高等小学校」から「中学校」に変わったわけですから、小学校での英語教育はこの時になくなったと言ってもいいでしょう。ちなみに、戦前、「高等小学校」では「英語」は「土地の状況により加設することを得」る「選択科目」でした(これは尋常小学校を卒業後、エリートは「旧制中学」に進み、ノン・エリートが「高等小学校」に進んだという事情によります。ノン・エリートである高等小学校の生徒は、卒業したらすぐに仕事につきます。神戸など外国との取引が盛んな町では高等小学校でも職業訓練として英語を学ばせる必要がありましたが、もっと田舎では農業などの方が大事だったので英語は必ずしも必要ないという考えだったのです)。この「選択科目」という扱いが戦後の新制中学にもそのまま受け継がれたので、英語は戦後もずっと「選択科目」のままになっていたのです。でも実際は、戦後どの中学でも英語は「実質」必修として教えられてきました。その実態を踏まえて指導要領にちゃんと明記しよう、ということで、ご指摘の通り平成14年から「外国語を必修とし、その際、原則として英語を教えることとする」となったわけです。こういう経緯で、英語は最近やっと「必修」になりました。(文科省の掲げる必修化の名目は「国際化への対応」らしいですが、実質的には上記のような背景があります) --以上の点について、参考図書として伊村元道「日本の英語教育200年」を挙げておきます。英語教育の歴史をコンパクトかつ読みやすく教えてくれる良書だと思います。私が上で書いたこと全てが載っているわけではないですが、巻末にレファレンスがあるので、そこでより詳しい資料にアクセスすることができます。 ○次に、コミュニケーション能力について。まず前提として、コミュニケーション能力は「聞く」「話す」だけでなく、「読む」「書く」場面でも等しく必要となります。ですから、「コミュニケーション能力を上げよう、さあ、会話の時間を増やそう」というのは大間違い。たとえば「読む」場面でも、書き手の意図・真意を掴む、わからない点を飛ばして大意を掴むなど、コミュニケーション能力は必要となります。 ○あと、最近、円滑なやりとりこそがコミュニケーション能力だという誤解が蔓延していますが、そうではありません。円滑な情報伝達に固執するあまり非効率さや不器用さ、たどたどしさに不寛容になる人間は、むしろコミュニケーション能力が足りない人です。じっくりと時間をかけて相手の話を聞き、書き手の意図を深く読む、そういった受身の力こそが現代人に求められる真のコミュニケーション能力です。それをブラッシュアップするのに外国人教師を増やす必然性はありません。言語教育における「コミュニケーション」については、一度、Canale&SwainのCommunicative Competenceの概念を学んでご覧になるとよいかと思います(Wikiあたりでも簡単なまとめは見られるはずです)。 ○小学校で英語を教科として必修化することは、害こそあれ利点はないと思います。
その他の回答 (6)
- go_urn
- ベストアンサー率57% (938/1643)
こんにちは! 日本の英語教育の問題は、宿命的に contoversialなもののようです。 2つの軸があると思います。1つは日本語という母語と英語という外国語をどう位置づけるかです。極端な場合は、日本語をやめて英語を国語にするべきだという議論がありましたし、逆は、英語を教育の場から追放してしまえ、という議論です。 今では、そんな極端なことを主張する人はいないでしょうが、英語を実際に使うとなると、やはりこの問題は無視できないものがあります。一見理想的に見えるバイリンガルの人たちも、現実にはいろいろ問題を抱えることになるようです。 もう一つの軸は、コミュニケーション英語か、訳読英語か、という問題です。これは明治期からすでに、正則英語(ネイティブによるコミュニケーション英語)と、変則英語(日本人による訳読英語)という分裂を生みました。 「お雇い外国人」と呼ばれるかなり優秀な人たちが、日本の教育機関で、英語であらゆる学科を教えていた時代は、日本人の英才たちの英語力も相当なものだったようです。読解もコミュニケーションもどちらもこなせたようです。 でもその状態は、文化的に植民地みたいですね。ですから国としても、英語を使わず、日本人が日本語で教えるようにもっていきたいと念願したわけです。夏目漱石がラフカディオ・ハーンの代りに東大で教えるようになったのもその現われです。 しかしそうなると日本人の英語力は必然的に落ちていきました。長期留学する人たちを除けば、ほとんどの学生が、しゃべれもしなければ、満足に読めもしないで、英語の本と格闘する時代が始まったのです。日本に生きているかぎり、外国人と触れ合う機会はわずかでしたので、もっぱら専門家たちが、専門分野の本を読むという受容面の力が重視され、旧制高校で、カーライルや J. S. ミルなどが学生達を苦しめたのです。どこかSMを思わせるようなところがあったと思います。 しかし現在、時代はコミュニケーションの必要を迫ってきました。仕事でも、英語でやりとりすることを求められるようになっていますし、また今後ますますそうなっていくでしょう。もうカーライルや J. S. ミルを読んでいればいいという時代ではなくなってきました。 国としても英語教育のコミュニケーション面を重視し、中等教育にオーラル・コミュニケーションを導入しました。しかしそこで起こったことはまことに皮肉なことで、文法や語彙を軽視したために、日本人の英語力がこれまでにないほどに低下したのです。もちろんしゃべれないし、読めないし、書けないのです。 私の考えは、文法と語彙をコミュニケーションと切り離して考えるのは間違っているということです。基本的な文法や基本的な語彙は、コミュニケーションにも欠かせないものですね。文法的、語彙的な負担は、新聞を読むのに比べれば、コミュニケーションのほうが遥かに軽くてすみます。なぜそれさえ、教え惜しむのかということです。滑稽な錯誤です。 一番の元凶は、大学入試の英語の問題がまだ難しすぎるということです。インテリが書いた難しい英文を出しているところが多く、そのために高校のコミュニケーションのクラスに生徒の腰が入らないのではないかということです。なぜもっと平易なコミュニカティブな英語で、かつ内容のある問題を出すことによって、そうした方向に高校教育を導かないのだろうかと思います。 私は、楽しくしゃべりあうというサロン風の授業はそんなに生徒の英語力を高めないだろうと感じます。それよりは、実際にコミュニケーションで使う自然な英語を多く理解し、語彙を増強するふうにもっていってもらいたいと希望しています。平易な会話体の英語で深みのある内容を伝えることは決して不可能ではないはずです。 発音も非常に大切ですね、言葉ですから。そういう大切さをよく理解している先生が増えていかなければならないでしょう。ただ、自分が分かっていることと、人にうまく説明することができるかどうかはまったくの別問題です。どういうふうに教えれば、日本人によく分かってもらうことができるのか――ここがネックになっていると思います、ネイティブの教員がおそらく一番弱いところだと思いますね。 ネイティブなみの英語力で、かつ教育方法にも通じた日本人教師が1万人いれば、日本の英語教育は、歴史上初めて、新しい時代に入ると思います。正則・変則の分裂は乗り越えられるべきものです。 若い人たちが情熱をもって勉強してもらいたいな~、といつも思っています。日本の英和中辞典のレベルは、おそらく世界でも例がないほどのハイレベルなものでしょう。素晴しい文化的遺産です。日本人の洗練の感覚は世界最高レベルだからです。私はいつか breakthrough が来るんじゃないかと希望的に見ています。それくらい日本人を信じているんです。 以上、長々と失礼しました。
- Ganbatteruyo
- ベストアンサー率63% (4601/7273)
アメリカに住んで40年目の終わりに近づきました。 このカテで書き始めて8年目に入りました。 私なりに書いてみますね。 >コミュニケーション能力を育てる教育に、何が欠けているかのヒントをいただければと思います。 コミュニケーション能力は必要はない、と言う人もいまだに残っているようでそう言う人にとってはこの問題点は問題ともしていないでしょうし、かえって恐怖感さえ感じているのではないかと思っている私からの個人的なコメントとなります。 まず、読み書きを教えているのでしゃべるようになる必要はない、と言う人がかなりの数でいまだに存在しているようですが、私はもう少し突っ込みます。 読み書きが出来るなら、これから言おうとする文章は作れるはず、そして日本語発音でもいいから言えるはず、でも、それが出来ないのは、「読み書き」の「書き」の部分が十分に教われていないと言うことなのでは? では、「読み」の部分がそれほど高度に出来るように教えていると言うのであれば、あとは聞き取れるように教えればいいわけですね。 それほど難しい事ではないと私は思います。 教えていると言う「読み書き」が聞いたり言ったりするようのない話題であればいつか使える話題に自分がいることになるので結局聞き取れたりしゃべったりできるようになる「はず」なのですね。 ま、この点では批判の声はでるでしょう。 仕方ないですね。 では何か根本的な問題は何であるかを考えれば実は簡単なひとつの理由がある、あるいはこれが最大の理由であると私は考えていますね。 認識、と言う事なのです。 なぜ、ネイティブを雇うと言う発想が生まれるのでしょうか。 しかもネイティブスピーカーがいれば良い、と考えてしまうような風な雰囲気さえ作っていますね。 ここに、「コミュニケーション能力を上げるためだけに外国人教師を雇うなどということは、人件費や人手不足が問題になると思います」と心配さえしてしまう事になってしまうわけです。 雇う、経費をかけてもやる、と言う必要性は誰が感じているのでしょう。 何のことはない、ネイティブと同じように、少なくとも、聞き取れ、しゃべれる日本人の教師があまりにも少ない、と言うことが理由だと言う事を考えもしないと言うことが大きな問題だとこのカテで7年間良い続けてきました。 英語と言う「言葉」を教えていると言いながら「しゃべれない」「聞き取れない」「会話が出来ない」人がなんで英語教師の資格をもてるのでしょうか。 会話ができる事を英語教師の資格の中に入れていない、と言う事なのですね。 それでも、それでもです、ヒアリング、なぜか、リスニングと言う日本語に変わってきているようですが、そして、スピーキングが大事だと教える、何か矛盾があるわけです。 中高と6年間かけて、そして4年間の大学の授業を受けて英語教育過程を受けているにもかかわらずしゃべれない人が英語を教えるってどういうことなのでしょうか。 英語教育で今一番大事なときが中一だと言うのに英語がしゃべれない、教える事の出来ない、英語に興味を持たせる事の出来ない人たちではなく、教える事の出来る先生を、生徒とコミュニケーションが出来る先生を送り込めば中2からの英語教育の「土台」を作る事が出来るわけです。 文法用語を覚えさせて、帰国子女や英語が分かる生徒から突っ込まれてしまう「資格だけの先生」では無理なのです。 英語によるコミュニケーション能力を高めるにはそのコミュニケーションが出来ることが最少条件であり、そのうえにおしえられる実力を持つ事が必須になるわけです。 私は必要であれば、「リストラ」をすべきだと言います。 教えられない先生には期限をつけて教えられるように(つまり会話が出来るように)勉強してもらい、それが出来なければ「やめてもらう」と言う事です。 そして、英語教師になるための資格に「コミュニケーションが出来る」最少条件をつける必要がある、と言う事なのです。 もちろん、受験とか試験があると言うことも大きな要因でもあるでしょうし、他に改良点は多くあるでしょう。 しかし、ネイティブスピーカーを必要とすることの矛盾性を感じないのであれば、いくら小学校で教えようとしても、いくらネイティブスピーカーを雇っても現状はかわらないと言う事なのです。 ネイティブスピーカーを雇う経費を「教える事の出来る教師にわけ当てる」事だって考えられる事です。 つまり「良い給料をもらえる職業」にもなるわけです。 しかし、この考えはかなりのスピードで広まっていると感じますので、このことで「ビビッテいる」しゃべれない英語教師は二つに分かれることになるでしょう。 一つは転勤を考える、もう一つは、自分思っているすばらしい英語力を発揮させて自分の弱点を直していく、と言うことになるでしょう。 今の英語必須要綱が分かっているから教えているのであれば、ヒアリングとスピーキング能力を教師レベルに持っていけば良いだけのことですね。 それほど難しいものではないと私は感じています。 ゼロから始めるわけじゃないんですから。 (そのはずですね) ヒアリング・スピーキングの向上に使えないような英語力は結局英語力ではないと言うことになるのです。 しかし、その意向を政府が実施しない限り、今までどおり日本式英語教育を続けていく事になり、英語を習っていると言いながら一言もしゃべれないと言う「日本の英語教育の犠牲者」を毎年何百万人と作っていくのです。 まったくの個人主張でご質問への考えを書いてみました。 参考になりましたでしょうか。 分かりにくいところがありましたらどんどん突っ込んでまた書いてくださいね。
お礼
丁寧なご意見を頂きましてありがとうございます。 実は特記してませんでしたが、僕も以前アメリカ含め英語圏に10年間住んでいました。 それも、つい2年前までは両親が米に移住していたことでしょっちゅう行き来してました。 でも両親も日本に帰ってきた今、しゃべる機会が極端に減り、大学で英語を学んでいるにも関わらず、会話能力はありえないほど低下しているのが自分でも非常によく分かります。 ヒアリング能力に関しては低下はあまり感じませんが、これは恐らくラジオで英語メインの放送局をしょっちゅう聞いていることも関連していると思います。 文法を学ぶのはもちろん大事なことですし、しゃべりの基本ともなりますが、どうも調べてるうちにやはり極端に細かすぎる指導が嫌悪を感じさせる原因になってるかなとも思います(かといっておろそかにするのもどうかと思うので、難しいところです)。 ネイティブを雇うことに関して、もちろん日本の英語教師の質も問わなければならないことは重々感じます。 幼い頃に、小3まで6年間オーストラリアにいましたが、帰国して中学校に入ったときの英語教師の発音には驚愕しました。 大学に進んだ今でさえ、発音が優れているなと思った教師はいないに等しい状況ですし、こんな状況では上達するはずがないです。 教師自身が発音や文法に混乱し、自信なさげにしゃべっている姿をみて、英語教育の意味が分からなくなったりもします。 英語教師の研修というのが、一応平成15年度ぐらいから始まってはいるようなのですが、研修をしているにも関わらずこの状況なんでしょうかね。 文部省がもっとしっかり英語教師の資格レベルを上げるというのももちろん最重要ポイントですね。 今が甘すぎます。TOEFLも550点でいいみたいですし・・550点って結構容易にとれる点数だと思うんです。しかも英語教師になる基準としては、甘すぎますね。 まず、RとLの発音の違いやTH発音が全く出来ていないのに発音を教えていること自体がどうかなと感じますね。 確かに、ネイティブを雇う分良い日本人教師を育成し、良い給料を支払うってのも効率いいかもしれませんね。 ただ何をもって良いといえばいいか、点数だけなら文法や読み取りでしょうし、どの程度コミュニケーションを持ち合わせているかに関してのメジャメントは難しいのかなと思います。
- ucok
- ベストアンサー率37% (4288/11421)
もともと20世紀の終わり近くまで、世界の多くの中等教育で外国語は選択性、つまり「何でもいいから外国語を学べ」という姿勢でした。これはおそらく、「母国語と違う言葉を学ぶ過程で培うものが大事」なのだという考えに基づいていたのであり、「英語が大事」という理念に基づくものではなかったのだと、当時から感じていました。 例えば日本でも、既出のとおり、フランス系のミッションスクールなどでは、英語を教えずフランス語を教えていました。私にも、そんな中学生の友人がいたものです。昔は、そういう私学に通う人は、たいてい、社会に出るまでずっとその学校に通っていたり、進学するとしても、せいぜい姉妹校だったので、それで支障がなかったのです。 しかし、やがて自由に他校を受験する例が増えていきました。AO入試が始まったのなんて、ごくごく最近の話ですし、受験するなら、たいてい英語の試験を受ける必要があったわけです。くだんのフランス語系の友人も、「受験生は、わざわざ英語をイチからやるの」と言っていた記憶があります。 一方で、英語が(少なくともビジネスシーンでは)徐々に“国際語”となってきました。フランスの小学校で英語が必修化されたと聞いたのが、確か、1980年代後半だったと思います。そういう流れの中で英語が選択性から必修化に変わったのでしょう。 さて、肝心な「コミュニケーション能力を育てる教育に、何が欠けているか」ですが、私にはわかりません。ただ、いろいろ見聞きするにつけ、どうも公立校と、外国人宣教師が多い私学とでは、英語教育の方法がかなり違うようです。この二者を取材して研究を進めると、答えが見えてくるかもしれません。 ほんの一例として、『パーネ・アモーレ―イタリア語通訳奮闘記』(文春文庫)田丸公美子 著に、著者が学校時代に受けた教育の恩恵について触れられています。手みじかに言うと、「考える余地を与えず、英語で瞬間的に反応させる教育」だったようです。加えて言うと、『外国人力士はなぜ日本語がうまいのか―あなたに役立つ「ことば習得」のコツ』宮崎里司 著も、今となっては当たり前のことしか書いてありませんが、それなりに参考になるかもしれません。
お礼
英語の必修化の流れ、大変分かりやすく回答いただきありがとうございます。 やはり、英語が国際語として知られるようになった流れが大きいみたいですね。 公立校と外国人宣教師の多い私学との違いも、今後調べてみたいと思います。 確かにコミュニケーション能力の育つ英語教育に何が欠けているか、難しい問題です。 ただやはり、外国人教師がいる学校で学ぶ英語とそうでない英語教育とではおのずと差は出るのかな、というのが僕の考えではあります。 もちろんその内容にも大きく左右されると思いますが、少なくとも日本語をしゃべっても大丈夫な状況にある限り 日本語でも通じるからいいや、という逃げに入ってしまって能力が育たないのも1つの原因かなと思います。 多少の日本語を交えるのはいいとして、簡単な英語でもいいからなんとかコミュニケーションを取ろうという姿勢(現実世界で使う英語を頭で考える)が大事だと思っています。 参考著書も提示していただいてありがとうございます。 今度、ぜひ学校図書館で探してみます。
私が高校のとき、世界史の教科書は人物名がすべて英語読みで、エカテリーナもカトリーヌもキャサリン、アンリはヘンリーで、すごくいやでした。おかげで世界史が大嫌いになりました。 日本は基本的に、その国の読み方を尊重しています。ですから、英語読みならすべてキャサリンになってしまうのを、エカテリーナ、カトリーヌと区別します。 言い換えると、日本の学校教育は英語中心主義ではないのです。それは時に、とても不便ですが、私はこういう、英語以外の言語や文化も尊重する姿勢を日本は守ってほしいと思います。
お礼
ありがとうございます。 キャサリンがエカテリーナ、カトリーヌ・・・ですか。 相当複雑になって嫌気がさすのも当然ですね。 ご意見貴重な参考にさせていただきます。
- jackson7
- ベストアンサー率54% (24/44)
○英語?外国語?が、平成14年まで選択科目であったということ 当時は選択科目でした。 通知表にも「英語」ではなく「外国語」と書いてあったはずです。 ごく少数の学校で「英語」ではなく「フランス語」などを 選択していた私立学校があったらしいです。 実際問題としてほぼ100%の学校が英語を選択していたので 「英語」が必修教科になったようです。 他の外国語だと教員の確保も難しいですし 高校入試の時に不利になることも影響していると思います。
お礼
ありがとうございます。 >通知表にも「英語」ではなく「外国語」と書いてあったはずです。 当時はあまり意識したことがありませんでしたが、そういわれてみればそうだった気がします。 当たり前のように英語が設定されていましたので、必修だと思っていました。 高校入試でも英語は当たり前ですし、選択にする必要性がないですよね。 大変参考になりました。ありがとうございます。
- phj
- ベストアンサー率52% (2344/4489)
昭和17年は現行の学制(6・3・3・4制)ではなく、旧学校です。 小学校といっても、尋常小学校ではなく、高等小学校でしょう。今の中学から高校の年間にあたります。 太平洋戦争後に、日本国憲法に変わる際に学校制度は大きく変化しました。 何語でもいいのですが、コミュニケーション能力を養うには言語能力だけでなく、計算能力などその他の能力や知識・思考力が必要です。 日本人は国内で学ぶ際にはほとんど外国語の影響を受けず、日本語ですべての教科を学びます。 本当の意味で英語でのコミュニケーション能力を強化したいなら、全ての教科を英語で学習すべきでしょう。 たとえば世界地理などは、大変に困ります。私自身、地図を読むのが大好きで世界の主要都市はほぼ覚えていますが、英語で話すとまったく役に立ちません。英語での都市名(国名)が日本での呼称とかなり違うからです。 しかし現実的に日本国内のことを、考えれば日本語自体をおろそかにするわけにはいきません。 そのため教養は日本語で学習し、外国語でのコミュニケーションの必要に応じて、各自が必要な能力を外国語化するという作業が必要になります。 たとえば数学者なら、外国語での数式の説明方法とか、音楽家なら外国語での音符の読み方などです。 日本の英語コミュニケーション学習を論じる場合、ただ単に英語を話す・聞くことに重点が置かれ、話す中身がまったく論じられません。 日本語で生活をする以上、日本語で「話す」中身を構築することが最優先されるべきでしょう。 その上で、幼少期から行ったほうが良い「発音」練習などは少しずつ取り入れていけば良いのだと思います。 とにかく英語がぺらぺらであっても、話す中身が伴わなければコミュニケーション(つまり相互理解)は成り立ちません。
お礼
回答ありがとうございます。 納得です、昭和17年では今の学校制度ともちろん違いますよね・・・高等小学校のことのようでした。 確かにそうですね。 私も今学校で中国語を習っていますが、現実には話せるようになるような状況にはなっていないと思います。 習ったことは頭に詰め込めばはなせますが、内容がないからネイティブとコミュニケーションが取れるとは思えません。 仰るとおり必要な能力を外国語化する作業は、大変重要だと感じました。 参考にさせていただきます!
お礼
大変分かりやすい回答ありがとうございました。 専門家の方からのご意見ということで大変興味深く読ませていただきました。 オーラルコミュニケーション能力を高めることばかりを意識してもいけないと痛感しました。 ネイティブの教え方の問題も理解できました。 確かに、日本人にとっての発音の難しさを理解できる教員がうまく説明出来なければ発展はしないですよね。 しかし日本人教師のどれほどが、正確な発音が出来るのかが大きな疑問です。 特記しておりませんでしたが、僕も海外には10年ほど住んでおりましたので、今まで経験した英語教育の中でも大多数の日本人教師の発音の悪さといったら聞くに堪えません(もちろん全てとはいいませんが一般論で)。 「自然な英語を使うこと」が一番重要なのかな?と僕は感じています。 昨年、学校で旅行で使う英会話の授業を取りました。 実在する場所を舞台に様々な状況で使えるような英語を学びましたが、これは珍しく楽しめた授業でした。 単調で使いもしないようないいまわしばかり学習するのは、英語嫌いを生み必然的にしゃべれない日本人が増えるのでは、と思います。