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本能寺の変黒幕説について

本能寺の変について明智光秀の背後に黒幕がいたのではないかという説が、現在も多く語られています。 しかし個人的には黒幕説の多くはどうも根拠薄弱に感じられます。 黒幕説を主張するには少なくとも 1.黒幕の存在を想定しないと説明できない事象が本能寺の変にある。 2.黒幕とされている人物、あるいは勢力に事件の前後においてそれを裏付ける明確な動きが見られる。 という2点の根拠が必要だと思うのですが、1の点で言うと本能寺の変が光秀単独の行動だとしても、 何ら疑問点は見出せませんし、2の点でも黒幕と仮定しなくても説明で きる行動を、根拠だとしている説が多いと思います。 というか、黒幕の存在自体が妥当かどうかの考証を飛ばして黒幕がいることを前提にして、 そこから物事を解釈しているように見受けられるのです。 そのようなものでない、根拠がしっかりして説得力のある黒幕説は存在するのでしょうか? またどうして黒幕説が人気あるのでしょうか?

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  • a-koshino
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回答No.2

根拠のしっかりした黒幕説は存在しません。 なぜ黒幕説を持ち出したくなるかといえば、 「明智光秀の動機を説明できない」 からでしょう。信長自身が家臣の筆頭として、「天下の面目をほどこし」と絶賛している光秀に、信長へ遺恨のあろうはずはなく、謀反の動機が不明なのです。 「人質に送った母親を見殺しにされた」だの「領地を召し上げられ山陰に送られた」だのといった嘘話が江戸時代に創作されたのも、動機がわからないからで、黒幕説も同じ流れの延長でしょう。

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回答No.6

人間は理屈で説明できないことが存在することに異常な恐怖感を抱くものです。 お化けというのは理屈で説明できない事象をお化けのせいにして理屈付けする ものだと言ったのは西洋の人類学者だったかな。 去年だったかにどこかで中学生の女の子が父親を刺し殺す事件がありました。 あの時、多くの心理学者や精神科医がこの事件の原因を「寝ぼけ」だと 説明しました。夢の中で見た、感じたことと現実の区別がつかない寝ぼけ 状態のまま包丁を取りに行ってしまったものだと。そういう前例はいくつか あったそうです。しかし伝統的な思考の塊である警察や検察はそれでは 説明できない(報告書がかけない)ので結局、勉強のことで叱られて むしゃくしゃしていたという自供を取り付けるや家裁送りにしていいました。 NHKの大河ドラマ「信長」の中で明智光秀は過労によって精神的に追い込まれて 謀反に走ったという描き方をしています。もしかするとそれが本当の動機なの かもしれませんが、それでは現代の日本人が描く戦国武将のイメージに 合いません。そこで様々な我々の先入観に合致する説を求めていって しまうのではないでしょうか。

回答No.5

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>そのようなものでない、根拠がしっかりして説得力のある黒幕説は存在するのでしょうか? 2008.10.14放映のTV東京「日本ミステリー」より。 「信長は明智光秀に殺されたのではない!!」 (1)光秀の居城「亀山城」からは、城下を通り、老ノ坂(おいのさか)の峠を越え、京都に入り、桂川を渡って本能寺へ着いた。 <1>このルートは、各種の史料等で、現在は「定説」となっている。 <2>しかし、このルートであると、亀山城から本能寺までは約20Kmとなる。 <3>光秀が亀山城を発進したのが、6月1日午後8:00。 <4>本能寺の変が起きたのは6月2日午前2:00。 <5>とすると、6時間で本能寺に到着しなければならない。 <6>当時の具足(鎧や兜)は、鉄砲に対する防御で、鉄板が多く使われており、約30Kgあった。 <7>城下は、ともかくとして、老ノ坂は、だらだらとした昇り坂で、馬であれば1頭ずつが縦に並んで通れるぐらい。人であれば、3~4人が横並びでも通れた。 <8>京都に入ってからは、「桂川」を馬上または徒歩で渡った。橋ははるか上流にはあるが、そこを通るとすると、時間はさらに延びる。従って、一番早く着くには桂川を馬上または徒歩で渡るしかなかった。 <9>ところが、公家の「山科言経(やましなともつね)」の書いた「言経卿記(ともつねきょうき)」によると、6月1日は「前日から雨」。 <10>当然、桂川は増水しており、馬上であっても徒歩であっても渡ることができない。はるか上流か下流の橋を「迂回」せざるを得ない。 と、なると、6時間で本能寺に着くまで、時速4~5Kmで進軍しなくてはならない。また、老ノ坂峠にしても、「ぬかるみ」だらけで、馬上の者は別として、雑兵などはとても早足で越えることはできない。 <11>従って、光秀は「本能寺の変」には間に合っていなかった。 (2)では、誰が信長を殺したのか。 <1>結論から先に言うと「イエズス会の宣教師たち」であった。 <2>イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスの記した「日本史」によると、 「信長が厠(かわや)から出て、手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放って背中に命中させた。(中略)。直後に、信長は小姓たちを呼び、鎌のような武器(薙刀)を振り回しながら応戦していた。しかし、鉄砲隊が放った弾が左肩に命中した。信長は直後に障子の戸を閉じて、火を放ち自害した」 と、あたかも「現場」を間近で見ていたかのような記述がされている。 <3>光秀軍が襲ったのであれば、何万もの兵がうごめく中、このような「詳細」を見ることはできなかったはず。 (3)では、なぜ、イエズス会だったのか。 <1>信長は、イエズス会の布教活動を許可し、自らも南蛮製のマントや帽子を着用していたから、イエズス会と仲は良かったはず。 <2>イエズス会の「怒り」をかったのは、やはり、ルイス・フロイスの記録によると、 「信長は、かくのごとく傲慢(ごうまん)になり、世界の創造主であるデウスのみに帰すべきものを奪わんため(中略)その霊魂は地獄に葬った」 と、ある。 <3>「かくのごとく傲慢」とは・・・。 信長の居城であった安土城跡(滋賀県安土町)に残る「廟(びょう)」のてっぺんに「盆山(ぼんさん)」と呼ばれる「岩」を乗せてあり、信長は、生前より、 「この石を神と思え」 と、いかにも天皇をも越えて、自分ただ一人が「神」である、と、命令をしていた、と、言われ、これがイエズス会にとっては、神はデウスであって、信長ではない、との反感をかった。 (4)本能寺の発掘調査が物語るもの。 <1>2007.3.3の「産経新聞」の掲載記事によると、本能寺は、北は六角通。東は西洞院通。南は蛸薬師通。西は油小路通。に囲まれた120m四方と言われていたが、信長が宿泊したと思われる場所は、本能寺境内の北東の角にある40m四方の小さな建物で、寺と言うよりも「武家住宅」あるいは「小御殿風」であった。 <2>と、なると、信長をはじめ側近の者が「雑魚寝」をしても、せいぜい40人位。 <3>これまで、100人近い兵と共に宿泊をしていた。と言う考え方は、到底無理が生じる。 <3>従って、イエズス会の宣教師たちの少人数でも攻めることができた。 (5)イエズス会のバックボーン。 <1>イエズス会は、南蛮貿易で「火薬」の原料である「硝石」を貿易しており、十分な資力があった。 <2>従って、弓矢や鉄砲などの武器を調達することは、「たやすい」ことであった。 <3>また、イエズス会の「本山」である「南蛮寺」は、本能寺から、わずか、300mしか離れていない。 (6)では、なぜ、明智光秀が罪人なのか。 <1>光秀が到着した時には、すでに、イエズス会により信長は「暗殺」されていた。本能寺も焼け落ちていた。 <2>確かに、光秀は信長を殺そうと本能寺に向かった。 <3>これにより、光秀は「謀反の罪」を着せられた。 と、まあ、このような「展開」でした。 なるほど、と、うなずける部分と、本当かなぁ、と、疑問が残る部分もありますが、いずれにしても、大学の教授や歴史家などが、以上の事柄について、「もっともらしい」説明をしていました。 はたして「歴史」は塗り替えられるのか・・・。

回答No.4

それ以上のことはなにもわかりません あなたのお考えのとおり いまのところ前に進めないようです 耶馬の国がどこにあったかと 同じ 誰も文句の言えない決定的な物 一級の資料がどこかの蔵から出て ある説を実証する以外は 歴史家といえど 推測の世界 それぞれの動機 あるべき動機は いつの時代も あるべき量(利)だけ存在するものでしょう あなたのいまお持ちの推測で十分じゃないですか その推論であなたなりの戦国期(信長)を追い 確固たるものになさればよいのではないですか こんなにたくさんの説があっても その説を間違いだと言い切れない以上 だれもあなたの問いに答えるすべはないでしょうから わたしは 桶狭間も義元の所在もつかめずに戦い遭遇し 本能寺も 明智の軍団のおおいなる手違いのようなことだったのではないかと 勝手に考えてます 戦慄が走り当惑した光秀の顔が浮かんできますがね 論外ですいません

回答No.3

根拠が確りしていれば定説になるでしょうから、いまのところ根拠の確りしているものはないでしょう。 光秀が野望を持って、絶好のタイミングで信長を討ったが、その前後の工作を失敗したため、ものの見事に失敗した。 というには、余りにもドラマチックな出来事だから、色々人々の想像力を刺激した結果ではないでしょうか。

  • isa-98
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回答No.1

時代背景。 諸国の天領は次々と戦国大名に侵食され 天皇は葬儀も上げられない状態に陥った。 ここで信長は7千石を献上。 信長は家督を子供に譲る。 結果、光秀に合力者無し。 その後、 秀吉も7千石の安堵を約束。 家康は1万石を献上。 禁裏御領は江戸時代3万石。