• ベストアンサー

存在としての自分は何者ですか?

自分が、存在した事を将来に続く子孫か誰かに継続して認識してもらいたいという欲求は、傲慢でしょうか?それは、不変的な偉業、あるいは、特別に印象を与えるような認識もしくは、宗教的手段でしか確認できないのでしょうか?逆に、現在の先祖を敬う行為は、自分の存在と過去の人たちの存在を認識させる 行動なのでしょうか?現在の自分と過去の方々と将来 (まだ存在すらない人)との関係において、今 自分は、どのように生きるべきか教えてください。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • maddog
  • ベストアンサー率52% (18/34)
回答No.7

なかなか興味深い質問をされているので、逆の心境を抱ている者からの一言を。 私の場合は、私という人間が生きた証を後世に一切残したくないと考えています。 それは、私という人間が数々の取り返しのつかない過ちを犯してしまったからであり、またそれらを消す事ができない為です。 恐らく、質問者様はまだお若いか、何かの理由で余命あと僅か、或はあまり人に認知されない状況下なのではないかと勝手に妄想しております。 それ故に、自らの存在の儚さを感じて不安に駆られているのではないでしょうか。 それは決して傲慢な事では御座いません。 誰しも、何らかの形で己という存在に対する孤独や不安に駆られるものです。 しかし、仮に貴方が死んで人々から忘れ去られたとしても、それは無意味ではありません。 それを特定の個人として認知されないという寂しさがあるのかも知れませんが、確実に貴方が生きていたという事は、子孫がDNAという形で受け継いでおり、先祖という形で認識していき、貴方の行動や理念は精神という形で伝わっていきます。 また、仮に子孫という形で残さなくとも、貴方のした事は大なり小なり、世界に影響を確実に与えています。 現に、私もこうして貴方に出会えた事で、少なからず貴方を認識し、貴方は私に影響を与えている事になります。 それは他の人も然り、決して無駄ではありません。 また、仮に世界が消滅したとしても、貴方が生きていたという事実は不滅です。 結局、自分の存在に対する認識は最終的には自己満足という形になってしまいますので、質問者様の仰いますよう如何に自分を納得させるかだと私個人は思います。 それはこれから質問者様が自分で、納得のいく方法を見つけて生きていけばよい事だとと思いますので、私に言えるのはそこまでで御座います。 稚拙な文章で長々と失礼致しました;

ikimai
質問者

お礼

誠意のある 回答ありがとうございます。 参考になりました。

その他の回答 (6)

noname#117439
noname#117439
回答No.6

自らが存在することの正しさを証明しようとすることは、仮に煩悩を背負った身であっても人間として必要な情動です。 ただし子々孫々等の考えはやや妄想めいているかもしれません。 今現在を大切に生きて明日につなげていくような建設的な考えをご自分でみつけてはいかがでしょうか。

  • code1134
  • ベストアンサー率20% (703/3370)
回答No.5

 (私の記憶ミスがない限り)"書く事は祈りの形式である"旨の主張をカフカはした筈です。  (その顰に倣うなら、質問者さんが結婚し)子を儲け、子孫に(質問者さん自身の)存在を残す、事が人間の欲求の一形態なのは言う迄もないですし、傲慢と捉えなくて構わぬ、気がします。  しかし、「子を儲け子孫等に"(質問者さん御自身の)存在を残す事"が上手く行くか?」は保証されている訳ではなく、不幸にも(大平元首相や元横綱千代の富士の様に)儲けた子(の1人)が先立つ場合も残念ながら有り得る点は認識して置いても無駄とは言えぬでしょう。  ですから(子を儲ける事の他に)書(or描)く事etcも(質問者さんの)存在を残し、伝える面で、有用な方法となり得る、と言えると私は考えるのですが、如何でしょうか?

ikimai
質問者

お礼

回答 ありがとうございます。 伝える才能も功績も残念ながら無いようです。 何年か先に自分の事を知る人も私が知っている他の人も居なくなってしまうこと、語ることも学ぶことも関わることも何もなくなることが 必ず来ることを 今、 存在している自分に対して 余命の間にどのように理解させて、生きた甲斐というか 納得というのか 他の方々は、自分の存在がなくなることをどのように考えておられるのかお聞きしたかったのです。不見識で申し訳ありません。ありがとうございました。

  • russy1
  • ベストアンサー率11% (20/178)
回答No.4

私は質問をしているあなたという存在とあなたが存在しているということを区別する必要があると思います。他の人が分かるのは後者だけです。前者はあなたにしか分かりません。またあなたにとっても前者のあなたは存在することはわかってもそれがどういうものかは分からないと思います。つまり前者の意味のあなたは認識の主体であって認識の対象になり得ないからです。前者のあなたの存在を他の人から認知して欲しいと願うのは、後者と混同しない限り無理だと思います。

ikimai
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 russy1の回答、明瞭なことなのか 奥深いものか よく考えてみます。認識の主体として、自分が思考していることを他者に理解してもらうのは、頭の中を探って自分や全ての人に表すことなのでしょうか?無理ですね。

noname#16191
noname#16191
回答No.3

No.2です…文字数の状態を見ようとボタンを押すと うっかり投稿されてしまいましたTT しかもお詫びを入れるのも出来ませんでした(泣) 見当違いな文章でしたら申し訳ありません!

noname#16191
noname#16191
回答No.2

こんばんは^^ 自分の存在を後世まで伝えたいというのは 誰しも思っていることだと思います(傲慢ではないでしょう) 誰しも自らの存在に、特別な「意味」と「価値」を求めています それが、偉人と呼ばれた人の業績であり発明であったりあるのです。 ですが、たいていの人は、時代の流れに飲まれて 存在は埋もれて消えてゆく…いいかえると「それが当たり前」 悲しいことでも、悲劇でもないと思います そのそも、そういった感情を当てはめること自体が 間違ってるのかもしれません だって、貴方が「存在してした」という「事実」は 未来へ「子孫」という形や、周囲の友人の思い出として 関わり、残ってゆくのですから。 こうは考えられないでしょうか? 自分は今、大きな世の中という機械の中で 様々な古さの歯車の1つで、色々な人とかかわって (歯車と噛み合って)いるのだと。 隣の歯車は貴方の歯車とはめ込まれた時期が異なり 古いので先に抜ける事になり、自分もまたいづれ抜かれることになる しかし、その歯車の「設計図」は過去から脈々と受け継がれ 昔にどんな「歯車・人物」だったかはわからないけど 貴方がそこにいるのは、過去に貴方に受け継ぐべき「歯車の形」を 持っている人がいたという「事実」 続いているという「事実」と「未来へつなげる」という「事実」があるのです。 ですので、大事なのは、貴方のかかわっている(いた) 人達「現在」を「大切」にしてあげてください^^ それはいずれ自分がいることに意義を持て 今の貴方に近い、貴方に関わる人達の「未来」に価値が忌まれると思います。 人との「関わり」が、万人に与えられる「もっとも素晴らしい存在価値」というのではないでしょうか?

ikimai
質問者

お礼

回答 ありがとうございます。 このように、私の愚問に ご返事を頂けて、お礼をできることが 人と関わっているなぁと、自分や他の方との関係において、存在していると認識でき、感謝致します。

  • les-min
  • ベストアンサー率41% (269/644)
回答No.1

こんばんは。。  仏事関連の業者で働いています。  ご質問の趣意に沿わないかもしれませんが・・・  自分が、職業上も含めて見聞きした上での心証では、「実際に見知っている」世代(通常3代、長くて4代)を過ぎると急速に認知度(?)は薄れるように思います。  ある意味、当然と言えば当然なのですが、やはりどういう形であれ「実際に接している」ことによって残る印象というのは非常に大きいように感じます。それ以上遡っても、ご先祖さまという以上にはあまりピンとこない、というのが一般のたいていの方の感覚なのではないかと思います。  日本の祖先崇拝は、先亡の霊が荒んで怨霊とならずに、安らかに和やかに他界に移り、子孫を守護する御魂となるよう祈るものだと思うのですが、その中には、ご質問文にあるような「過去の人たちの存在を認識させる」という意味合いも含まれるように感じています。(仏教が伝来して「縁」という考え方が受容され、日本的に変容していったことも影響していると思います。)  以下は正直いってパクリで、ものすごくありきたりですが。  現在は過去の結果であり、未来はその延長線上にしか有り得ません。  過ぎ去ると書いて「過去」、未だ来たらずと書いて「未来」です。現に在る「現在」を生きること、自分たちにできることは、ただその一点のみだと思います。  自身の現在の一挙手一投足すべてが、自身の未来を作り上げていくと感じ、そういう「現在」を生きること、生きることそれ自体に対しての緊張感と責任感を抱き続けること、今それぞれが必要だと感じていることを今おこなうこと、それが、結果的には未来に向き合い、未来を見据えながら生きるということになるのだと思います。  「子孫に継続して認識してもらいたいという欲求」は、単なる「欲求」であるなら傲慢だと言えると感じましたが・・・子孫が認識しようとしまいと、子孫はご質問者さんのおこないの結果として生まれ出でて、子孫の現在を生きることになります。(ご質問者さんが過去の人々のおこないの結実として、いま在るように。)  エラそーなことを記している割りに、アドバイスらしいアドバイスになっていませんが・・・「つながり(縁)を意識しながら、現在をよりよいと考える生き方で生きること」自分に言えるのは、(思いつくのは)こういうところでしょうか。では。

ikimai
質問者

お礼

回答 ありがとうございます。 les-minさんのおっしゃる通りだと思います。 おっしゃられるように、子孫が続くと仮定して 4代先には、今の自分を知る人もなく、日常で認識もされないと思います。また、物質としての自分は、なにかの有機物に変わっていて人間としては、まず存在しないはずです。感覚的に理解できるのですが、将来的に 自分という存在が無くなって、0になってしまう事を 今、存在している自分に納得させる、言葉なのか 何か わからないのですが、そういうもののヒントを知りたかったのです。 乱文 申し訳ありません。ありがとうございました。