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言語学を専攻にする人に質問したいのですが

言語学についてなのですが、言語学界において、それぞれの専門(認知意味論、生成文法、形式意味論など)以外の考え方にどうして批判的に攻撃し合うのでしょうか?特に、生成文法はかなりの批判のまとになっていると思うのですが、確かに、その持ちうる理論には説明できない領域があることは確かなのですが、 私は、お互い補いあえるような存在であればそれにこしたことはないと思うのですが、それではいけないのでしょうか。みなさんの知見をお聞かせ願います。

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回答No.2

平たく言えば、真理を探究しているようで、学会というより学界ではgame、つまり、ルールに基づいた試合のようなものをしていて、かつ、その時々の流行の話に花を咲かせます。また、だれか影響力がついよい人が出てきると、その方向になびき、その方向性の相違だけで、攻撃しあうのです。つまり、いたって人間的な営みですよ。どの学問も実態は一緒でしょうが、日本人の場合は、欧米でやっていることを移入してやる傾向がかなりあるので、その攻撃フィールドがさらに拡大している気がします。 ある意味で、科学でも個性の発揮するところと考えていると、意外と面白いですよ。 ただ、すべての現象を説明できる仮説なり理論は、強すぎると言われることから、本質的に、学問自体に終焉が見えない世界で一生やれるともいえます。 もうひとつ忘れてはいけないのは、他の領域の進歩に合わせて言語学も進歩します。すると、その進歩に追いつかない(追いつきたくない)人らもでてきます。こういうのが特色をそれているんです。 お互い補いあえるあえるような理論を作るくらいなら、自分で統一的な理論を作り上げたいというのが、 普通の感覚だと思っていましたから、ご質問は結構勉強になりました。

jacky15
質問者

お礼

自分で統一的な理論を作るとなればチョムスキーが一番に浮かび上がりますが、言語学界で最も認められているけど、その反面、批判を最も受けている人だとも思います。でも、チョムスキーがこの世にいるからこそ、他の研究者が触発され、様々な議論へと展開されるわけで、チョムスキーのような理論を独自に作る人がさらに次世紀に現れれば、さらに、言語学界は活発になりますよね。 貴重なご意見ありがとうございます。

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回答No.3

補足です。 「批判的に攻撃しあう」というのを、むしろ私などは、生産的かどうかという点で捕らえます。 科学は強烈な個性の発揮であるという科学者もいます。 科学も人間の営みです。 「チョムスキーのような理論を独自に作る人がさらに次世紀に現れれば、さらに、言語学界は活発になりますよね。」ということですが、あくまで、個性的な人間や、面白い人間が自分の人生を追及するようにならないとこれはあまり期待できませんよ。なぜそうなのかは、じっくり考えてみてください。 

jacky15
質問者

お礼

ありがとうございました。

  • taked4700
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回答No.1

もうすでに大学を卒業してから30年近くが経ってしまい、そう言う学会の論議などもほとんど縁がなくなってしまっているので、ある程度的外れになるかもしれませんが、レスさせてください。 >お互い補いあえるような存在であればそれにこしたことはない 確かにそうですよ。ただ、現実に言語学はまだまだ若い学問で、色々な意味で評価の定まったものがあまりない状態であると思います。ある意味、言語とは永遠にきちんとした構造の解明は出来ない、そう言うものとも感じるのですが、それだけに、色々な考え方が出てきていいし、批判こそがよりいっそうの発展を促すものであるはずなのです。 もうひとつは、補い合える関係というのは、すでに当たり前にあり、それを前提にした批判が必要とされているのではと感じます。 社会科学というのは、多分、ほとんどの場合、同じような状況にあると感じます。

jacky15
質問者

お礼

大変鋭い知見を聞けて嬉しく思います。確かに、既存の概念を覆す中で、新たな視点が生まれ、それがさらなる言語への解明に貢献するという見方はもっともなことだと思います。有難うございます。