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本能寺の変の裏幕は秀吉!?
本能寺の変の裏幕に秀吉説があると聞き驚きました。 その説の根底となることが知りたいです。いったいどういう理由で秀吉が考えられるのでしょうか? また、「~の変」という語はこの「本能寺の変」でしか聞いたことがありませんが、他にこのような使われ方があるのでしょうか?
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秀吉には信長を恨む理由はありませんでしたが、信長の性格にある残酷さには常々恐怖を感じていたと思います。 そのため人一倍信長の意を迎える工作には気を遣っていました。 作戦にも一々信長に上申して許可を求めたり、多額の献上品を送ったり、信長の子供を養子に迎えていずれは領地を信長に献上するという意志を示すなど忠勤の姿勢を表していました。 これらの工作は他の家臣には見られない行為です。 従って秀吉は自衛の為、信長の意向や行動のパターンを絶えず把握していたとかんがえられます。 領地の兵庫、播磨は近畿にも近く情報の連絡路も設定していた筈です。 さらに水攻めしていた高松城の救援の為秀吉の軍勢に数倍する毛利軍が目の前に布陣しており、急激な攻撃はなくても次第に敗色が濃くなる為、信長の救援を要請した訳です。 これには勝利の名誉を信長に譲る目算もしていたとおもわれます。 この受け入れ準備は支障のないよう兵糧、道路の整備など手配がなされていた筈です。 和議の交渉は毛利軍の攻撃を遅らせる手段でしたから信長の到着までの時間稼ぎでした。 従って本能寺の変を計画していたとは考えられませんが変が起こってみると信長からの呪縛が融けて自由になった喜びは人一倍強く、毛利との講和を急いだのです。 それでも毛利軍の追撃を恐れて、水攻めの堤防を一斉に切り付近を水びたしにして撤退し、さらに宇喜多勢を殿にのこしています。 秀吉にしてみれば必死の退却ではありましたが将来の夢を実現できるチャンスで意気込みが違ったとおもいます。
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説の根底を考えれば、誰かに信長を討たせてそれを自分が討てば天下人になれるということでしょう。 実際にそうなりましたし。 ただし、NHKのある歴史番組によれば、足利義昭が明智光秀をそそのかしたという説が現在ではかなり本当っぽいようです。
(笑い)すみません、暇なのでこの件について参加します。高松からの大返しといっても本能寺の変から十一日後に(実は奇跡に近いくらいに神速です)天王山にて光秀軍をあっけなく破っています。その間、本能寺で信長を打ち果たし三日後に光秀は安土城に入り朝廷に銀五百枚を献上したり、近くの武将に支持を訴えたりしましたが親戚の細川家にも無視されます。おまけに摂津三人衆も無視。たしか娘のガラシヤが「お父様は、腹黒い方だから……」と言ったとか。あ!ごめんなさい!前置きが長くなっちゃつて、要するに、よくある誰が死ねば誰が得かという設定からきたものだろうと思います。それから「変」って?「ありえない戦い、常識でない戦い、無秩序」ではないかと……。暇にまかせて言いたい事を書きました事をお許しください。
- Pinhole-09
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No.2さんの疑問ですが、秀吉が信長を呼んだのは、更なる毛利への侵攻ではないと思います。 功績を信長に上げるためとすると、さらに戦いが続き、結果はどうなるかわかりません。 戦がもっとはっきりしてから、呼ぶでしょう。 秀吉はここで織田に有利な条件で講和し、その後の交渉を信長に任せる、つもりとだったと思います。 例えば毛利を手先に九州へ侵攻すれば、より早く天下統一に向かえます。 ただ秀吉も安国寺恵慧のように、信長の危うさを動物的感で感じていたでしょう。 No.7さんの云われているように、中央に何かあれば直ちに伝わる手配はしていた筈で、その他非常の準備は当然です。 大返しが余りにもうまくいったので、疑われたという事です。
- meteoroid
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あんまり関係ないけど、『変』って言うのは、一方的な戦い または、未然に防がれたものや、戦争っていえない戦い ちなみに、戦争になったのは『乱』っていいますよ。
- rotesKomet
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状況的に怪しいと言うだけで、具体的な証拠があるわけではありません。 ・信長の死を知らせる毛利への使者が、たまたま間違って秀吉の陣に行ってしまった。 ・ゆっくり攻めていた高松城で、急に和睦が成立した。 ・2日間で戻ってきた、あまりに速い行軍速度(事前に準備をしていた?)。 ・明智光秀に誰も味方せず、山崎で簡単に勝利した(事前に根回し?)。 ・明智光秀の農民に竹槍で刺される奇妙な死に方(死んだことにして、実は生きていたという説も)。
- 10pph
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秀吉が信長を恨む理由は見当たりません。 信長がいたからこそ農民出身の秀吉が出世したのではありませんか?。 何年か前の大河ドラマでは、信長に叱責された明智光秀を徳川家康がけ しかける設定がありましたね。 正室と嫡男を信長の命令で殺さなければならなかった家康こそ恨みを抱 いていたのではないでしょうか。 秀吉はこの混乱を上手く利用しただけではないでしょうか?。
- luune21
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~の変だけ 長屋王の変729 承和の変842 応天門の変866 安和の変969 正中の変1324 元弘の変1331 慶安の変1651 桜田門外の変1860 坂下門外の変1862 生野の変1863 禁門(蛤御門)の変1864
- a-koshino
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不自然な点が一つだけあります。 毛利を滅ぼすべく、これから信長が親征する直前なのに、秀吉が毛利と和平交渉を続けていたことです。 中国大返しについては、信長の大軍が来るのを迎えるべく、街道筋で準備していたから、あるいは、途中で秀吉だけ船を使ったから、などの説明が可能で、秀吉が事前に知っていた証拠とは言えないのですが、和平交渉の件は、本能寺の変を事前に知っていなければ、なぜそんなことをするのか説明がつかないと思います。 なお、本能寺の変当日の早朝、京で行なわれている最中に、あわてて堺から逃げ出した徳川家康の行動も不自然です。どうやって京の変事を知ったのでしょう。携帯電話でも持っていたのでしょうか?w 『承久の乱』を、「支配者である上皇が乱を起こしたとするのはおかしい」と判断して、『承久の変』とすることがあります。当時の鎌倉武士は、平気で「主上御謀反」と言っていたのですが。
- Little Ram(@LittleRamb)
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「桜田門外の変」とかありますが・・・ 秀吉黒幕説は、信長の死を中国地方にいていち早く知りえたこと、 「中国大返し」があまりにも尋常じゃない速さで出来たことなど からそう考える人もいるのではないかな? (つまり、あまりにもうまくいきすぎていると....)