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本能寺の変~結論

自分なりに結論を出してみましたがどうでしょうか? そもそも本能寺の変は本当に起こったのでしょうか? ただ寺に火を付けて燃やしただけでは? 実は信長は既に死んでこの世に居なかったのではないか? そして光秀はそれを知っていて芝居を打ったのではないか? (だから逃げる途中で「死んだ」という作り話を流したのでは?死んだことにすれば探さずに済むから) そして信長は秀吉か家康に殺されたのではないか? (光秀は単に無実の罪を着せられた…光秀は本当は死んでいなくて天海という坊主になったのではないか?家康が天海を保護したのは光秀だったからではないか?) だから本能寺から死体が出なかったのでは無いか? (日光東照宮に隠しているのでは?) 見ざる、聞かざる、言わざるという暗号を残したのではないか? この言葉の真の意味は分からないがもしかすると信長の死に関する暗号なのでは? 何だか 秀吉 光秀 家康の悪巧みの気がしてきたのですが どうでしょうか?

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  • koiprin
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回答No.8

たしかに秀吉と光秀は、信長を殺すことは共謀していたと思います。 当然家康も知らされていましたが、家康の行動を見ると、織田家内のでの政権争い程度の認識ではなかったかと思います。 やくざで言えばおじき的な立場であった佐久間信盛が切られたことで、信長に取り立てられた家臣団に疑惑が起こっての共同謀議かと思います。 信長の父信秀の代からの家臣である2トップの一人、柴田勝家は、北陸にもいましたしこの共謀には入っていないと思われます。 もう一人の丹羽長秀は、斯波氏からの鞍替え組ですし、この後の豊臣秀吉との関係からも、共謀の一員と思われます。 当初年長者の光秀をトップとして組織された謀議の集団ですが、秀吉が裏切ったのでしょう。 丹羽長秀をおそらく当初から巻き込んで、光秀をスケープゴートにして、天下を掌握することを画策していたと考えられます。 滝川一益などは、もともとはこの謀議の集団だったんでしょうが、この裏切りに関しては関与しておらず、賤ヶ岳の時は、勝家側についていたんだと思います。 家康はいかにも知らなかったという体で芝居を打って伊賀越えをしていますが、穴山はおそらく信長方に内通をしていたのをこの機に殺されたんだと思います。 ただ、秀吉の裏切りまで知らされていたかは不明。 天海については、私見では、光秀の晩年の子長男光慶のほうが年齢的にも妥当かと思います。 家康は光秀の謀議を知っていましたし、加担したか見過ごしたかしたなかで、この光慶を不憫に(あるいはうしろめたく、もしくは話が漏れないように)思い取り立てたのが、かの天海ではないか?と疑っています。 天海はなにかと明智とのかかわりを指摘されますが、立場的にはこの光慶がぴったりです。 歴史的には光慶は自害したと言われていますが、共謀犯同士なので、光慶を自害に追い込んだと言われている、長秀のもとにもいた中川清秀などは落ち延びさせた可能性があります。

azuki-7
質問者

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  • izuhara
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回答No.9

本能寺で死んでいないとすれば、信長はいつどこで殺されたのか、という大事な推測が欠けています。

azuki-7
質問者

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既に病死かなんかで死んでたようです

回答No.7

兼ね兼ね人生も歴史学も、そしてこの宇宙自体も文学でありドラマであると思っています。 歴史学とは学というより相当の年月が経過したあとでの物語りであることを出られないジャンルの最たるものでありましょう。 どの程度説得性というか真実性を装えるか、そういう思考がどこまで大きな傾向でありうるか。ということですよね。 小豆さんのこの仮説は、確かに補強する他の話が出てきてはいない。物証なんて歴史や人間の認識には第二義的ですが。 そして何もない大空に自由に在り得るべきドラマを大きく画いています。 大空に物証や補強のあぁだこぅだの脇の話はない。 造られていない、考えられていない。 現在の常識や学説とかからいえば、在り得ないということを主張するたくさんの補強は出てくるでしょう。 小賢しくお利口な説が。 でもいつか小豆さんのこの話がそうなんだ、という地位をえないということではない。 家康、天海そして光秀の話は私もどこかで読んで、そういうものかなぁと思ったものでした。 小豆さんもだされているように、本能寺の変は確かに、あまりに多くのことが不審です。 人はその習慣や造られた常識を出ることを億劫がります。 歴史の専門であるかたは特にそうですね。 私みたいな素人は、そういう守る慣習法も常識もないものですからこの説を納得し、そうだったのだ、といいます。 根拠や補強の筋話がないことなどは私には問題外なんです。結論は喝采です。

azuki-7
質問者

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ありがとうございます

  • hekiyu
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回答No.6

やあ、これは面白い説ですね。 特に、三猿の下りは最高です。 質問者さんのユニークさが窺えます。 ただ、これを裏付ける資料、証拠はあるんでしょうか。 そうでないと、ただのおとぎ話です。 天皇騎馬民族説、というのがあります。 これは、神武天皇は大陸や半島から来たんでないか、 とする説ですが、学説では極少数説です。 通説はこれを否定しています。 その理由は、騎馬民族であるとする物的証拠が 皆無だからです。 頭のなかだけなら、どうにでも構成できます。 実は、信長は女性だったとか、何でも可能です。 しかし、それだと韓国人の韓国起源説と同じに なってしまいます。

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございます

noname#204885
noname#204885
回答No.5

本能寺の変は、家康・秀吉・光秀全員の合意によって起こされたと言う説は昔からあります。 そういう説を唱えている人のHP http://homepage2.nifty.com/emsky85/history/honnoji.html 確かに、どこまで積極的に関わったかは別として、秀吉と家康は、本能寺の変が起こることを知っていた(あるいは予想していた)ような節はありますよね。 もし3人が本当に合意していたのなら、信長死後の天下をどう支配しようとしていたのかが気になります。光秀が機内、家康が三河以東、秀吉が西国を取る手筈で、勝家や毛利には共同であたると言う約束をしていたのでしょうか?確かにこの3人が結束すれば、天下は治めることができたでしょう。ところが秀吉が裏切って、毛利と単独で講和し、中国大返しを仕掛けてきたものだから、シナリオが一気に書き変わってしまった?もちろん、単なる空想の域を出ませんが、面白いですね。私も、家光は実はお福(春日の局)と家康の間に生まれた子供で、だからこそ「家光」と言う名前になったのではないかと思う時があります。 但し、当然ながら、学説上の主流は現在でも光秀単独犯説です。非常に詳細に単独犯説の論拠を述べた本も出ていますので、ご参考まで。 http://srtutsu.ninja-x.jp/books27.html

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございます

  • chiha2525
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回答No.4

都合の良い事実だけを採用し、不都合なものはわざと無視すれば、なかなか面白い歴史小説が書けると思います。頑張ってください♪

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございます

  • jagd4
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回答No.3

>自分なりに結論を出してみましたがどうでしょうか? 「かの国」以外の、世間や学問の世界では、「~ではないか」 というのは「仮説」と読んでおり、「結論」とは違うものです。 更に、それらの中でも資料や根拠の無いものは「妄想」と言われてもいるようです。

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azuki-7
質問者

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ありがとうございます

回答No.2

こんばんは。 光秀の首は3つありました。 しかも暑くて腐敗が激しく首実験で 秀吉でさえ見分ける事が出来ませんでした。 家康に支えた天海が光秀では? …ってのがウエイトを占めているのでは?

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございました

  • kkanrei
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回答No.1

SF小説のできそこないのような話です。光秀もその部下の斉藤利光もさらし首になっている。光秀は確実に本能寺の変のあとの天王山の戦いで秀吉に敗れ、殺された。家康と秀吉はぐるであり得ない。本能寺の変のあと、小牧・長久手の戦いで争っている。

azuki-7
質問者

お礼

だってあの首は光秀かどうか判別不能だったわけだし そりゃグルだって偽装工作のために戦うでしょ 現に小牧長久手では睨み合いがメインで 森と池田が死んだ以外の戦いは起きてない