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本能寺の変の真相とは?
- 本能寺の変に関する黒幕説は様々ありますが、共通して説明が足りない点があります。
- 光秀の衝動的な行動が主な要因であり、計画的な謀反ではなかった可能性が高いです。
- 信頼性のある史料がないことも光秀の単独犯行を支持する一因となっています。
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やっぱり重臣団(斉藤利三)の全面バックアップを受けた光秀単独説かな。 その主原因はやはり長宗我部問題かと思います。 急転直下の四国国分令発布及び四国討伐軍の結成 その事により織田・長宗我部家の取次役だった光秀の面目丸潰れ 更には重臣斉藤利三と長宗我部一族は縁戚関係である事も考えたら 四国討伐軍渡海後の、織田軍団家中の家臣団含む明智一門の立場は 非常に危うい物に成り得る事は、容易に想像出来た筈です。 生真面目で慎重派であったであろう光秀が何故あのような 大胆且つ無計画ともいえる様な事を仕出かしたという事を考えれば 本能寺の変の僅か数週間前からの目まぐるしい情勢の変化に対する のっぴきならない事情、周到な準備をする暇も無い程の突発的とも 言える行動だったと考えれば合点がいきます。
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- ?橋 昌也(@fudousin)
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個人的にはキリシタン・バテレン説が有力と思っていますが^^; 現状で最有力なのは、足利義秋(+公家=近衛前久?)のようですね。光秀が本能寺後に紀州雑賀の豪族に送った手紙に「義秋公に馳走すべし」といった文言があることが証拠のようです。
- cluze2009
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9さんの「徳川家康黒幕説」 実際の時系列は 5月14日 光秀、信長から家康の接待役を命じられる 5月15日 家康、安土に到着 5月17日 光秀、信長から秀吉軍の応援(出兵)を命じられる なのですが 16日の晩に、光秀と家康が二人で酒を酌み交わしながら密談を取り交わす。 翌日報告を受けた信長は何となく胸騒ぎを感じ、急遽光秀に秀吉援護の命を出す。 なんてストーリーも面白いかもしれませんね。 真面目な話 発言力云々に関してはあくまで織田家家中のお家騒動の出来事ですから 部外者が口を出せないのも当然の事だと思いますよ。 小牧長久手時の家康の態度は当然でしょうね。 元々自分より格下の重臣クラスの秀吉が成り上がった訳ですから。 それと光秀が何で家康を討たなかったのかは全く眼中になかったからでしょう。 万が一家康を討つ気があったとしても 堺、大阪周辺には四国討伐軍や池田恒興の軍らがそうとう数駐留していたので リスクを犯してまで兵を分散させて向かわせる事は到底考えられません。 実際の家康は本能寺の件を知る由もなく、2日朝堺を出発して 京に向かう途中の道中で変の事を聞く訳ですが もし光秀と家康の密約があったとしたなら、事のしだいを知らない光秀軍の 下部連中に見つかってどうなるか分からない危険性がある行動は避けて 堺に留まる方を選択していたと思いますがどうでしょう。
- teccrt
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根拠はありませんが、個人的な推察として、本能寺の変の直前に徳川家康と一定の協議はしていたのではないか、と思っています。 (1)二人とも動機がある 光秀は、長曾我部攻略、丹波料召し上げなど、よく知られている理由があります。家康の場合も、1579年に信長の圧力によって嫁の築山殿と息子の信康を殺しています。「これ以上、信長には従っていられない。」という動機は二人に十分あったと思います。 (2)暗殺後の利害を分け合える 光秀が、秀吉他の信長配下の重臣と謀議をした場合の疑問としては、密告されれば終わりだという大きなリスクを負う勇気があったのか、ということと、暗殺が成就した後に利益の分け前をきちんと相談できたのか、という疑問が残ります。家康であれば、織田家の従属下とはいえれっきとした大名家なので、光秀が家康の配下になることもできるし、織田家が抑えていた西は光秀、東海以東は家康、という地理的に分けることもできるし、光秀は朝廷に取り入って公家化、家康は征夷大将軍という棲み分けも考えられたと思います。 (3)本能寺の後の光秀・家康の動きに対する疑問 光秀にとって、京都の織田信長・信忠父子を討ったあと、身近な織田勢力は堺にいた家康です。しかも、軍勢は引き連れておらず、殺すには最適の状況でした。家康は命からがら逃げ延びたことになっていますが、光秀にしては堺に滞在していた家康を打ち損じた失態は理解に苦しみます。但し、「光秀は家康と信長暗殺後に結託することを確認した。ただし、信長にいらぬ警戒心を与えたくなかったので、家康は予定通り丸裸の状態で堺に滞在することにした。」とすれば、光秀が家康を打ち損じたこと、家康がその知らせを聞きつけて即座に行動を起こして無事国に帰れたことの説明がつくのではないかと思っています。 また、本能寺の変まで、家康はあくまで信長の従属大名であり、格は違っても柴田や秀吉よりも発言力があったとは思えません。ところが、柴田vs秀吉の決着が着いたころには、なぜか家康は東海の一地域の大名にすぎなかったのに秀吉に対抗しています(小牧・長久手の戦いあたり)。当時、味方は織田信雄くらいで、日本全国が敵みたいな状態だったのに、家康としてはずいぶんギャンブルをしたものだと思い、不思議でした。ただ、本能寺の変で一度光秀と二人で天下を狙う話を具現化した直後であれば、夢を秀吉にさらわれることが嫌で精一杯の抵抗をしたのではないか…と考えると、すっきりするような気がします。
- erich1945
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No.8ですが、結論洩れてました。 私は「朝廷」黒幕説に一票でした、申し訳ございません。
- erich1945
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「黒幕」説とは、共謀や明確な支援をしていないからこそ、黒幕なのではありませんか? タイミングまで図って共に行動を起こしたのなら、黒幕ではなく「共犯」です。 本能寺の変の実行犯が光秀であることは、ほとんどの人が認めています。それが衝動的なものであったのも、ほぼ間違いがないでしょう。 でもそれは黒幕がいなかったということの証明にはなりません。 あるいは光秀自身が黒幕の存在に気付いていなかった、という事態もあります。 荒木村重の事件に見るように、織田家家臣団、特にインテリ階層が深い恐怖と圧迫感を感じていたことは事実でしょう。 そうした感情を利用され、巧みに誘導されたものだとしたら・・・。 暗殺事件とは往々にしてそうしたものです。 誰かがある日囁くのです。それに始まり、役割は細分化され、誰が責任者かもわからない。分かっているのは暗殺者の名前だけ。 それすらも名前だけでも構わない。 ともかく、誰かが消えてくれればいいのです。 そういうことが得意な集団というのは、日本にも存在します。 確かに、現在ではただの仮説です。どんなに確からしくても、資料が無ければ「歴史学的」には妄想にすぎません。 だから、資料が探されているのです、あまりにも謎の空白の部分を。 それまでは、「歴史小説」の分野でのお楽しみです。 ただ、くだらない仮説と片づけるには、あまりに惜しい説なのです。 面白そうなんで回答しました。
- cluze2009
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No6さん 「イエズス会の信長殺害説」 その説はあまり歴史に詳しくない人にとって滑稽無稽に写るみたいですね。 以前その説がTVで紹介された際に、掲示実況板では「これは嘘だな」 「さすがにこれはない」などの否定的意見が大多数でした。 何故かというとイエズス会というのは、宗教を傘にした侵略が究極目的の 政治的背景を帯びた、時には武力行為も厭わない過激組織だったという事を 知らない人がほとんどだからです。 ちなみにイエズス会は当時のヨーロッパ宗教界の中で最も危険な集団という 認識を持たれていたみたいですね。 したがって冒頭で当時のイエズス会の真の実態、目的をかい摘んだ上で その説を挙げた方が、より説得力が増すのではと思います。
- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 なたの質問の回答は、ある程度、皆さんの意見は意見として・・・。 とても「興味深い」推論がありますので、ご紹介したいと思います。 「信長は明智光秀に殺されたのではない!!」 という説も、ささやかれています。 (1)光秀の居城「亀山城」からは、城下を通り、老ノ坂(おいのさか)の峠を越え、京都に入り、桂川を渡って本能寺へ着いた。 <1>このルートは、各種の史料等で、現在は「定説」となっている。 <2>しかし、このルートであると、亀山城から本能寺までは約20Kmとなる。 <3>光秀が亀山城を発進したのが、6月1日午後8:00。 <4>本能寺の変が起きたのは6月2日午前2:00。 <5>とすると、6時間で本能寺に到着しなければならない。 <6>当時の具足(鎧や兜)は、鉄砲に対する防御で、鉄板が多く使われており、約30Kgあった。 <7>城下は、ともかくとして、老ノ坂は、だらだらとした昇り坂で、馬であれば1頭ずつが縦に並んで通れるぐらい。人であれば、3~4人が横並びでも通れた。 <8>京都に入ってからは、「桂川」を馬上または徒歩で渡った。橋ははるか上流にはあるが、そこを通るとすると、時間はさらに延びる。従って、一番早く着くには桂川を馬上または徒歩で渡るしかなかった。 <9>ところが、公家の「山科言経(やましなともつね)」の書いた「言経卿記(ともつねきょうき)」によると、6月1日は「前日から雨」。 <10>当然、桂川は増水しており、馬上であっても徒歩であっても渡ることができない。はるか上流か下流の橋を「迂回」せざるを得ない。 と、なると、6時間で本能寺に着くまで、時速3~4Kmで進軍しなくてはならない。また、老ノ坂峠にしても、「ぬかるみ」だらけで、馬上の者は別として、雑兵などはとても早足で越えることはできない。 <11>従って、光秀は「本能寺の変」には間に合っていない。 (2)では、誰が信長を殺したのか。 <1>結論から先に言うと「イエズス会の宣教師たち」であった。 <2>イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスの記した「日本史」によると、 「信長が厠(かわや)から出て、手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放って背中に命中させた。(中略)。直後に、信長は小姓たちを呼び、鎌のような武器(薙刀)を振り回しながら応戦していた。しかし、鉄砲隊が放った弾が左肩に命中した。信長は直後に障子の戸を閉じて、火を放ち自害した」 と、あたかも「現場」を間近で見ていたかのような記述がされている。 <3>光秀軍が襲ったのであれば、何万もの兵がうごめく中、このような「詳細」を見ることはできなかったはず。 (3)では、なぜ、イエズス会だったのか。 <1>信長は、イエズス会の布教活動を許可し、自らも南蛮製のマントや帽子を着用していたから、イエズス会と仲は良かったはず。 <2>イエズス会の「怒り」をかったのは、やはり、ルイス・フロイスの記録によると、 「信長は、かくのごとく傲慢(ごうまん)になり、世界の創造主であるデウスのみに帰すべきものを奪わんため(中略)その霊魂は地獄に葬った」 と、ある。 <3>「かくのごとく傲慢」とは・・・。 信長の居城であった安土城跡(滋賀県安土町)に残る「廟(びょう)」のてっぺんに「盆山(ぼんさん)」と呼ばれる「岩」を乗せてあり、信長は、生前より、 「この石を神と思え、わしと思え」 と、いかにも天皇をも越えて、自分ただ一人が「神」である、と、命令していた、と、言われ、これがイエズス会にとっては、神はデウスであって、信長ではない、との反感をかった。 (4)本能寺の発掘調査が物語るもの。 <1>2007.3.3の「産経新聞」の掲載記事によると、本能寺は、北は六角通。東は西洞院通。南は蛸薬師通。西は油小路通。に囲まれた120m四方と言われていたが、信長が宿泊したと思われる場所は、北東の角にある40m四方の小さな建物で、寺と言うよりも「武家住宅」あるいは「小御殿風」であった。 <2>と、なると、信長をはじめ側近の者が「雑魚寝」をしても、せいぜい40人位。 <3>これまで、100人近い兵と共に宿泊をしていた。と言う考え方は、到底無理が生じる。 <3>従って、イエズス会の宣教師たちの少人数でも攻めることができた。 (5)イエズス会のバックボーン。 <1>イエズス会は、南蛮貿易で「火薬」の原料である「硝石」を貿易しており、十分な資力があった。 <2>従って、弓矢や鉄砲などの武器を調達することは、「たやすい」ことであった。 <3>また、イエズス会の「本山」である「南蛮寺」は、本能寺から、わずか、300mしか離れていない。 (6)では、なぜ、明智光秀が罪人なのか。 <1>光秀が到着した時には、すでに、
時は今 雨が下しる 五月哉 象徴的ですね。 土岐は今 天が下しる 五月哉 これは今でも明智光秀の謀反を事前に匂わした物であるかのように言われてますが。明智光秀が重用されたのは、朝廷、幕府に対する外交官、なぜならパイプが太いから、これに尽きると思うのですが、徳川家康への接待の不手際で、信長自ら家康一行の面前で、鉄扇で殴打、数々の反攻宣言や反攻の呼びかけの手紙を送った足利義昭の追放、そして直接の原因となる、丹波領召し上げ(信長からすれば当然、中国地方に封じた方が安心だったのかもしれない)ここら辺で最早我慢がならなかったんかもしれない。信長は各地で転戦を命じる一方、朝廷の懐柔を。もし朝廷が信長を拒絶する意思を明らかにすれば信長は朝敵としても全国制覇のために朝廷に銃口を、それが時代の空気だったのかもしれない。そこで光秀が選ばれた。実は信長からすれば光秀のやり方は日常的にぬるく、実に頭に来るもので、のろまの馬鹿が朝廷如きのアホの命令を山の様に持って来るとか思っていたのかもしれない。そう考えると両者の対立は必死で、野蛮人に従ったら野蛮人の土地で、朝敵として死ぬのかみたいなものも鬱積した長年の恨みの炎に油を注いだのかもしれない。陰謀したものは居たのかもしれないけど、ここまで必然的な理由が分かりやすく(この記のものはやや主観に基づくものが強いが)存在していると最早陰謀者がいたかどうかは関係なく、必然だったと見るべきでしょう。
- kimari14
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<< 光秀の“衝動的”な行動ということになります >> 衝動的ではなく突発的ではないかなあと。 まあ,精度の高い資料が出ないがぎり、黒幕も、突発的であるなら光秀謀反も推測の域でしょ。 ここから先は、だれもかたれないでしょう。 亀岡の地侍、本城惣ェ衛門の調書(覚書)をみるかぎり、家康の殺害のために本能寺へ討ち入り 何人かの首を獲り、その場で秀満から褒美をもらったとあり、まさか、上様とは思いもしなかったとある。 誘導されたのか、計画どおりなのか、本能寺の前には村井定勝の屋敷もある。 本能寺を囲んで、ぐずぐずしていたようで、肝心の光秀の姿がなく、命令系統が機能していない 時間帯があったようで、本能寺を本能寺とわかった者が何人いたのかも疑わしいでしょう。 観兵式の召集があったのかなかったのかもわかりませんし、そのまま、光秀の軍は毛利決戦用ではなく 浜松へ進行する予定だったのかもわかりません。毛利には信長が来るだけで十分の状況でしょうし。 巷の説についても、記録と記憶がすばやく抹消されていれば、どうにもなりませんし。 利害関係は有史以来のもので、得と損 同調と敵対は世の常、そそのかし、耳うち、讒言 歴史を下からいっても、上からいっても どうにでも語れるものですのでね。 気長に資料を待つだけですよ。大いなる歴史の手違いだったと私は感じていますが、驚愕の光秀の顔が浮かびます。
- matumotok
- ベストアンサー率35% (431/1203)
こんにちは。 私は黒幕説を支持しているわけではなく、皆様のご意見を興味深く聞きたいと思い質疑に参加さえていただこうと思います。よろしくお願いします。 しかしながら、あの「涼やかな目をした」光秀が、結果論で言えばここまで無計画な暴挙に出たのは、裏で操る何者かがいたと考えるのが自然かなと思います。確かに信長が西国に出向けば、毛利は当然のごとく、四国九州の平定も時間の問題となったことでしょう。北国東国に配した織田諸将のほか、家康との連携も深めた直後のことですから。織田の勢いを止めるには本能寺が最後のチャンスであったはずです。でも光秀はそんなこと何年も前から信長以上に把握していたはずです。 でも、討ったところでその後に確実に政権与党とならなければ悪徳陪臣の汚名を着せられるだけというのも光秀は当然わかっていたはず。光秀が最も嫌う最悪のパターンでしょう。光秀単独ではそんなことは出来ないことは彼本人が最も正しく認識していたことでしょう。であれば、、、やはり猿です。当然猿だけではうまく光秀を丸め込めなかったでしょう、柴田や滝川といったバカには光秀も見向きもしなかったでしょうが、丹羽長秀が一枚噛んでいたら光秀も無視はできなかったのではないでしょうか? 猿は長秀にうまく取り入り、飼い犬のごときそぶりを見せつつ、裏では長秀の威を借りて光秀を抱き込む。で、光秀が信長を討った暁には大軍を率いる自分が真っ先に京に馳せ参じて光秀を討ち、長秀以下の口を差し挟めない状況を作り上げる。長秀も、ことが起きてしまったあとで「あの暗殺には俺も一枚噛んでいた」などと言い出せるはずがありません。 猿としては、数日前まで信長と一緒にいた家康も同時に消したかったところでしょう。だからこそ家康が訪れているタイミングを見計らって。。。 どんなもんでしょうかね?