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本能寺の変の際の家康の行動
本能寺の変の知らせを聞いた秀吉は毛利と和睦し、明智討伐に向かったと思うのですが、このとき家康は何をしていたのですか。どこかに居て急ぎ江戸に帰ったと聞いたのですが、なんのためですか。
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以下引用ですが、 家康は、信長の招きで5月に安土城を訪れた後、 家臣30余名とともに堺に滞在した。6月2日朝、 返礼のため長尾街道を京へ向かっていたところ、 四条畷付近で京から駆けつけた茶屋四郎次郎に会い、 本能寺の変を知る。家康はうろたえ、一時は京に行き本能寺で 信長に殉じるとまで言ったが、家臣に説得され帰国を図る。 山城綴喜・近江・加太峠・伊賀の山中を通って伊勢へ抜け、 伊勢湾を渡って本国三河に戻った。後に「神君伊賀越え」と称される。 後年、「神君のご艱難」と称される家康最大の危機であった。 実際、堺まで同行しながら伊賀越えで別行動を取った穴山信君は、 山城綴喜の河原の渡しで土豪の襲撃を受けて死んでいる。 この時、家康の苦難の伊賀越えに協力したのが伊賀衆であり、 その際の伊賀の棟梁、服部半蔵の功で江戸城に「半蔵門」が作られる。(堺で討たれたと言う伝説も存在し、堺市内の南宗寺には 彼の名前が刻まれた墓が現存するが、実はこれは後の 大坂の陣の際に生まれた伝説)。 その後、家康は信長の死により空白地帯となった信濃・甲斐を 占領し、武田家の最盛期を超える大大名となった。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89#.E5.BE.B3.E5.B7.9D.E5.AE.B6.E5.BA.B7 だそうです。
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堺にいました。 信長に接待された後のことです。 信長暗殺の方に接して、急遽、自分の領地(駿府の方でしたか)めざして、必死に逃げ帰りました。 途中、何度も危ない目に遭いましたが、茶屋四郎次郎の手引きで、何とか危機を脱出しています。 鈴鹿山脈を越えて、桑名から(?)船で尾張に渡ったようです。 明智軍などの追っ手から逃れるためです。 なんのためといっても、とりあえずは、
お礼
家臣30名しかいなかったのでは、逃げるしかないですね。ありがとうございました。
- yakyutuku
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堺にいました。(これが陰謀説の原因)その後畿内が危険になるので伊賀を越え伊勢から海路三河に帰りました。ちなみに当時の徳川領は三河遠江、江戸は北条領です。
お礼
江戸じゃなかったのですね。さっそくのご回答ありがとうございます。
お礼
先日、本能寺の変は秀吉の陰謀だったという、娯楽ドラマをやっていて、結構面白かったです。どうもありがとうございました。