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自分が死ねば、宇宙が消滅するのか?

. 私に、哲学に造詣の深い知人がいます。 彼が、時折 「世界は、あなたが観測するから存在する。あなたが死ねば宇宙は消滅する」と言います。 その考えが存在することは、哲学の書籍で知っていました。 (独我論という考えらしいです。他の名称であれば、すみません。) しかし、自分はその論には、どうしても府に落ちなかったのです。 それである時、その知人に 「じゃ、俺が死ねば、お前も消滅するのか?」と聞いたところ、沈黙してしまい、それ以後その論は話さなくなりました。 自分は、不思議で仕方がありません。 先の論は、哲学書にも記載されているから、認知されている考えなのでしょう。 それに、時代の批判にも耐えてきたのでしょう。 それなら、どうして僕の素朴な疑問にも答えられないのでしょう。 皆さんの意見を聞かせてください。 .

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noname#163132
noname#163132
回答No.11

一般人ですが、独我論…wikiでざっとみました。 だから本当には理解できていないかもしれませんが、知人はこのようなことが言いたかったのではないかと…(付け焼き刃で回答しては、知人に怒られてしまいますかね…?)。 それって、つまり世界は自分が認識した上で存在するということですよね。 自分という体と意識があってこそ、世界を体感、認識できるということとすると、 >「世界は、あなたが観測するから存在する。あなたが死ねば宇宙は消滅する」と言います。   自分の認識を頼るとそういうことになりますね。 自分自身が死ぬと、自分は世界を観測できなくなるから、認識が出来なくなります。自力で認識できる世界が宇宙の全てだという考えの基では、その説は成り立ちます。指示しているわけではないけれど、言わんとすることは分かる気がします。 >「じゃ、俺が死ねば、お前も消滅するのか?」と聞いたところ、沈黙してしまい、それ以後その論は話さなくなりました。 知人が仰る、「自力で認識できる世界が宇宙の全てだ」という考えの基では、質問者さんは死を迎えることによって自分の存在も、知人の存在も認識できなくなります。 死ぬことによって、「認識できるもの=世界」が消滅します。 その論の基では、質問者さんにとっては死でもって宇宙の全てが消滅します。 自分の認識によってのみ存在証明が出来るのだという立場を取ると、そういう結果になります。 乱暴ですが、証明(認識)できないものは存在しないということでしょう。 知人は質問者さんではないから、仮に質問者さんが先に亡くなっても、自力で認識できる世界を生きて存在し続けます。 そのときの知人を認識できるのは、知人とその関係者です。 でも、知人が亡くなるとき知人が認識してきた世界はそこで終わります。 知人の関係者は知人の死を認識し、その後の世界を生きるのだけれど、知人が属した世界と同じものだとは証明できません。 何故なら、知人の関係者を知人は観測できないからです。 だから、同じ宇宙だとは証明できません。 知人とその関係者は同じ時代を生きている間は、同じ宇宙で存在していると証明し合うことが出来るけれど、その後の宇宙も同一の宇宙で延長上にあるものなのかどうかは、知人もその場に居合わせないかぎり証明できないからです。…自分の認識が全てだから。 なので、知人と質問者さんが感じ取ってきた宇宙が存在していても、お二人が存在することが叶わなくなったら、その後の世界が二人が属してきた宇宙そのものであるかどうかは、お二人には証明が叶いません。 個人による存在の証明の限界を、端的に「自分が死ねば、宇宙が消滅する」と言い表しているように聞こえますね。 私が存在して認識をしなければ、記録も記憶も写真も録音も、存在の証明にはならない。 本当にこれが通れば、裁判は無意味なものになってしまうし、映画も音楽も遺跡も無意味になってしまいます。 実際には制作者や当事者が亡くなっても、それらの事実は世界の中に存在し続けるのにね。 「人間の世界は、人間が観測するから存在する。人間が滅びれば、人間が作り出した世界は存在価値を失う」ということであれば、とても良く分かります。 「世界は、あなたが観測するから存在する。あなたが死ねば宇宙は消滅する」とは、これを一個人に当てはめて言い表した言葉のようにも思えます。 「ものがあっても、それを理解出来る人が誰もいなければ、存在していないのと同じ」なら分かるんですけれどね。 自分の存在だけが確かだという大前提で成り立つ説で、現実にはそぐわない感があります。

mintarou1
質問者

お礼

. すばらしい! 初めてで、そこまで解釈できるものでしょうか! 大型新人の登場!ってやつですかね。 解釈に特に、異論はありません。 ただ、僕が問題にしているのは、最初に質問に書いてあるように「腑に落ちない」と言う点でもあります。 これは、mist_greenが、文末で書いている。「現実にはそぐわない感があります。」って言う事と同じだと思いますが、こんなに、現実から乖離感を感じる論が、そんなに、認知されているという、違和感なんですよ。 これは、できれば、後のほうで、突き詰めていければと思っているんですが、相手(回答者)のあることですからね。 どう、話が展開するか・・・・ .

その他の回答 (38)

  • heartmind
  • ベストアンサー率14% (32/226)
回答No.39

いいものを作るには、知的な計算、技術、豊かな発想、感性、情緒これらは欠かせないですよね。どっちに偏るかは好みだけど、やはり豊かでなければいい作品ではないですよね。 最強のへ理屈と好みの関係ですけど、個人的見解ですが、芸術的感性や生きる上でのダイナミズムに利用すればいいと思うのです。 合理的、客観的に考えを突き詰めすぎると、世界人口がこんなに増えているのに自分が生きていく意味なんて無いってなるのです。 そこから振子を180度反対に振ってみる方法論の一つなのです。 そんな風に主体性を完全に失ったとき、良くも悪くも自分は自分でしかないんだから、自分を表に出さないと、他人の批判も受けられない。それじゃあ成長がないよねってことです。 ですがもちろんそんな極端な考え方に偏りすぎても、良くないのですけど。

mintarou1
質問者

お礼

. 回答ありがとうございます。 言いたいことの趣旨分かった気がします。 ・ そろぞろ、この質問スレッドを閉じたいと思っています。 多少の成果も得られたし、前に進むのも限界が見えた気がします。 .

  • heartmind
  • ベストアンサー率14% (32/226)
回答No.38

どういったご趣味なのかはわからないけど、確かに美しいっていう感じる人間の確率論から作品が計算されて作り出されたとしてもそれはそれで、評価に値するものだと思います。 しかし一方、形而上学的な立場からいうと、評価におもねくにまかせていては、それはいい作品ではなく、いやらしい作品になっちゃうわけです。目が肥えた貴族の為の作品でしかないものは結局それでしかない。 自分の感覚がスパンと形を超えてそこに現れていないとってことみたいです。 だから、どっちがいいってわけでもないのです。好みでしょうか。

mintarou1
質問者

お礼

. 回答ありがとうございます。 すみませんが、最後の「好みでしょうか。」って >なんか最強のへ理屈みたいで嫌だなってことでしょうか。私もそう思うけど、でも案外そういう考え方も生きていく上で必要なこともあると思いますよ。 と、どういう関係があるんでしたっけ? 混乱してきました。 .

  • heartmind
  • ベストアンサー率14% (32/226)
回答No.37

>そうですか。 >自分は、現実離れした論は、思想の遊戯みたいで自己満足の世界に思えるんですよ。 >生きていく上での必要性があるのかな? >現実と整合性のある論の方が役に立つんじゃないか、と思うんですよ。 これって、ちょっとしたヒントじゃないでしょうか。 つまり自己満足の世界は必要か? 現実と整合性のない論は役に立たないのか? ってことです。 西洋美術に触れてみてください。

mintarou1
質問者

お礼

. 回答ありがとうございます。 西洋美術を、哲学と比較して考えるって発想は無かったですね。 もしかしたら、自己満足の世界が、役に立つって事を言いたいんですかね。 意外と思われるかも知れませんが、西洋美術は好きなんですよ。 まあ、でも考えてみました。 西洋美術も、古い時代は、貴族の肖像画を沢山描いていますよね。 それって、貴族に気に入られないといけないから、自己満足ではないですよね。 近代(?)になって、自分の思うがままに自由にかける描ける機会が増えたでしょう。 でも、時代の批判に耐えて、今に至るまで評価されている人って、画家の中でも一握りですよね。 さらに、自分が好きな画家となると、さらに限られてきます。 だから、確率論からいれば、自己満足が評価される割合は、とても低いと言う結果になるんですけど・・・ それって、heartmind さんの意図と違う考え方ですかね? .

noname#99059
noname#99059
回答No.36

No.35 ちょいミス訂正させてください。 >「確信できる」ということと「認めない」とは違うではないですか。          ↓↓↓          訂正:「確信」と「信用」とは違うではないですか。

noname#99059
noname#99059
回答No.35

続いて、本ご質問に移ります。 >すごい幼なじみですね。 幼くして「独我論」を体得していたんですね。 今は、どんな論まで、マスターしていることやら・・・ そんなもの、「独我論」なものですか(笑)高校は、ソコソコのレベルだったけど、大学も行ってないし、ただの無学な主婦になってますよ。性格に問題が大きいせいか、子どもの頃から家族も含めて周囲の嫌われ者でしたよ。今頃は、その性格の歪みを、真っ先に自分の子どもらから糾弾・矯正を迫られて鍛えられてるかもね(笑) >こんなに、現実から乖離感を感じる論が、そんなに、認知されているという、違和感なんですよ。 ですから、 >ある一面での真実 だからなんでしょう。つまり、 >wikiの独我論からの抜粋ですが、独我論は、哲学的な考え方の一つ >独我論は認識論や形而上学での立場の一つ ということです。 >独我論は認識論や形而上学での立場の一つで、自分にとって存在していると確信できるのは自分の精神だけであり、それ以外のあらゆるものの存在やそれに関する知識・認識は信用できない、とする。 これで、書いてあるように、自分以外の精神(これをイコール意識とします。)を認めない立場です。 よって、他人に意識を認めないから、意識の無い存在は、世界(宇宙)を認識できないので、他人には、世界(宇宙)が無いと言う考えです。 ん?本当にそうですか?No.22さまも仰ってるようですけど 「確信できる」ということと「認めない」とは違うではないですか。 まぁ、だいたい、その自分自身についてすら実は「確信」なんて、マッタク危ういと思うし。 「独我論」って、要は、「創造神」みたいなところに立った視点で、外側がないとするから、主語をつけないということかしらね。 だけども、自分以外はロボットかもしんない、とか >自分以外の人間は操り人形 だとか、自分と他人とは全然違う存在だとするなら、先の御回答者さまからも出ているようですが、間主観性なんかは成り立ちようもなく、契約や法律などの現実的社会的な諸々も成り立たないではないですか。 >以下のサイトの「独我論」の解釈は、誤りって事ですかね。 だから、人の解釈はイロイロで、それを踏まえてるからこそ、哲学においてはコトバの扱いと定義に神経質なほど煩いのでしょう。 そもそも、自分しかいない世界だとしているのならば、その自分が承服できない、違和感を感じるものを、何のためにワザワザ存在させなければならないのか、その必然性は?という疑問も起きてきますし、 >世界で、私しか意識が無い。・・・・これって、自然な考え方ですか? という疑問も起きてくるの、当然だと思います。 >定義とは何でしょう? 個人で、勝手に決められるものでしょうか? そうしたら、論理は基礎を失い展開できなくなります。 >定義は、一般に認められている内容としなければなりません。 その場合、wikiの定義を用いるのが常識的な対応だと思います。 この↑ご意見自体、質問者さまの定義みたいなもん? すでに回答されてますが、ウィキも、決して信用しきってはいけないという意見、よく見かけますよ。 >再度wikiの別の部分から、独我論の説明を引用します。 >これに対して、独我論は、私の認識とは無関係な事物の存在を否定する。リンゴが存在するのは、私が認識しているときだけであり、私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)。全ては私の意識の中にのみ存在し、私の意識を離れては何物も存在しない。これが独我論の基本的な世界観である。 >「世界は、自分が観測するから存在する。自分が死ねば宇宙は消滅する」 (笑)それらの主張に酷似したことは、そのへんの無学な日本人一般庶民が昔から看破して言ってきてるんじゃないですか? 「見ぬもの清し」とかって。 >「世界は、自分が観測するから存在する。自分が死ねば宇宙は消滅する」 >「じゃ、俺が死ねば、お前も消滅するのか?」 観測する俺が、ってことですよね? 観測する、って何なんでしょうねえ? 自分の「死」を自分で体験できない、という考え方だって、じゅうぶん胡散臭いと思いますけど、それが本当なら、「自分の死」はないということになりますから、どのみち「世界」は永劫永遠不滅、ってことになりますね。

mintarou1
質問者

お礼

. 回答ありがとうございますぅ。 何度か、表明しているんですが、自分は頭が悪いので、長い文章は、苦手なんですぅ。 最初に読んだ文が、後半になると忘れているので・・・・ しかも、回答者さんは、言っている主張と思われる部分も多いですし。 今後は、私の、頭の悪さを考慮して、今の1/3の量に要約して書いていただくと、何とか着いていけます。 とりあえず、頭に残った所だけ、コメントします。 幼なじみの方は、やっぱりすごいですね。 >真っ先に自分の子どもらから糾弾・矯正を迫られて鍛えられてるかもね 尋常ではない、技の習得ですね。別の次元へ言ってしまいましたね。 >「見ぬもの清し」とかって。 いえいえ、見えないものは消滅ですから、清も汚しもないんですよ。 >自分の「死」を自分で体験できない、という考え方だって、じゅうぶん胡散臭いと思いますけど、それが本当なら、「自分の死」はないということになりますから、どのみち「世界」は永劫永遠不滅、ってことになりますね。 そこまで、話が広がると、収拾付きませんので、聞かなかった事にしておきたいと思います。 「ご勘弁を!」って感じですかね。 .

noname#99059
noname#99059
回答No.34

もう一つの方の御質問に投稿しようと思っていたら、閉め切られてしまっていたではあ~りませんか。 本来は規約上良くないことなのかもしれませんが、「具体例を挙げてもらえませんか」と、おっしゃっていたことに応ずるつもりをしてましたので、仕方なく、こちらに投稿しますね。以下は、ですから、そのおつもりで、これはこれとして、こちらの質問とは少し区別して、お読みくださいな。とは言っても、こちらの質問と全く無関係の内容でもないと思います。 ☆~☆~☆~☆~☆~☆~ >左利きって言うのは、時代、文化、地域によらず、ほぼ10%存在する >これは、遺伝でもないし、記憶でもないし、何か、左利きを10%に保とうとする、見えない力が働いているんですよね。 >このことを、考えても、人の癖って、どこから来るのか分からない部分がある >僕は、それが何か分かりません。 先の御質問でのNo.19さまへの御返事なのですけど、あー、そういうことね、なるほど、と思いました。うん、言われてみれば、おもしろい現象ですよね。 障害者数の割合も、社会全体の中で常に一定だとか、会社などの組織内でも、よく働く人と怠惰な人との割合は、いかなる場合にも結局、ほぼ一定してるとかいう話を聞いたことがありますけど。 詳しくは知りませんが、やはり「摂理」としか言いようのないことでしょうか。 しかし、とくに、会社組織での「働き者」と「怠惰な者」との線引きを、どこで明確に引いてるんだろ?という疑問もさりながら、こうした「割合」というのも、それが崩れてきたとき、はたして何が起こるだろうかと思います。 でも、「人の癖」というと、そういうのは一般的に、親から受け継いだんだねと分かりやすいものが一番多いのではないですか? あるいは、親にそういう癖はないのに、子ども側には爪を噛む癖があるとして、その癖は、何か厭なことがあったとき、それをすると少し落ち着くからというので後天的に身に付いたとして、 爪を噛む代わりに、なぜ髪を掻きむしったり歯を食いしばったり激しく瞬きしたり、ではないのか?という疑問も出てきますよね。他の反応を退けて、あえて「爪を噛む」という行為なんですね。 >記憶を持たない赤ちゃんでさえ、個性があるわけでしょ。  記憶に関係ない所で個性があるということは、その個性こそ、本人の本質に近いものだと思うのです。 う~ん、母親の腹中で、いきなり出来上がってポンと出てくるわけではないですから、赤ちゃんには赤ちゃんなりの記憶の芽くらいはあるかもよ? それより、私が重視しているのは、「記憶」そのものではなくって、記憶の「つくられていきかた」、なのです。そのことを言ってます。 >>「記憶」のあり方の個性、これが何によるのか? >>私の母親の言ですが、生まれてきたばかりの赤ちゃんに、もうすでに個性はシッカリ備わっているよ、と言うんですけどね。 と先回述べたことですけど、 >身体という物質は自分という意識を入れている容器な様な物 と質問者さまは、おっしゃいました。 私も、 >良く機能する 【良くではなく、よく、です!】 よく機能する「入れ物」というのは、脳も含めた身体を指して言ったつもりです。 >身体能力って、結構遺伝に左右されるから、それって違うなって 遺伝や生まれつきであろうとなかろうと、障害というものも、その個人の傾向性や癖や性格に多大な影響をもたらし、個性と人生を形作っていきます。 たとえば、私は、背後から車が近づいてきても軽く鳴っているクラクションにも気づかないままでいることがあるので、けっこう危険なこともあって、道路を歩行中は時々後ろを振り返って確認しながら歩くのですが、他人から見れば、そういう「癖」が無意識のようにあるかに見えるでしょう。私は意識的にやってることなんですが。 同じような経験であっても、ある人は、「失敗」の記憶格納庫に収納するかもしれないし、ある人は「歓喜」の記憶格納庫に入れるかもしれないですね。 そのうちに、また類似の経験が目の前に来たよという時、ある人は、「失敗」の格納庫から記憶を引っ張り出して、二度舞いは、やめとこ、と考え、ある人は「歓喜」の格納庫から引っ張り出して、それっとばかりに飛びつくかもしれない。はたまた、失敗が大逆転したという記憶のある人は敢えてリスクに向かって行って、二度目の成功の記憶を、または、今度こそ、と思いながらも、あ~またやっちゃった、という失敗の記憶を新たに増やすかもしれない。 そうして、成功の記憶が失敗の記憶を上回っていく人と、失敗の記憶が成功の記憶を上回っていく人とでは、行動の決定時における癖なり、傾向性が異なってくるようになるのではないでしょうか。 その積み重なりが、次回の行動を決定するうえで、もうすでに力を持っているのではありませんか?と言っています。 そもそも、記憶を呼び起こそうとすること自体、記憶の積み重なりかたというものが次回の行動を方向づける力を持っているからである、ということです。 苦手なことや、機能上の弱点が曝け出されるような作業を強いられ続けてきた人なら、いわゆる「負の記憶」が積み重なって、消極的な性格になったとしても不思議はないですよね。 >記憶以上に、本質への重みの大きいものがある ですから、その「本質の重み」が、記憶の形づくられ方に影響している、記憶の形づくられ方は、次回行動の方向性に影響している、ということは、 では、おっしゃるところの「本質の重み」とは何か、ということになりますでしょう。

mintarou1
質問者

お礼

. おいおい!どこまで追いかけてくるんだよ! とりあえず、馴染みの客なので対応しますが、特別ですよ! まず、お願いしたのは、長い文章は、私は頭が悪いので、一度に頭に入りません。 可能なら、今の1/3ぐらいに、要約して、書き込みお願いします。 正直に言って、noname#99059 さんは、哲学の思考方法になれていないと思います。 哲学の基本的な、思考方法方法をご存知ですか?   帰納法   演繹法 が、代表的な思考方法です。知らなければ wikiで調べて、それを参考に思考してみてください。 気になるのが、癖の発生原因要素を「摂理」と言い。 次に、「人の癖」というと、親から受け継いだものが一番多いのではないですか?と言い。 さらに、その癖は、何か厭なことがあったとき、それをすると少し落ち着くからというので後天的に身に付いたとして、と言っています。 何を主張のポイントにしているのか、分かりにくいです。 >同じような経験であっても、ある人は、「失敗」の記憶格納庫に収納するかもしれないし、ある人は「歓喜」の記憶格納庫に入れるかもしれないですね。 具体例を挙げてください。 >記憶を持たない赤ちゃんでさえ、個性があるわけでしょ。  記憶に関係ない所で個性があるということは、その個性こそ、本人の本質に近いものだと思うのです。 う~ん、母親の腹中で、いきなり出来上がってポンと出てくるわけではないですから、赤ちゃんには赤ちゃんなりの記憶の芽くらいはあるかもよ? それより、私が重視しているのは、「記憶」そのものではなくって、記憶の「つくられていきかた」、なのです。そのことを言ってます。 記憶を持たない赤ちゃんでさえ、個性があることを認めながら、記憶の「つくられていきかた」を主張するのも、論理展開上おかしいです。 と言うわけで、主張の論理展開がかなりぶれています。 (1)今の分量の1/3ぐらいに要約する努力をして見て下さい。  どうしても、分量を削るために、主張の本筋をつかまないといけないので、思考の訓練になります。 (2)先に書いた、納期法、演繹法で、自分の文章の書き方を検証してください。 と言うわけで、簡単な回答になりますが、(1)、(2)の後、更なる書き込みお願いします。 .

  • sheep67
  • ベストアンサー率28% (36/128)
回答No.33

こんばんはー。 「じゃ、お前が死ねば、俺も消滅するのか?」 に言換えるということですが、お前と俺を入れ替えても、話は変わらない気がします。 どっちにしても、独我論という、自分というただ一つの主体だけが存在してる?という主張と、 この言葉の中の、お前、と、俺、という2つの主体があることを前提にした因果関係の話は相容れない気もするんですが。 お前も俺も同じように確かな存在であれば、これはどう転んでも独我論に反しますよね?それを前提に話はできませんよねー。 あるいは、お前にとっては、俺は信じるにたる存在ではない、か、認識はできるがいるかどうかわからん、か、本質的な存在でなく2次的な存在か、ばっさり存在を否定されるか、 どっちにしてもこちらの存在の軽重を問われるみたいです。 それなら、俺は幽霊みたいな存在だから、死んでもお前が消えることはない、とかいわれそうです。 何ですかねーこの話。 やはり存在論を、AならばBである、と言うような関係性対応の話に持ち込むのはやばいのでは? 存在と関係は相容れないと思います。かな・・・

mintarou1
質問者

お礼

. 言われる通りの矛盾があるかもしれません。 僕の言いたい趣旨は、「独我論」が自分の意識は認めるが、その他の人間の意識は認めない。つまり、意識があるのは自分だけだ。と言うような違和感のある論。 この論への評価を、このスレッドで皆さんの意見を聞きたかったのです。 そういう、趣旨なので、「独我論」をどう思うかの、意見を聞かせてください。 .

  • ga111
  • ベストアンサー率26% (247/916)
回答No.32

ん?私に決めてほしいと言っていたようですが。私にとってはほとんどD=FなのでFでも構いませんが、Fを採用しても、命題Cと矛盾します。(なぜなら、#参照) 、、、という私の考えには合意できるのでしょうか?イエスなら、ほぼ議論終了だと思います。 #「他者はこころに現れた現象として認識するしかない」なら、「私の認識とは無関係な事物の存在」を否定も肯定もできないはずです。よってウキペディアが不正確な叙述をしていると私は考えます。言語学者や哲学者がかいているとは限らない(普通は書いていない)のでよくあることです。これはウキペディアのその記事の内部に矛盾があるというだけです。

mintarou1
質問者

お礼

. 決めて欲しいとは言っていないはずですよ。 そう思えるところを、示していただけませんか? 自分は、ga111 さんが、信用できると思われる「辞書」「本」なりの 定義を示してください。と言っていた積りですが・・・・ さて、どう話を進めましょうか? ga111さんの言われた、 >他人の精神に対する私の認識は信用できない、と取るべきです。 >他人には他人のさまざまな考え方、感じ方があるので、厳密には他人の考えを完全に把握することはできません。 >自然だと思います。 >また、あるもの(たとえばパソコン)の知識も、パソコンについて知識が深くなればなるほど変わっていくでしょう。 >よって、存在に対する私の知識も信用できないのです。 と言う所と、定義との整合性から検証していきますか? .

noname#135843
noname#135843
回答No.31

 こんばんは、Hidocchiです。  独我論について、愚生なりに補足を述べさせていただきたいと思います。  確かに、独我論につきましては、一般的には、”他者”は入ってはきません。そこで、”弱い独我論者”と呼ばれるフッサールですが、彼の論には”他者”が入ってきます。そして、客観性の成立としまして、相互主観性(間主観性 or 共同主観性)という概念を取り入れております。ですが、”他者”(他我)の厳密な存在証明等、その後の哲学者から批評されております。やはり、独我論におけます、”他者”の存在、さらには、関与の仕方等には説明しきれないという問題が孕んでいるように見受けられます。  相互主観性:複数の主観(ある集団の成員たち)で共通に、その事態の知覚や意味が成立することを、意味します。また、そのような主観のあり方を指します。 http://taki.cool.ne.jp/di/Te/a-ka.htm#Intersub  ですが、デカルトの「我思う故に、我あり」の矛盾性を突いたハイデッガーの論理展開につきましては、以下のサイトをご参照いただければと思っております(愚生には、ハイデッガーをご説明するだけのオツムは残念ながらございませんので、お許しくださいませ)。 http://takaosuda.hp.infoseek.co.jp/homepage/suz/index.html  とりとめもない内容に終始してしまいましたが、ご参考になれば、幸甚に存じます。

mintarou1
質問者

お礼

. 回答ありがとうございます。 「愚生」などと、おっしゃらないで下さい。 内容から、僕よりはるかに頭がいいと、感じています。 提示していただいた、サイト、情報は、本当に参考になります。 勉強させていただきます。 ありがとうございます。 .

  • ga111
  • ベストアンサー率26% (247/916)
回答No.30

私は定義Dを採用したいと明確に表明しているわけです。定義Dはあなたが再三引用しており、私も特に反対する変な意味が含まれていません。都合がよいではないですか? また、mintarou1さんの調べてくださった>自己の意識とその意識がとらえた像のみが確かなものであって、他者はこころに現れた現象として認識するしかない」と考えるのが独我論(定義F)でも私は構いませんが混乱するのでやめましょう。 定義Dが命題Cと矛盾するという私の考えには合意できるのでしょうか?イエスなら、ほぼ議論終了だと思います。

mintarou1
質問者

お礼

. 定義Fがいいですね。 >自己の意識とその意識がとらえた像のみが確かなものであって、 他者はこころに現れた現象として認識するしかない」と考える  定義 Dは、 >自分にとって存在していると確信できるのは自分の精神だけであり、 それ以外のあらゆるものの存在やそれに関する知識・認識は信用できない、とする。 ということで、「それ以外」とか「それに関する」とか、曖昧な言葉が多く、定義として採用するには、不適当だと思います。 出来るだけ、意味がはっきりした文が定義としては好ましいと思います。 .   

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