• ベストアンサー

「~ほうがよかった」の使い方を教えてください

 日本語を勉強中の中国人です。 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2095116    上記質問の#7の方のご回答の中で言及された「~ほうがよかった<後悔>」はどのように使うのか、教えていただけないでしょうか。「~ほうがよかった」を使う例文を書いていただければとても嬉しいです。  自然な日本語で文章を書きたいと思っていますので、よろしければ質問文の添削もしていただけないでしょうか。よろしくお願いいたします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.23

#8です。 しつこくて申し訳ありませんが、自分の説明がどうも不満足なのでまたおじゃまします。 また皆さん方のご意見も参考にさせていただきながら述べてみたいと思いますので、ご了承くださるようお願いしておきます。 最初に、既に述べましたが、私は「た」を過去形と解釈しておいたほうが理解し易いのではないかと思います。 ◆ まずご質問者当初の疑問点をもう一度確認しておきます。 先のご質問は、 【「~したほうが」の「た」は何でしょうか。「~したほうが」と「~するほうが」は使い分けておられるでしょうか。】でした。 「カードを使って引き出すほうがかんたんです」という例文が挙げられています。 「ほうが」=「方が」で【選択】の意味を持つことは納得されたと思います。 そして、「引き出す」という現在形で表現するのは、その動詞の「一般的性質(あるいは効果)」に基づいて選択が行なわれたということでしょう。 つまり、『「カードを使って引き出す」という行為が「簡単」という結果をもたらします』という一般的判断を述べているわけです。 これに対して「引き出したほうが」と言う場合は、 『「引き出した」という既成事実を作り上げたとしても、決して後悔はしないほど間違いなく簡単ですよ。』 という意味で、それほど自信を持って簡単であることを強調していることになるのだと思います。 このような意味で「た」を「過去形」と解釈しておくとわかりやすいのではないかと述べているわけです。 無論、わかりやすくするためだけに言うわけではありません。 「現在」という時制を認識すること自体が不可能(あるいは難しい)という本質があるからです。 なぜなら、例えば「今 ! 」と言った瞬間に「今」という言葉、及び「言ったという事実」は過去になっているからです。 それで現在完了形というものを「発明」したりしているわけでしょうが、紛らわしいものにならざるを得ません。 端的に言うと、人間には厳密な意味で(あくまで厳密な意味で、です)主観的に把握できる「現在」は無い、と思われます。 ◆ 今回のご質問は、 【「~ほうがよかった<後悔>」はどのように使うのか】という内容です。 様々な観点からの回答がなされていますが、それに対するお礼や補足を見て感じたことを述べてみたいと思います。 1、「ほう」が選択の意味であることは既に述べました。 選択である以上、必ず「~」以外の事柄と比較していることになります。 すでに過ぎた過去の選択について「あの時~しておけばよかった」ということですから、結果として後悔と同義になるわけです。 2、「のに」は、後に続く「実際はそうではなかった」という言葉が省略されていると考えてよいでしょう。 そうでなかった事実を再認識することで、結果として【強い後悔の念】を表現することになります。 「天ぷらのほうがよかった」は、まずいトンカツと比較して「天ぷらという選択をしたほうがよかった」という意味ですし、 「天ぷらのほうがよかったのに」は、後に省略されている「実際は違ってトンカツだった」という「よくなかった事柄」を改めて再認識することによって「より強い後悔の念」を表現していることになります。 「贈り物にするのなら,包装は豪華なほうがよかったのに ! 」は、「贈り物にするのなら,包装は豪華なほうがよかった ! 」よりも相手(店員など)に対する強い非難のニュアンスが含まれることになります。 ただ、これは他人に対してだけではなく自分で深く後悔する場合でも使えます。 上記の例文は包装をしたのが他人であることが前提になっているので、他者への非難ということになっているだけです。 「映画に行けばよかったのに。」あるいは「映画に行ったほうがよかったのに」は、通常は他者に対して用いられる表現です。 ただ、「今日は時間がたっぷりあったのだから、前から見たかった映画に行けばよかったのに ! また一日家の中でボ~っと過ごしてしまった。本当に私は出不精だなあ。」などという【自身に対する強い後悔】のニュアンスを込めて独り言を言っているような場面では自分自身の行為にも使えるということです。 ですが、たとえば花子さんが牛乳を間違って買ったことでとても後悔するような性質であれば、「あれ? まだ牛乳残ってたんだ。買わなければよかったのに、どうして買ってしまったんだろう。私の記憶力は大丈夫かしら。我ながら本当~に心配 ! 」と言う場面もあるでしょうが、牛乳一つでそこまで自分を責める人は少ないでしょうから、【強く(深く)後悔する】意味を持つ「のに」を使うと不自然な印象を与えます。 もう少し一般的な例では、『「あんなこと言わなければよかったのに」と思い出しては悔やむことがあります。』 という自省の文が挙げられるでしょう。 3、『「ほうが+過去形」で後悔、遺憾などの気持ちを表せることはちょっと理解不能です。』とおっしゃっていますが、このお気持ちは良くわかります。 「あの店のほうがおいしかった」という場合、単に以前行った他の店と比較して【おいしかったという評価】(支持)をしているだけだという解釈のほうが自然だからです。 「走るより泳ぐほうが速かった」 「僕より君のほうが頑張った」 など『比較する事柄(速い・頑張る)が明確になっている場合』も同様です。 ただ、「~ほうが【よかった】」という漠然とした言葉を使う場合、「~」ということの内容を評価しているわけではないのです。 「走るより泳ぐほうがよかった」は、「泳ぐことがよかった」のではなく、「泳ぐという【選択をしたほうが】よかった」ということです。 「僕より君のほうがよかった」は、「君がよかった」のではなく、(意味は同じですが)「君というという【選択をしたほうが】よかった」という意味になります。 つまり、「~ほうが+過去形」ではなく、「~ほうが+よかった」という表現が後悔を表わしている場合が殆んどではないかということです。 【過去に実際にしてしまった選択】と比較して、【そうではない選択】をしたほうが「よかった」と言っていることになるわけですから。 「~ほうがよかった」は、 『~を選択したほうがよかった』 という一連の意味と考えれば良いのではないかと思います。 4、「そのスカートよりこっちのズボンの方が似合ってたな~」は、少し意味合いが違います。 「そのスカートよりこっちのズボンの方が似合ってた」とすれば、3で述べたように【単なる比較】にすぎません。 後悔の念が含まれているとすれば文末の「てたな~」という、過去に対する詠嘆による効果ということになるでしょう。 「そのスカートよりこっちのズボンの方が似合ってるな~」は、「てるな~」と現在形ですから普遍的な認識としての感想です。 買う前の感想でもよいですし、または、今日はいているのはスカートですが他にズボンも持っていて、そちらのほうが似合うと思う、と相手の人が言っているわけです。 「白の(スカートの)ほうがよかった」は後悔を表わしますから、黒を買ってきた場合でしょう。 自分にものすごく怒る時に「黒のほうがよかったのに!!!」と言うことはできると私は思いますが、やはり、文末が「のに」で終わるのは自然とは言えません。 「ちょっと考えてみればわかりそうなものなのに、どうして気がつかなかったのだろうか ! 黒のほうがよかったのに !!! 本当に私って馬鹿ね !!! 」ぐらいの迫力(または注釈)がないと文章としては不自然に受け取られると思います。 また逆の意味で「~ほうがよかった」という表現を他者に対して使うこともできます。 「もっと大きいほうがよかったのに」というのは通常は相手への非難になります。 これを、やや独り言に近い印象になってしまいますが、「もっと大きいほうがよかった・・・」のような感じで使うと【あまり強くない非難】のニュアンスを出すことができるということです。

awayuki_ch
質問者

お礼

補足の続き  申し訳ありません。補足の続きです。まだすっきりしていない一箇所です。前回の質問なのですが(すでに締め切り)、よろしければ説明していただけないでしょうか。 >これに対して「引き出したほうが」と言う場合は、『「引き出した」という既成事実を作り上げたとしても、決して後悔はしないほど間違いなく簡単ですよ。』という意味で、それほど自信を持って簡単であることを強調していることになるのだと思います。このような意味で「た」を「過去形」と解釈しておくとわかりやすいのではないかと述べているわけです。無論、わかりやすくするためだけに言うわけではありません。  この「引き出した」の「た」の理解はいまいちです。「既成事実を作り上げたとしても」からすれば、「完了」の「た」のことでしょうか。「決して後悔はしないほど間違いなく」の意味はどこから見えるのでしょうか。よろしくお願いいたします。  また、補足欄の訂正は一箇所です。 『しかし、2の「よかった」はちょっと違う感じがします。この「よかった」から話し手の楽しい、興奮などの一連の気持ちも感じられると思います。』と書きましたが、「楽しい」を「嬉しい」に書き直せていただきます。 『しかし、2の「よかった」はちょっと違う感じがします。この「よかった」から話し手の嬉しい、興奮などの一連の気持ちも感じられると思います。』とするべきでした。  大変失礼いたしました。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー お礼  hakobuluさん、お礼が遅くなりまして申し訳ありません。度々ありがとうございます。  この回答文を拝見して心が見通された感じがします。hakobuluさんは私の困っているところをよく理解しておられると思います。特に回答3。いろいろ非常に参考になりました。だいぶすっきりになりました。  本当にありがとうございました。

awayuki_ch
質問者

補足

 まだすっきりしていない箇所について補足いたします。 1.「よかった」という言葉。 「:」の前のシチュエーションとさせていただきます。 (1).伝記小説の文:「田中花子氏は中学時代で国語の成績は非常によかった。しかし、数学などの理科系の成績は非常に悪かった。・・・」 (2).富士山の頂上に到着した時の心境:「よかった。やっと着いた。」 「よかった」という言葉は不思議な感じがします。1と2の「よかった」は同じ「よかった」と思えないのですが、hakobuluさんのご意見はいかがでしょうか。1から受けたイメージなのですが、作者は非常に冷静的というか、客観的に花子さんの過去のことを記す感じがします。「よい」という形容詞の過去形だと認識しています。もし「花子さんは中学時代で国語の成績はとてもよかった」という文を現在形に「変えなさい」と言われると、「花子さんは今国語の成績はとてもよい」になるでしょう。  しかし、2の「よかった」はちょっと違う感じがします。この「よかった」から話し手の楽しい、興奮などの一連の気持ちも感じられると思います。  変な比喩をするなら、1の「よかった」は平然たる大人っぽい感じの「よかった」に対して、2の「よかった」は10代の感情豊富な若者の「よかった」のような気がします。 「~ほうがよかった」の中の「よかった」はどちらの使い方の「よかった」なのでしょうか。ちょっと回転が・・・うまく自分の意味が書けなくて申し訳ありません。必要があれば、また補足いたします。 2.#12さんの補足欄で書いたシチュエーションとさせていただきます。私は白のスカートを買ってきて、母は私の買わなかった黒のを買ってきました。その時に、私は白のスカートを見ながら、何と言いますか。あるいは何と考えますか。 1.「白にしたことはよかった!」 2.「白を買ったことはよかった!」 3.「白にしてよかった!」 4.「白を買ってよかった!」 5.「よかった!私の選択はやっぱり正解!」  1と2は文法の本の直訳のように見えます。日常でたぶんこのような文は使わないでしょう。3と4も文法の本の直訳の文っぽいです。わざと動詞を出す必要がないような気がします。3と4は日常ではそのまま使える文なのでしょうか。5は自分で思いついた表現です。たぶん不自然に聞こえると思います。恐れ入りますが、この場で言う(あるいは考える)ネイティブな日本語を教えていただけないでしょうか。実際使う言葉(文法を説明する直訳の文ではなく)の視点でのご回答お願いいたします。  もう一度教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

その他の回答 (33)

回答No.34

昨日はすごくいい天気でした。今日は大雨です。今日という時点で天気の話をする時、「のに」は使えそうでしょうか。「最近の天気はおかしいね。昨日はまだ天気がよかったのに。」という言い方はあっているでしょうか。 ⇒この言葉遣いは間違えてはいません。これはこれでちゃんと使えます。 ⇒⇒しかし、今まで論じてきた観点とは少々異なりますね。「○○すればよかったのに」「~の方がよかったのに」を論じているのであれば、ほんのちょっと違うような気がします。 ⇒⇒⇒これは「天気が良かった(快晴)」という事実を指しており、それを残念がっているのではなく、今日が昨日とは違って大雨であることを残念がっている文章ですね。 以下の例文をお読みになるとその違いがお分かりになると思います。 逆のシチュエーションで考えてみます。 昨日まで大雨の予報が出ていたため、雨になったときに使う用具を買って、リュックの中に用意をして来ていました。ところが今朝になったら雲ひとつ無い青空です。 ⇒「なんだ、こんなに晴れちゃって。予報どおり雨になればよかったのに」(せっかくいろいろ買って持ってきたのに残念) ⇒⇒これは【偶然の結果に対する不満】の気持ちが現れた独り言です。 また、先ほどと同じシチュエーションで考えると、 昨日まで快晴続き、でも今日は大雨。 「最近の天気はおかしいね。昨日はまだ天気が良かったのにね~。こんなに降っちゃって残念だわ。今日もまた快晴なら良かったのに」 こんな感じです。 とにかく素晴らしい上達振りに驚かされます。しかもなかなか鋭い質問にたじたじといったところです。 いい勉強をさせていただいてます。 お互いに頑張りましょう。

awayuki_ch
質問者

お礼

 早速のご返事ありがとうございます。違いがよく分かりました。私の挙げた文は仮定の意味が含まれていないですね。例文をたくさん書いていただき感謝の気持ちでいっぱいです。  しつこい質問をいつも付き合っていただき本当にありがとうございました! 頑張ります!

回答No.33

「~のに」が自分に対して使えるか? 使えます。 ただし相手の人の行為に対して「~のに」と言うと、相手に対して恨みがましく聞こえてしまいます。 自分が行った事に対して「~のに」と言う場合は、これは自分に対しての様々な思いを込めた発言になります。 Ex.ずっと株価の動きを研究していて、明日は「○○会社」を買おうと心に決めました。翌日、午前中は株価の動き見て買うのは午後からにしようと思いました。ところが、午前お終わりに株価はどんどん上昇してしまいました。 ⇒「しまった~。やっぱり朝一番で買っておけばよかったのに~、これじゃもう買えないや~。失敗だ!」 Ex.徹夜で研究して、明日のメーンレースは「(3)-(6)」一点勝負と心に決めて競馬場に行きました。競馬場までの電車の中で、(6)よりも(4)かな?と思い始め、競馬場に着いた時には(3)-(4)一点に変えてしまいました。 ところが、レースの結果は(3)-(6)で決まりました。 ⇒「うわー、(3)-(6)で決まっちゃったよ。昨日決めた通りに買っておけばよかったのに~。俺はダメだな~」 このように自分の行為に対する反省、後悔を表すときには、「~のに」を使うことが出来ます。しかも、「~のに」は「よかった」で止めたときよりもさらに強い後悔、反省の気持ちが表されるような気がします。すなわち、「こうすればよかった。俺って本当にどうしようもない馬鹿だ」とか、「ああしておけばよかった。本当に残念で、残念でならない。考えるだけで涙が出てきちゃう」のような後悔の気持の表現になるのではないかと思います。 以上のように、自分に対してぶつける「~のに」は、どうしても【自分の行為、行動、思考などに対する場合】になりなます。 他人の行為、行動、思考などを対象に、「~のに」を言う場合は、強く責める場合もあるでしょうが、そうでない場合でも相手に恨みがましい気持ちを持って呟くことになると思います。 私が挙げた例文は相手の行動に対しての発言ですからあのようになっています。 また、、【これは自分に怒っているのでもなく、母親に怒っているのでもありません。偶然の結果に対する不満です】とおっしゃいましたね。 ⇒そうです。このスカートの例では、母親が購入してきたスカートの色が、自分の購入したスカートの色と同じだったわけです。しかも、母親が適当にみつくろって買ってきてくれたものが、偶然にも同じだったわけです。 したがって、「どうせなら黒い方が良かったのにな~」という誰に対してでもない不満、残念さが表現されているという事です。 もしも黒いのをと頼んでおいたのに白い方を買ってきてしまった場合は、母親を責める思いでの発言になります。「黒いのって頼んだじゃない!」というようなニュアンスの発言が出てきます。

awayuki_ch
質問者

お礼

 shigure136さん、早速のご返事ありがとうございました。

awayuki_ch
質問者

補足

 おっしゃる「偶然の結果に対する不満です」の感じが少し分かるようになりました。  たとえば、昨日はすごくいい天気でした。今日は大雨です。今日という時点で天気の話をする時、「のに」は使えそうでしょうか。「最近の天気はおかしいね。昨日はまだ天気がよかったのに。」という言い方はあっているでしょうか。確認していただけないでしょうか。よろしくお願いいたします。

回答No.32

No.19&21です。 大変遅くなりました。 awayuki_chさんの質問文: ●日本の方の頭の中の「白にしてよかった!」という意味の文はどんな文なのか知りたいです。もう一度教えていただければ幸いです。直感でよろしくお願いいたします。 ●「白でよかった!」「これで正解じゃん!」「白であったりぃ~」でしょう・・・(かね?)

awayuki_ch
質問者

お礼

 glifonglifonさん、何度も本当にありがとうございます。大変参考になりました。ありがとうございました。

回答No.31

awayuki_ch さんこんにちは。 大変遅くなりましたが、補足質問にお答え致します。 ●>私は自分の買ってきた白いスカートを見ながら、「白にしてよかった!」の「にして」は構造を理解しやすいためにわざと入れた言葉です。日常でもっと略された言葉を使うはずですが、どのように言うのでしょうか。 ⇒「にして」が日常的に使用されている言い方です。 ⇒他の言い方としては、「白い方に決めて良かった」とか、「白い方を買ってきて良かった」などがありますが、awayuki_ch さんのお使いになった「にして」が最も判り易いかも知れません。 ●>ただし、自分も白い方を選び、母親も白い方を選んだ事が判って、「(あ~良かった、やっぱり私が買ったのが)【白いほう で 良かった】という表現はあります。 この文のシチュエーションをawayuki_ch さんは、親子二人でデパートの売り場でスカートを選ぶ(購入前)という場面であれば、「やっぱり私が買った」のところは変ですね。「やっぱり私が選んだ」なら、納得できます。これは親子二人でそれぞれ売り場でスカートを選んで、最後に二人の選んだものは同じということが分かった時点で、「良かった」と言うのですね。二人ともこの白いスカートが一番気に入るということが分かった時点で、「良かった」という言葉を使うなら理解できます。まだお金は払っていません。これから店員に「これにします」と言ってお金を払うつもりですね。 ⇒もちろん上記のシチュエーションでOKです。しかし、私が想定したシチュエーションは、以下に記されたawyuki_ch さんの解釈、すなわち、家に帰ったあと(購入後)のことなのす。 そこで、awayuki_ch さんは次のように質問をなさっています。【普通同じようなものを買ってしまうと、望ましくないことと思われるのではないでしょうか。なぜ「良かった!」なのでしょうか。もう一度登場人物(私と母)の心理を説明していただけないでしょうか。】 ⇒もちろん同じものを購入してしまったという事は、同じものがダブってしまったわけですから、心の中では残念という気持が動いています。 しかし、一方で次のような確信と安心感が心の中に湧いてくると私は思ったのです。 1.その商品を選択した自分の「選択眼」が正しかったという確信。 2.お母さんも「白い方」を選んだということは、やはり私の選んだ「白」が、自分にピッタリだったんだという確信です。 3.また、「白」を購入した時には、やっぱり「黒」にすればよかったかなという一抹の不安や迷いがあったかもしれません。しかし、お母さんも私に最適なものとして「白」を選んだことで、自分の中にあった「迷い」が解消した結果の安心感です。 ★このような確信と安心感を想定しての「発言」でした。 ●>母親も白いスカートを買ってきてしまったとき、「黒のほうがよかった」であっているでしょうか。⇒あってはいます。でも、この場合母親にスカートを買ってきてと、頼んでいたわけではないので、「黒い方を買ってきてくれたらよかった(のに)」「黒だったら良かった(のに)~」などの方が妥当です。 ⇒私のこの回答文に対してawayuki_ch さんは、【「黒のほうがよかった」は私が買ってきた白いスカートを見ながら、独り言で言うつもりです。母が買ってきてくれた白いスカートを見ながら、発する言葉ではないと思います。この独り言はあっているでしょうか。】と質問をなさっています。 ⇒もちろん、独り言でもあっています。 そして、母親の購入してきた「白」を見ながらの発言も可能です。 ⇒お母さんが購入してきたスカートが「白」だったことを知って、「え~!!!私も白いスカートを買ってきちゃったのよ。どうせなら黒の方を買ってきてくれれば良かった!」と言う場合です。(こちらは極めて普通に使う事が出来ます) ●>「黒のほうがよかったのに」と私自分自身に普通言わないのでしょうか。⇒自分自身に対してというより【独り言】で言います。(これは自分に怒っているのでもなく、母親に怒っているのでもありません。偶然の結果に対する不満です) ●>独り言で「偶然の結果に対する不満」「のに」のこの使い方はよくあるでしょうか。 ⇒よく使われます。 ⇒「えっ?そうならそうで先に言ってくれれば良かったのに」(相手に) 「こうなるんだったら昨日のうちに済ませておけば良かった!」(自分の後悔・反省) 「また徹夜になるんだったら、お弁当持ってくれば良かった」(同上) 「また徹夜になるんだった、お弁当持って行けば良かったのに」(相手に) 一度回答文が削除されてしまい、回答がたいへん遅くなってしまい申し訳ありませんでした。

awayuki_ch
質問者

お礼

 shigure136さん、先日もありがとうございます。折角書いてくださったアドバイスですが、削除されるなんて本当に残念に思います。でも、すでに読みましたので安心してください。shigure136さんのご親切に感謝しております。    補足に対するご回答ありがとうございます。私は「~よかった」の「~」の部分を見たかったのです「にして」が日常的に使用されている言い方なのですね。安心できました。 【自分も白い方を選び、母親も白い方を選んだ事が判って、「(あ~良かった、やっぱり私が買ったのが)【白いほう で 良かった】という表現】は納得できました。確信と安心感を想定した発言なのですね。    本当にありがとうございました。

awayuki_ch
質問者

補足

> 私:「黒のほうがよかったのに」と私自分自身に普通言わないのでしょうか。 shigure136さん:自分自身に対してというより【独り言】で言います。(これは自分に怒っているのでもなく、母親に怒っているのでもありません。偶然の結果に対する不満です) 私:独り言で「偶然の結果に対する不満」「のに」のこの使い方はよくあるでしょうか。 shigure136さん:よく使われます。 「えっ?そうならそうで先に言ってくれれば良かったのに」(相手に) 「こうなるんだったら昨日のうちに済ませておけば良かった!」(自分の後悔?反省) 「また徹夜になるんだったら、お弁当持ってくれば良かった」(同上) 「また徹夜になるんだった、お弁当持って行けば良かったのに」(相手に) となっていますが、もう少しご意見をお聞かせください。  私は「のに」は自分自身に対しても使えるかどうか知りたいです。でも、ネイティブのスピーカーでも相当意見が違うようです。shigure136さんから「のに」は独り言としても使えると確認していただきました。でも、【これは自分に怒っているのでもなく、母親に怒っているのでもありません。偶然の結果に対する不満です】とおっしゃいましたね。「偶然の結果に対する不満」の箇所はまだよく分からないので聞き返したのですが、挙げてくださった例文は全部他人に「良かったのに」、「自分自身」に「良かった」を使う例文なので、shigure136さんの意図はよく分かりません。申し訳ありませんが、「のに」は自分自身に対しても使えることについてのご説明はもう少しいただけないでしょうか。よろしくお願いいたします。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.30

#27です。ご返事ありがとうございます。 ◆ 「良い悪い」が他の事柄(あるいは状況)と比較した評価の基準」 というのは、あまり上手な説明ではなかったと思います。 「良い」という語は色々な意味を持つことができるということです。 短距離の選手にコーチが「今日は良かったよ」と言えば「早い」と評価しているわけで、「遅い」ことと比較した評価になります。 演奏家に対して「今日は良かった」と言えば「上手」という評価で、「下手」な場合と比較していることになります。 「国語の成績は非常によかった」でも、「試験の得点が高かった」という意味ですから、「得点が低かった」場合との比較。 「山頂に着いて良かった」と言えば、「(これ以上)歩き続けなくて済む」ことを評価していることになり、「歩き続けるという状況」と比較していることになるということです。 つまり「なぜ良かったのか(良いのか)」という内容を考えることによって過去として認識し易くなるのではないか、と思ったわけです。 しかし、 『「よかった」は足が山頂に上がった時(たとえば、一秒後)使う言葉なので、「過去形になるのではないでしょうか。』 という適確な解釈をなさっている方に対しては全く無用のことだったと思っています。 たとえ「今」のことを言っているようでも、 『>過去の状況(つまり、「着いた」という行為)に対して、たんなる一評価の「良かった」のことではないでしょうか。』というのは、まさに同感です。 ただ、「頂上に着くとなぜ良いのか」という点を分析すると「歩くより歩かないほうが良いので、よかった」という意味になるだろうということです。 紛らわしい表現で申し訳ありません。 ◆ >「よね」は「よ」のタイプミスでしょうか。そうではないなら、ここの「よね」は難しいです。「迷った」は母に確認する必要がないのではと思いますが・・・ :売り場で黒と白のスカートを見比べながら「どっちが私に似合うかしら? 」と迷った。 そして、「やっぱり白のほうが似合いそう・・・」と考えて白を買った。 家に帰ってみると、お母さんが黒いのを買ってきていた。 まず最初に、 「あ、お母さんは黒を買ってきたの?! 」と言うと思います。 次に自分が買ってきた白のスカートを見せます。 そして、危うく同じ黒を買ったかもしれないという【危険性を回避できたことを喜ぶ】意味で、 「同じ色を買わなくて良かった!」 と言うでしょう。 続けて、「危険だった状況説明」が普通は続くと思います。 わざわざ説明するということではなく、その危険性が偶然性によって乗り越えられた幸運を話題にすることによって会話を楽しむ場合も結構あるということです。 実際にこの全てを口にする人はいませんが、 「だって、私は売り場で白にしようか黒にしようか迷ったのよね。もし、あの時『黒にしよう』と決めていたら2人とも同じ黒を買ってくることになっていたわけでしょう・・・。危機一髪だったわ。偶然だけどその危険性を避けられてよかった。」という具合です。 :私は男なので、このような場面で「よね」という言い方はしませんが、「ね」は軽い詠嘆を表わす終助詞です。 「迷ったのよ」という女性言葉に詠嘆が加わって、会話において「迷った」ということが重要な要素であることを暗示的に軽く強調することになると思います。 迷ったからこそ(同じ黒を買う)危険性があったわけですから、ここで「ね」を使うのはむしろ自然かもしれません。 「私、マラソンで優勝したのよ」と「私、マラソンで優勝したのよね」は殆んど同じ意味です。 ただ、前者は事実を表わす一般的な用法と言えるに対して、後者は「本当に優勝したのよ」「優勝したという事実は間違いないのよ」といったニュアンスを含みます。 もうひとつ「おまけ」。 「あそこの餃子本当においしいのよ」と 「あそこの餃子本当においしいのよね」のニュアンスの違い。 そこの餃子を思い浮かべながらしみじみ言う場合は後者のようになるでしょう。 「ある程度深い思い入れ」の表現です。 ◆ 感覚的な回答の上、表現技術が拙いものでどうしても理路整然とした表現から外れることが多くてご迷惑をおかけします。 それに比べて#28さんを初めとする他の方々のご回答は整然としている場合が多いと思います。 いつも大変参考にさせていただいています。(感嘆符などの後はスペース、なども実行しているつもりです) この場をお借りして感謝申し上げます。 ただ、#28の内容は私にも少し難しくて全て理解し切れていません。 もう少し勉強する必要がありそうです。 ただ、#28さんには、 差し支えなければもう一肌脱いでいただけると有り難い(風を召されぬ程度に)と存じますが、お気が向きましたらお願いしたいと思います。 1、 「>完了ってのは、これは英文法をごく安易に想起していただいて結構でしょうが、現在完了とか過去完了とか未来完了とか、どの時制にも現れるんですよ。そこで更なる前後の区分を作り出す。(A)」 「>こういうものを「過去」という言葉で説明しようとするのは愚じゃありませんか。無用かつ深刻な混乱と歪曲を招くだけです。(B)」 (A)の「前後の区分を作り出す」という箇所が上手な説明だと思うのですが、これは厳密には「その時点における過去を仮定する」ということになり、私の「既成事実としての過去を仮定する」と同じ意味だろうと思います。 「カードで引き出したほうが簡単です」という場合は、 未来における引き出す行為を想定して、その時点での「前後の区分を作り出す」ということになるのでしょうか。 「無意識ですよ、発語において文法の支配は」とおっしゃるのも、 「客観的な時制(過去であろうと何であろうと)に規制されるものではない」という意図もわかるのですが、この概念の最大の欠点はおっしゃるところの 「>客観的な時制」を解釈しづらくしているという点だと思うのですがいかがでしょうか。 ですから、(B)のような結論にはどうしても抵抗があるのですが、どんなものでしょうか。 2、「過去・現在・未来なんて截然と分かれた三つの時制なんかなくたって、一つの線状の連続体における前後関係をいちいち紛れなく指定できるならばそれでとくに困ることはないはずです。」 はかなり哲学的な概念ではないかと感じるのですが、おっしゃるように「>我々はみんな永遠の現在の中にいる。」わけです。 であれば、その現在を起点にして過去や未来という時制を創造する思考形態はごく自然と言えるようにも思うのですがいかがでしょうか。 因みに私が述べたのは、あくまで【現在という認識をすることが不可能】ということで、正確な現在の状態を表現することは不可能という意味です。 表現した時点ですでに現在ではなくなっているので。 3、>助動詞「た」の先祖は「たり」、「たり」の元は「助詞『て』+動詞『あり』」です。アリですよアリ。確固たる存在もしくは事実として認めること、それが「た」の本質でしょう。 :歴史的経緯を興味深く拝見させていただきました。ただ、よくわかるのですが「て+アリ」は「アリ」とは相当趣が違うのではないでしょうか。 「て」は動作の連続・作用の推移を意味する助詞だと認識していますが、これはまさに過去の時制を髣髴とさせる助詞とさえ言えるような気がします。 「アリ」のみではなく「て」を付加せざるを得なかったところに「たり」の過去形としての宿命が現われているように思われます。 ともかくありがとうございました。 awayuki_chさんにも勝手に欄を使用させていただき、お詫びとお礼を申し上げます。

awayuki_ch
質問者

お礼

 hakobuluさん、こんにちは。最近ずっとこの問題を考えています。返事が遅くなりまして本当に申し訳ありません。何度も詳しいご解説ありがとうございます。 「頂上に着くとなぜ良いのか」という視点からの細かい分析に感謝いたします。とても参考になりました。それから、#27のA1はもう一度読みました。A1のおっしゃる意味も理解できました。  例文の中の「よね」の使い方までもご丁寧に教えていただき本当にありがとうございます。また、いつか機会がありましたら、詳しいお話をお聞かせいただきたいと思います。  いろいろ本当にありがとうございました。厚くお礼を申し上げます。日本語の勉強、頑張ります!

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.29

#25です。ご返事ありがとうございます。 私の考え方については大体そんなところです。 『新明解国語辞典(第五版)』の引用をありがとうございます。 興味深く拝見しました。 名前に偽りなく明解な解釈だとは思いますが、「すでに」「結果が現われている」などの文言が含まれており、過去時制の要素が多分に含まれていることはこの辞典も認めているような気がします。 しかし、 ●昨日雨が降った ●新聞はもう読んだ ●私がやったら出来なかった までをも【主体の判断】とするのであれば、「過去形」という概念は必要なくなるのではないでしょうか。 この辞典では、どのような構文を以って過去形と説明しているのでしょうか。 興味深いところです。 つまり、「雨が降った」が主体の判断だとする考え方は、過ぎ去った事象は個人のそれに対する認識があって初めて事実として存在したことになる、という実に哲学的な解釈ではないでしょうか。 哲学的な解釈が悪いとは言いませんが、昨日という過去の(天候という)単純な事実を表現していると考える方が自然ではないかと思います。 なぜこのような無理な解釈をするのかと言えば、例えば「今度会ったときに話そう」という場合の「た」を説明する場合、未来のことなのに過去形が使われている、という矛盾を避けるためではないかと推測します。 しかし、「今度会ったとき」を私流に解釈すれば、『「会う」という事実が確定的に過去になるような状況が今度発生したら、そのときに話そう』ということになります。 なぜ、「会うとき」ではなく「会ったとき」とわざわざ過去形にするのかといえば、未来のある時点における「会う」という行為がすでに過去のものになっている(=会った)という想定をすることによって「そのとき(時)」が確実に訪れるということになり、結果として強調されるからです。 「この辺は昔は寂しかったろう」 については、明らかに過去形であって、主体の判断を表わしているとすれば「ろう」という推量の助動詞があるからに他ならないのではないでしょうか。 「済まなかったね」 という場合も単純な過去形と言ってよいと思います。 例えば、誰かとぶつかった瞬間は「済まない」と言うはずで、「済まなかった」とは決して言わないでしょう。 この文における「本当に」という強調は、文尾の「ね」という詠嘆を表わす終助詞のなせる業と解釈すべきではないかと思います。 「あしたは月曜だったっけ(月曜にまちがい無いね)」 は、類似文が既出ですが、「暦の上では(昔から)月曜ということになっているのだったよね」という解釈をします。 「帽子をかぶった(=かぶっている)人」 は、「見た(あるいは見る)段階で【すでに】帽子をかぶっている人」という意味に受け止めます。 「絵にかいた(=かいてある)ような景色」 は、「【すでに】絵にかいてあるような景色」「【元々(遠い以前から)】絵になっているような景色」ということになります。 天下の辞典にたて突くつもりは毛頭ありませんが、個人的な見解として述べるだけ述べてみました。

awayuki_ch
質問者

お礼

 度々ありがとうございます。  『新明解』の用例を一つずつ丁寧に説明していただきありがとうございます。外国人勉強者の私にとっては理解しやすい説明方法になると思います。  本当にありがとうございました。

回答No.28

#24に訂正すべきところがありました。 >「自分のおおむね知っていること」と書いていただきたきたかったところ。 これは、「『自分が大体は知っていると思っていること』と書いていただきたかったところ。」でした。失礼。 そんじゃあその、#23さんのご要望にお応えいたします。率直に申して、あんまり気が進まないんですが。なるべく、ご主張を言い消すのではなくポジティブなかたち、とは新明解の語釈を解説したり敷衍したりすることでしかありませんが、そういうふうに物を言うように勉めます。けど…うまくいくかしらん…。 まず、新明解の語釈の受け取り方に間違いがあると思います。助動詞「た」が「主体の判断」だ、というのは、裏を返すと客観的な時制(過去であろうと何であろうと)に規制されるものではない、ってことを言ってるんだと私は解しております(日本語には時制がないのでね)。意識の有無とは無関係です。と言うか、無意識ですよ、発語において文法の支配は常に。 過去と完了と、何が違うかお分かりになってますでしょうか。これ、たいていの人は分かってないと思う。完了のことを過去だと思ってると思う。それは常に間違いとは言えないが、過去が完了だと思うならそれは明白な間違いです。それに第一、日本語には過去がないし。 完了ってのは、これは英文法をごく安易に想起していただいて結構でしょうが、現在完了とか過去完了とか未来完了とか、どの時制にも現れるんですよ。そこで更なる前後の区分を作り出す。 こういうものを「過去」という言葉で説明しようとするのは愚じゃありませんか。無用かつ深刻な混乱と歪曲を招くだけです。 そんで新明解の語釈って要するに「完了の助動詞」と言うだけでは一般人には訳が分からない、と言うか不十分なところを補正してできた語釈だと思うんですよ。 で、日本語には過去がない、未来もない、というのは時間を天地開闢から尽未来際まで、一個の連続体として扱う、ということです。過去・現在・未来なんて截然と分かれた三つの時制なんかなくたって、一つの線状の連続体における前後関係をいちいち紛れなく指定できるならばそれでとくに困ることはないはずです。「完了」というのはそのポイントを指定する機能の謂でしょう。それさえあれば混乱も不自由もない。むしろ英語みたいに三つの時間的領域を画然と区切り続けようとする努力の意味が私にはよく分からない。 #23で「「現在」という時制を認識すること自体が不可能(あるいは難しい)という本質がある」とおっしゃってますが、これは違うでしょう。私は生まれてこのかた現在から一歩も出たことがありません。過去にも未来にも足を踏み入れたことはありません。死ぬまで必ずそうでしょう。我々はみんな永遠の現在の中にいる。 日本語も同じ。永遠の現在の中に生きている。過去は過ぎ去らずに現在の中に積み重なり続ける。 でも、もともとは、昔は日本語も過去を持っていました。重ねてでも、文法学者はよくよく過去の一語が嫌いなようで、助動詞「き」や「けり」が表すのは過去というよりは「回想」がふさわしい、なんて強く主張する向きもあるようですが。 私はこれは大勢のごとく「過去の助動詞」と呼んで構わないと思います。これが記憶の中にのみ残った事柄、過去にはそうであったが現在はそうでないものを語るために用いられるなら、十分に異質な時間、現在に閉じこめられた我々にとって、境界の向こう側にある時間と見ていいでしょう、英語のように文法的強制力として働かないとしても。 助動詞「き」「けり」「けむ」「らむ」は一体なぜ消滅したのでしょうかね。そりゃ過去を現在化する技術が導入されたからじゃないですか。記憶が記録に取って代わられてゆくなかで、これらの助動詞は不要になっていったのではないかしら。歴史とは常に現代史であるほかない、とかなんとか誰か言ってませんでしたかね。 助動詞「た」の先祖は「たり」、「たり」の元は「助詞『て』+動詞『あり』」です。アリですよアリ。確固たる存在もしくは事実として認めること、それが「た」の本質でしょう。過去という概念に頼るとこは有害無益と考えます。

awayuki_ch
質問者

お礼

 訂正ありがとうございます。了解いたしました。  今回の内容は今の私にはとても難しいです(たぶん無理・・・文頭と文末しか分かりませんでした〔涙〕)。日本語の勉強年数はまだ浅いです。mannequinkatzeさんのこのお話の真意はまだ分からないのですが、もう少し日本語を勉強して何年後また読み返すつもりです。#28は全文印字しました。  心より厚くお礼申し上げます。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.27

#23です。ご返事ありがとうございます。 ◆<A1.「よかった」という言葉。> (1)「田中花子氏は中学時代、国語の成績は非常によかった。」(ここの「中学時代【で】」は誤用です) (2)「よかった。やっと着いた。」 a. 『1と2の「よかった」は同じ「よかった」と思えないのですが』というのは日本語を良く理解している証拠と言えるでしょう。 ただ、どちらも漢字の「良」という字が使われるわけで、基本的な意味は同じではないかというのが私の考えです。 2は、おっしゃるように現在の嬉しい気持ちを表現していることになります。 それなのに、なぜ「よい。やっと着いた。」と言わないのか? というのが素朴な疑問として湧くのは当然ではないかという観点からの回答になります。 この「た」が(嬉しい気持ちを)強調する役割を持つというお考えもあるようですが、それを否定するわけではありません。 「た」にはそういう意味も含まれていると言われればその通りというしかないのですが、ただ、それは結果論であって「なぜ強調する役割を持つことになるのか」という視点がないと、日本語を勉強する外国の方々には理解しづらいのではないかと考えたわけです。 そして、【本質的には】どちらも過去形であると考えていいように思うということです。 では、富士山の頂上に着いて「よかった。やっと着いた。」という場合、今の(嬉しい)心境を表わしているにも係わらず、どういう意味で過去形と言えるのか。 まず、「良い(よい)/悪い」というのは、他の事柄(あるいは状況)と比較した評価の基準を示しています。 つまり、歩き続けるという状況と比較していることになります。 歩き続けることが「既に終わった」、という過去の状況に対して「良かった」と評価しているわけです。 歩くことが終わったのは「今」なのですが、「よかった」と口に出す時点で既に過去のことになっています。 時制としては微妙なところですが、それを敢えて過去形として認識しようとするところに【歩くことは既に終わった。だから良かった】という点を強調する意図が込められているのだと思います。 日本人は赤ん坊の時から耳で感覚として覚えているので、日常会話においてその用法の違いを意識することは殆んどありません。 ただ、その【感覚の理由】を分析すれば過去形という本質があるのではないか、と思うわけです。 b. 『(2の)「よかった」から話し手の嬉しい、興奮などの一連の気持ちも感じられると思います。』というのは正しい解釈です。ですが、 『(2の)10代の感情豊富な若者の「よかった」のような気がします』は違いますね。 老若男女を問わず使える表現です。 c. >「~ほうがよかった」の中の「よかった」はどちらの使い方の「よかった」なのでしょうか 述べてきたように、本質的にはどちらでも同じだろうと思います。 ただ、比較するという意図がが明確になっている点で2と覚えたほうが覚え易いのは確かでしょう。 この辺は説明不足のような気もしますが、釈然としないようでしたらまた補足を入れてください。 ◆<A2> 1.「白にしたことはよかった!」 2.「白を買ったことはよかった!」 は共におっしゃるとおり直訳っぽいですね。 3.「白にしてよかった!」は自然な表現です。 白のほうにして(白のほうを選んで)本当によかった、というニュアンスがよく出ています。 「あ、お母さんは黒を買ってきたの?!もし同じのを 買っていたら大変だったわね。(黒でなく)白にして本当によかった! 」という感じです。 4.「白を買ってよかった!」も自然です。 ただ、3に比べると【本当によかった】というニュアンスは弱いと思います。 「あ、お母さんは黒を買ってきたの?! 実は私も売り場でどちらを買おうか迷ったのよね。でも、お母さんが黒なら私は白を買ってよかった」という感じでしょうか・・・。 白を選んでよかったということよりも、(同じことですが)白のほうを貴重なお金を使って購入したということに対してよかったと言っているニュアンスがあります。 5.「よかった!私の選択はやっぱり正解!」 このようなシチュエーションでは、殆んどの人が「よかった」という言葉を使うでしょうね。 最も自然な表現だと思います。 後に続く言葉としては「やっぱり白にしてよかった」「やっぱりこっちにしてよかった」などもよく使われると思います。 「私の選択」という言葉を敢えて使うことはあまりないと考えたほうがよいでしょう。 「よかった。白にしてやっぱり正解!」というような形だと自然です。 ただ、気をつけなければならないのは「やっぱり=やはり」です。 つまり、この言葉は「予想したとおり」というニュアンスを持ちます。 お母さんが黒を買うだろうということを予測するような状況がないのに(例えばお母さんがスカートを買いに行った、ということをawayuki_chさんが知らない場合など)、この「やっぱり」という言葉は使えません。 「正解!」はこのような状況でも使えます。 ただ、この場合は半分「ラッキー!」というようなニュアンスになりますね。 その場の雰囲気次第なのですが、 「あ~、白にしてよかった!」が最も自然なように私は思います。 お母さんはどっちの色を買うだろうかと迷った末に白を買ってきた場合は、 「やっぱり白にしてよかった!」 ◆<A3.この「引き出した」の「た」の理解はいまいちです。> 完了ではなく過去形として使ったつもりです。 話し手は相手に、「既に引き出した」という状況を仮定してみてください、と言っているわけです。 『あくまで仮定ですが、カードで引き出したということが過去の動かせない事実として確定してしまったとしても、その時点で決して(他の方法のほうがよかったと)後悔することはないほど簡単だということは間違いありません。』 という意味を含んでいるということです。 ◆ しかし、awayuki_chさんの文章は日本語自体は完璧とおだてるつもりはありませんが(それでもそこいらの日本人よりは遥かに上等な日本語をお遣いですが)非常に論理的です。 そのへんが回答者にも投稿する意欲を湧かせているのだと思います。 納得するまで補足入れてください。 ただ、今回の件は言葉自体の意味は既に正確に把握していらっしゃるようで、そのあと解釈の方法についての論議になっています。 私の考えはあくまで個人的な感覚にもとづいたもので学問的な根拠はありません。 また、ネイティブでも相当見解の分かれるところだと思うので、awayuki_chさんが理解し易い方法を採用すればよいのではないかと思います。 多くのネイティブがそうであるように、解釈の中身よりも、実際的な表現が適切であれば何の問題もないことだからです。

awayuki_ch
質問者

お礼

 度々ありがとうございます。    A2のご回答は全部理解できました。私は「~よかった」の「~」の部分を見たかったのです。「したことがよかった」という文はやはり日常会話で不自然なのですね。確認していただき安心しました。また、「ほうが」、「すれば」、「しておけば」、「して」などのように「よかった」の前にいろいろ付けられますね。    A3も解決しました。hakobuluさんの考え方はよく理解できました。    私は「~ほうがよかった」の使い方は確かに皆さんのおかげですでに分かりました。ただ、「よかった」という言葉遣いがまだ少し気になるので、もう少し考えさせていただきます。励ましてくださりありがとうございました。頑張ります!

awayuki_ch
質問者

補足

>変な比喩をするなら、1の「よかった」は平然たる大人っぽい感じの「よかった」に対して、2の「よかった」は10代の感情豊富な若者の「よかった」のような気がします。 >『(2の)「よかった」から話し手の嬉しい、興奮などの一連の気持ちも感じられると思います。』というのは正しい解釈です。ですが、『(2の)10代の感情豊富な若者の「よかった」のような気がします』は違いますね。老若男女を問わず使える表現です。    変な比喩の文を書きました。「1は極めて冷静な雰囲気の言葉に対して2は人の感情に浸透される雰囲気の言葉のような気がする」という意味を表したかったのです。書き方が下手で申し訳ありません。  A1についてまだすっきりしていないので、もう少しご意見をお聞かせください。 >では、富士山の頂上に着いて「よかった。やっと着いた。」という場合、今の(嬉しい)心境を表わしているにも係わらず、どういう意味で過去形と言えるのか。まず、「良い(よい)/悪い」というのは、他の事柄(あるいは状況)と比較した評価の基準を示しています。つまり、歩き続けるという状況と比較していることになります。歩き続けることが「既に終わった」、という過去の状況に対して「良かった」と評価しているわけです。 『「良い(よい)/悪い」というのは、他の事柄(あるいは状況)と比較した評価の基準を示しています。』とおっしゃるのですが、「他の事柄(あるいは状況)と比較した評価の基準」とはどういう意味でしょうか。 「他の事柄(あるいは状況)と比較する」なら「~ほうがよい」という表現でしょう。つまり、「ほうが」がこの比較のニュアンスをもたらすと思います。たんなる「~がよい」でも比較の意味が含まれているのでしょうか。山頂に着いた時言う「よかった」は「~ほうがよかった」の省略ですか。過去の状況(つまり、「着いた」という行為)に対して、たんなる一評価の「良かった」のことではないでしょうか。私は「他の事柄(あるいは状況)と比較した評価の基準」の意味がよく理解できてないので、hakobuluさんの意味を勘違いしたかもしれません。 >「歩き続けるという状況と比較していることになります」  何とこの「歩き続けるという状況」との比較のことをおっしゃっているでしょうか。  私は「よかった」を「着いたということがよかった」、「着いてよかった」のことだと理解しています。「よかった」は足が山頂に上がった時(たとえば、一秒後)使う言葉なので、「過去形になるのではないでしょうか。  hakobuluさんの『「歩き続けるという状況」との比較』の説明はまだよく理解できていないので、もう少し説明していただけないでしょうか。私はここの比較の理論がよく分かりません。  ということで、次の内容の理解も難しいです。 >「~ほうがよかった」の中の「よかった」はどちらの使い方の「よかった」なのでしょうか >述べてきたように、本質的にはどちらでも同じだろうと思います。ただ、比較するという意図がが明確になっている点で2と覚えたほうが覚え易いのは確かでしょう。  A3についてですが、一箇所はタイプミスであるかどうか確認していただきたいです。 >「あ、お母さんは黒を買ってきたの?! 実は私も売り場でどちらを買おうか迷ったのよね。でも、お母さんが黒なら私は白を買ってよかった」という感じでしょうか・・・。 「よね」は「よ」のタイプミスでしょうか。そうではないなら、ここの「よね」は難しいです。「迷った」は母に確認する必要がないのではと思いますが・・・  長くなりまして本当に申し訳ありません。もう一度教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.26

度々申し訳ありません。 #25の訂正です。下から三段目。 【しかし、これは先に「食べたほうがいいよ」の「た」を強調と判断しているために無理に作られた解釈のように感じます。 単純に、「未来の行為に対する忠告なので過去形は使えない」と解釈するのはダメでしょうか。】 という箇所が誤解にもとづく内容で、結果としても甚だしい論理矛盾でした。 お詫びして全面的に撤回し、以下のように訂正します。 『これは確かにおっしゃるとおりだと思います。 ただ、この場合もやはりあくまで「食べなかった」ということを【既成事実として仮定すること】が不可能なので過去形として言えない、という考え方をします。』

awayuki_ch
質問者

お礼

 何度もありがとうございます。この考え方も納得できます。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.25

#23です。 #21さんと#22(=#20)さんのご回答を読んで感じたことがあるので、またお邪魔させてください。 私自身は、どちらかと言えば#21さんのお考えに近いようです。 #22さんクラスの実力をお持ちであれば受け止めていただけると思うので、「~た」についてのご見解に疑問を投げかける形で少し述べさせていただきたいと思います。 残念ながら私は新明解を持っていないのですが、#20において、「た」は「主体の判断を表す」という点が肝要であるとおっしゃっておられます。 しかし、これはあくまで結果的にそうなるのではないかと私は考えます。 つまり、「ここは主体的判断を表わすところだ」と考えて「~た」を使う人はまずいないということです。 ただ、「主体的判断」を表わしたいような場面では、「~た」という表現が【無意識的に】使われるのではないでしょうか。 そして、なぜ無意識的に使われるのかという点を問題にすべきではないかと考えるわけです。 21さんもおっしゃっていますが、 「遠足だったよね」と「雨だったよね」は、『ということだったよね』と、【過去に確定していた事柄の再確認】という意味に解釈するのが妥当なように思います。 「あった!」が現在形であるとおっしゃっているのはわかります。 ただ現在形と言うならば、なぜ「ある」ではダメなのかということが論点になるべきだと思います。 「あった!」は、ある状態を脱して問題が確定した場合の表現とおっしゃっておられますが、これは非常にわかりやすい解釈だと思います。 ただ、【なぜ確定した時に使うのか】という点を考える必要があるのではないでしょうか。 鋏の例で言えばまず、これは「ずっと探していた」という継続行為を暗に強調している点が重要だと考えます。 そして、「こんなに探していたが、実はそれ以前(という過去)に鋏はすでに(ここに)あった。」というニュアンスが「た」を使わせるのだと思います。 つまり、【すでに存在しているもの】を探すわけですから、それを見つけた時には【(元々)ここにあった!】ということになるのではないでしょうか。 「どこにあるか」は、そのような言葉を口にしている今の時点で鋏はどこにあるのかという意味ですし、「そこにある」は、そう言っている瞬間の鋏の状態を指しているわけですから、現在の時制になるのは当然でしょう。 『ずっと探し続けてきたが、実は鋏はそこに【すでに】あった』という過去の状況として表現することによって、探し続けてきたことの虚しさ(もっと早くにこの場所に気がついていれば、こんなに長い間探さなくてもよかったのに・・・、という)が強調されているわけで、このような感情を表現したい時に【過去形としての「た」】が自然に使われているということではないでしょうか。 特に探す必要もなく目の前のものを確認するだけであれば、「ある」と言うでしょうし、それは探し回った苦労を強調する必要がないからだろうと考えるわけです。 無論、この場合の「ある」も「あった」も、その場の鋏の状況としては同じく【現在】という時制になります。 ただ、「あった」のほうは「探し回った」という行為を強調させるための表現ということです。 そのためには、探し回るという行為より以前(すなわち過去)に鋏があるという状況は存在した(すなわち「鋏はあった」)、ということを過去形として明確にするのが効果的だと感覚的に理解しているのではないかと思うわけです。 #22欄においては、 【やめとけという気持ちを強調したくても「食べなかったほうがいいよ」とは絶対に言わない】理由として、「否定形がどこまでいっても観念に過ぎない」という解釈をしていらっしゃいます。 しかし、これは先に「食べたほうがいいよ」の「た」を強調と判断しているために無理に作られた解釈のように感じます。 単純に、「未来の行為に対する忠告なので過去形は使えない」と解釈するのはダメでしょうか。 「どいた、どいた」については、 『これから「どく」なんて悠長なことを言っている場合じゃない。 すでに(過去の事実として)「どいた」という状況が作られていないと間に合わないというぐらいの気持ちで、すぐにどいてくれ。』という解釈を私ならします。 #22さんの胸をお借りする心境で述べてまいりましたが、ご質問者であるawayuki_chさんのご理解に発展的な意味を持つ投稿であることを願うばかりです。

awayuki_ch
質問者

お礼

 私のせいで大変お騒がせして本当に申し訳ありません。「た」の理解はネイティブスピーカー同士でも意見が違うようですね。「た」は過去の事実であることは強調したいのですね。心より厚くお礼申し上げます。

awayuki_ch
質問者

補足

 私の理解で間違いがありましたら、指摘していただけないでしょうか。よろしくお願いいたします。 hakobuluさんのお考え方 「た」は過去の(百年前も一秒前も「過去」)事実を表すだけである。ただし、この事実からいろいろな感情を導くことが出来る。この感情を導くことは必要な一環とは限らない。 #22さんのお考え方 「た」自身には主体的判断が含まれている。文によっては、主体的判断は表面的にはよく見えないかもしれないが、「主体的判断」が「た」の本質である。 ということでしょうか。  ついでに、『新明解国語辞典(第五版)』より「た」の引用です。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー た(助動・特殊型) (1)その事柄がすでに実現し、結果が現れているものと△認められる(見なす)という主体の判断を表す。 ●昨日雨が降った ●新聞はもう読んだ ●この辺は昔は寂しかったろう ●私がやったら出来なかった ●今度会ったときに話そう ●済まなかったね(=本当に済まないね) ●あしたは月曜だったっけ(月曜にまちがい無いね) ●帽子をかぶった(=かぶっている)人 ●絵にかいた(=かいてある)ような景色 (2)「終助詞的に」軽い命令を表す。 ●さあ子供はあっちへ行った。 ●どいた、どいた。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  以上、引用済みでした。

関連するQ&A