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因縁や前世のカルマについて

お世話になります。 宗教は哲学のカテゴリーのようなので、こちらで質問させていただきます。 よく、宗教団体の方が「因縁」と言う言葉を使いますが、そもそも因縁って何でしょうか? 先祖の因縁のせいで不運なのだと言われます。 でも、先祖が『徳を積む』と言う行為をしてきた人達ばかりだけど、今、生きているその人達の子孫は救いようのない酷い人間と言うこともありますよね。 逆に先祖が悪行三昧だったとしても、今、生きているその人達の子孫が、優しいいい人と言う事もあります。 もし、前者と後者が対立する事があって、明らかに前者が悪いのに、後者が犠牲になったとしたら、それはやっぱり『因縁』の一言で片付けられてしまうのですか? 自分自身よりも先祖の行いの方が大きく影響するとしたら、悪い行いをした先祖がいたら真面目に生きるだけバカ臭くなりませんか? 本来の仏教には、因縁と言う物はないと聞いた事もあるのですが、因縁って何なのでしょう? 先祖の因縁、前世のカルマなど、今の自分とは関係ないのに、不運の要因とされる事柄について、詳しく教えていただきたいのですが。 宜しくお願いします。

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回答No.13

連続性のあるカルマ(宿業)の概念は釈迦が否定しています。 この考えはヒンドゥー教を基本にした、チベット密教のよくあるカルトが利用する概念で、オ○ムとか、江○さんやら、カースト制度として支配者が統治するのに利用している手法です。 連続性を断ち切るための修行ですか? 考えて分からないからカルトの罠に陥るのです。 修行ガンバって下さい!(マテ

kumonoito
質問者

お礼

ありがとうございます。 やはり連続性のあるカルマというのは、新興宗教などの手法なのですね・・。 連続性があってもなくても、どっちにしても救いはない状態なんですが、自業自得と諦められそうです。 ありがとうございました。

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noname#82286
noname#82286
回答No.14

前世はあなたでありそれはあなたのしでかしたことです。ならばあたりまえでしょう。

kumonoito
質問者

お礼

ありがとうございます。

noname#155689
noname#155689
回答No.12

何度もすいません、ANo.5です。 > このスペースでは無理です、ゴメンナサイ。 と逃げるのもどうかと思ったので 自分なりに見解を述べます。 これで最後にしますんでもう暫くお付き合い下さい。 宗教には大きく分けて2つの機能があります。 ひとつめが「規律」「規範」としての機能。 ユダヤ教やイスラム教が代表例です。 神との契約ですから「神の法律」と考えれば分かりやすいでしょうか。 もうひとつが「救済」としての機能。 仏教が代表例です。 苦しむ魂の救済を目指します。 ちなみにキリスト教は「規範」「救済」の両面を持っています。 宗教は悪用されると別の機能を発揮します。 別の機能とは「呪い」「祟り」です。 「信じないと地獄に落ちるわよ!」ってヤツです。 「先祖の因縁」も場合によっては「呪い」の範疇です。 祖先信仰などを逆手にとって呪縛をかけ、相手をあやつる行為ですね。 そうやって壷でも買わされたりすればペテンだと気づきますが 単に相手の心を惑わすだけの「呪い」もあるので気をつけて下さい。 (このとき呪いをかけた本人はそれが呪いだと気づいていないことがあるので厄介です。) さて、仏教における「不運の要因」について説明します。 ANo.10さんの回答をベースにして私なりに解説を試みます。 解釈の間違いもあるかも知れませんのでご容赦ください。 文責は全て私にあります。 仏教の開祖はガウタマ・シッダールタという古代インドの王族の人間です。 教徒からは釈迦とか仏陀などと呼ばれます。 彼が悟ったのが「十二縁起の法」と呼ばれます。 縁起とは「因縁生起」の略と考えられています。 因縁は「原因」を意味します。 シッダールタは、全ての存在は因縁によって起こっていると考えました。 つまりそれだけで存在できるものは何もないという発想です。 そして、彼は心の苦しみが形成される過程を12段階に分析して 原因を探ろう=因縁を解こうと考えました。 因縁が解ければ「存在(色)」は「何もない(空)」状態に戻るという発想(色即是空)です。 苦しいと思っていたことも因縁が解ければ何でもないことになる、ということです。 いよいよ十二縁起の法(法則)の説明です。 (途中までしかしないつもりですが・・・) 1)無明に縁って行が起きる。 無明とは縁起を知らないことと言っていいでしょう。 2)行に縁って識が起きる。 行は業(カルマ)だと、ここでは考えましょう。 3)識に縁って名識が起きる。 識は認識だと考えましょう。 つまり、縁起を知らないことで業という先入観による誤った認識に縛られるということです。 ちなみにこの解釈は苫米地英人をパクリました。 真意は通じていると思いますが、かなり強引で乱暴な解釈です。 > 一方的に裏切られたり、裏切られた上に濡れ衣を着せられたり、 > 利用されたり・・・自分が、どうしてここまでされなければならないのか > まったく理解できない事をされることが多くて 全く理解できない事に見えても それぞれに原因があり複雑に絡まり合っています。 それぞれの原因はあなたに関係あることもあるでしょうし あなたとは一見関係ないこともあるでしょう。 それらが複雑に絡まりあって分かりにくく見えています。 しかしそれらの原因を解いていかないと(無明に縁って) 先祖の因縁や前世のカルマといった誤った認識に(行に縁って)縛れていきます。 その先、8段階の縁起によって、あなたを苦しめていきます。 これが仏教的な認識です。 原因を解いていくために、仏教は「瞑想」という手法を採ります。 自分を徹底的に問うていくと考えればいいでしょう。 > 一方的に裏切られたり、裏切られた上に濡れ衣を着せられたり、 > 利用されたり・・・自分が、どうしてここまでされなければならないのか 分解していきましょう。 > 自分が、どうしてここまでされなければならないのか ここまでされると何故苦しいのか? どこまでなら苦しくないのか? ここまで、とか、どこまで、とか、そういうことが問題か? そういうことが問題でなければ、苦しみの原因は他にある筈だ。どこだ? なぜ、自分が、なのか? なぜ、自分が選ばれたのか? 他人でもよかったのか? 他人では成立しないなら、やはり自分が必然ということなる。なぜか? > 一方的に裏切られたり 一方的だと思っている主体は自分だ。 相手はどう思っているか? 回りはどう思っているか? なぜ一方的な関係になった? なぜ一方的な関係が続く? etc,etc, 問いはどんどん詰めることが出来る筈です。 問いを詰めきれば、おそらく ●あなたの気持ちを切り替えることで解決する部分がある筈です。 ●あなたの行動パターンや態度を切り替えることで解決の可能性がでる部分がある筈です。 ●偶然、たまたま、など、どうしようもない部分もある筈です。 ●残りは宗教に頼らず、実社会的に解決しないと駄目でしょう。  でも、ここまでくれば、問題はかなり明確に絞れている筈です。 仏教的な発想が必ずしも最善の解決法だとは思いません。 いろいろな宗教がありますし、宗教以外の発想法もあるでしょう。 ご自身で一番納得できる考え方を選んで下さい。 ただ、ANo.10さんが仰る通り「前世」だとか「先祖」に責任転換する宗教もどきが 最近増えています。 これは単に現実逃避、思考停止でしかないと私は考えます。 思考停止すれば、その瞬間だけ苦しみを忘れますが 苦しみを忘れられるのは、思考停止している瞬間だけです。 生きていると思い通りにならないことや理不尽なことが多々あります。 仏教は生きることを「苦」だと考え、神秘や奇跡に頼らず「自己」と向きあうことでしか 苦しみを乗り越えることは出来ないと考えます。 結構タフな宗教ですが、私は共感します。

kumonoito
質問者

お礼

再度ありがとうございました。

回答No.11

善因楽果、悪因苦果で、カルマが過つことはありません。 今生で報いを受けないことがあっても、必ず来世で受けます。 仏教の難しい話は分からなくてもいいです。 要は、思いやりの心をもつことです。 これは、如来の教えの真髄です。 思いやり、慈悲の心、菩提心で行った行為が、不幸の原因となることは決してありません。 やさしく、正直で、相手の罪を許し、誰も軽んじることなく、友好的で、忍耐強い人、 そのような人が不幸になるはずがありません。 今生でも来世でも幸せになります。 今生で、心が幸福で平安となり、他人からも友好的に接してもらえます。 短期的には悪い結果になることもあるかもしれませんが、 短絡的に苦を避け幸せを求めようとするだけでは、かえって苦しむことになってしまいます。 思いやりの心で行動すれば間違いありません。

kumonoito
質問者

お礼

ありがとうございました。

回答No.10

>>よく、宗教団体の方が「因縁」と言う言葉を使いますが、そもそも因縁って何でしょうか?  まず「因縁」を中国語として見て行きますと、かかわりあい、よすが、つて、などを意味しているようです。 >>本来の仏教には、因縁と言う物はないと聞いた事もあるのですが、因縁って何なのでしょう?  お釈迦様はちゃんと因縁を説いておられます。それを「十二因縁(または、十二縁起)」と呼ばれるものです。  そもそも、仏教で言う因縁は「因」と「縁」は、ほぼ同義語として捕らえられ「因即縁」という考え方も存在します。ここで言う因即縁は広義で言えば原因ということです。この、「因」と「縁」は原始経典を見れば「原因」を指す言葉でしたが、のちに「因」は直接原因「縁」は間接原因とされたり、あるいは「因」の原因によって生じた条件を「縁」と呼んだりする様になったようです。この因と縁によって全てのものは生じているという、「縁起」の考えが仏教の中核をなしているのです。  その中の「十二因縁」というのは、私たちの迷いの原因を明らかにし、「苦しみ」を引き起こす肉体的・精神的なメカニズムを十二の条件をもって分析し、苦の発生原因を断ち切ろうという仏教の基本的な考え方です。ここでもやはり、「因縁」は原因という意味で使われています。具体的に「十二因縁」とは、 1、無明・縁起の理を知らず、自分勝手な見解で物事を判断てしまう衝動 2、行・無意識的に対象に働く勝手な意思 3、識・対象を判断し表象する作用 4、名色・名称と形態を判断する作用 5、六処・対象を判断し認識する領域、眼耳鼻舌身意の感覚知覚機能 6、触・六処が対象と接触する 7、受・触によってもたらされた感受作用 8、愛・感受した対象への強い欲求、渇愛 9、取・対象へのとりわけ強い執着 10、有・生存状態 11、生・生まれたこと 12、老死・老いて死ななければならないこと という十二の段階を取るそうです。この十二の項目は因果関係でむすばれていて、苦しみの代表的な「老死」から、その原因を探り「無明」へと行き着くのです。これは科学的にどうこうということではありませんが、自分自身の苦しみの原因は何かという、一つの答えであると思います。結局苦しみの原因は自分の中にあると考えるのが仏教のようです。 >>先祖の因縁のせいで不運なのだと言われます。  もしそう言われたのだったら、それは先祖に問題があるのではなく、先祖と因縁を結ばざるを得ない自分自身に問題があるという意味ではないでしょうか?? >>、前者と後者が対立する事があって、明らかに前者が悪いのに、後者が犠牲になったとしたら、それはやっぱり『因縁』の一言で片付けられてしまうのですか?  それを他人のせいにしようという了見が私は気に入りません。「一切唯心造」という言葉がありますが、そうやっていつまでも「先祖のせいで私は悪い目にあっている」と思っていたら、自分自身がいつまでも先祖と因縁を結び続けることを心の中で望み続けていることになります。それならばよっぽど「先祖などは関係ない、このような失敗は私のうちにある」と考えているほうが、先祖の因縁を断とうとしているすがたではないですか?? >>先祖の因縁、前世のカルマなど、今の自分とは関係ないのに、不運の要因とされる事柄 因縁は原因、カルマは業「自業自得」、先祖の因縁、前世のカルマなど、今の自分とは関係ないのに自分の不幸の原因である。とすれば、それがいくらでも不幸の原因になっていくでしょう。しかし、それは自分自身が先祖の因縁や前世のカルマを不幸の原因にしているのであって、そうやって不幸の原因を自分以外のものにしておきたい自分には不幸の原因を求めないことが真の原因ではないでしょうか。  ただ、先祖の因縁、前世のカルマを断つなどとは言いましたが、私自身そんなにかっこいいことができるような人間ではありません。いつでも、不幸は自分以外のもののせいにしてしまいがちです。けれどもこれも「一切唯心造」かも知れませんが、「そんなどうしようもない自分なんだから、先祖の因縁や前世のカルマの不幸が襲い掛かることくらいあるだろう。」と思っておけば、ではそこからどう対応するかを考えればいいんじゃないでしょうかね。そうやって、先祖の因縁、前世のカルマなどを断ち切ることができないことを、一つの自分のかっこ悪さと受け取ってしまえば、そこからどう考えるかという前向きな考えが浮かんでくると思います。 長々と書き連ねましたが、支離滅裂な稚文のため文意を読み取っていただきたく思います。生意気なことも書きましたが、あしからず。  合掌 南無阿弥陀佛

kumonoito
質問者

お礼

ありがとうございました。

回答No.9

「因縁」と書いて、「インネン」と普通呼びますよね。 私も前世を見てもらった友人から聞いて興味をもったのですが、 因縁と書いて「インエン」と言ってました。 よく言われるのは先祖の因縁(インネン)ですが、それは先祖に 失礼ですよね。 友達曰く、前世の因縁(インエン)が本当みたいです。 確かに、因縁果。前世が原因してご縁する、そして前世の通りに 良し悪しの結果がでるのだそうです。(怖い!) 他のアンサーにも書いたんですけど、友達の家の前世の透視から、 今の家庭内暴力の問題を見破ったサイトが前世の記憶ってホーム ページです。ここは前世のお祓いをしているようです。 友達の家の家庭内暴力が劇的に変わって私も興味持ったんです。 これぞ、前世の因縁(インエン)。 答えになってないかも!

参考URL:
http://www.mu39.com/atopi/chonaisenjo/zensei/
kumonoito
質問者

お礼

ありがとうございました。

noname#39190
noname#39190
回答No.8

積善の家に余慶あり、積不善の家に余殃あり というから先祖の積善や不積善は死してなを 世間の中に記憶として生きているのではないでしょうか。 またそうした世にすることが人を善に向かわせるのだともいえます。 積不善の家に生まれたとしても その業を断ち切り善に向かうこともできる。 積善の家に生まれたとしても背き、不善を行うこともありえる。 しかし不善の中から回心し善行に向かうこともありえる。 先祖の余殃や自身の不善行から解脱するのは 今在る自身の在り方に委ねられている。 だから親鸞聖人もその点を強調し 善人なおもて往生す。いわんや悪人をや。 という。 不幸にして取り返しのつかないような不善でない限り 余殃の家に生まれたものや、たとえ積善の家に生まれても不積善を行ってきたものでも回心し善に向かうことがあることに光を当てた。 ただ親鸞聖人の頃に言う悪人というのは現代における法律から逸脱した罪人という意味ではないらしい。

kumonoito
質問者

お礼

ありがとうございました。

noname#116144
noname#116144
回答No.7

先祖の因縁。前世の因縁。否定も肯定もしません。 本当にあったとしても 自分の行ないが良ければ勝てる気がします。勝ってみせると信じよう! なんでも因縁のせいにすると頑張る気力が減退します。 運命は自分で切り開こう。 因縁という言葉で宗教団体に金を取られてはダメです。

kumonoito
質問者

お礼

ありがとうございます。 あはは・・・そうですね、宗教団体に因縁に貢がないように気をつけます。 でも、どうしても、正しい心を持つ人より、悪しき心を持つ人の方が買っている気がするんです。 それで考え始めてしまいました。 励ましてくださってありがとうございます。

noname#155689
noname#155689
回答No.6

>> 本来の仏教には、因縁と言う物はないと聞いた > というのはこういうことです。 すいません、ちょっとおかしいので補足します。 本来の仏教には「前世の因縁」というモノはない、と考えてください。 > 不運の要因とされる事柄 とっても大雑把に言うと 前世が悪いのではなく(ましてや先祖が悪いのでもなく) 上手くいかずに苦しんでいるのは何かに執着している証拠だから 物事を正しく見直して執着の原因を取り除きなさい、というのが基本的発想です。 ある意味、現実をきちんと見つめなさい、という厳しい戒めであったりします。

kumonoito
質問者

お礼

ありがとうございます。 訂正もしてくださってありがとうございます。 いろいろな宗教の話を聞かされているので、頭の中が混乱しています。 ありがとうございました。

noname#155689
noname#155689
回答No.5

> ただ、宗教団体で言われるような因縁というものは > 仏教の中の因縁とは違うと言う意味です。 う~ん?それはどこの宗教団体なんでしょう? > 先祖の因縁のせいで不運なのだと言われます。 元々は「先祖の因縁」ではなく「前世の因縁」です。 元々というのは古代インドの「輪廻」の考え方を指しています。 古代インドでは「魂は生まれ変わる」と考えていました。 そして、現世で良い行いをすれば、来世ではより高い身分に生まれ変わり 逆に悪い行いをすれば、来世ではより低い身分に生まれ変わるとしていました。 この考え方には何の根拠もありません。 古代インド人はそう考えた、というだけです。 ただしインドには古代からカースト制度という厳しい身分制度があります。 この身分制度の維持に、輪廻思想は大きく貢献しました。 同じ人間でありながら、なぜ自分は身分が低いのか?という疑問に対して それは前世の行いが悪かったからだ、と無理矢理納得させることが出来たからです。 そんなインドにおいて、紀元前5世紀に > 前世のカルマなど、今の自分とは関係ないのに と考える宗教が生まれました。 これが仏教です。 > 本来の仏教には、因縁と言う物はないと聞いた というのはこういうことです。 ところが、本来「前世のカルマ」など関係なかった筈の仏教が 時を経て中国から日本へと渡る内に徐々に変質してしまいました。 大きな変質のひとつが、本来仏教が否定した筈の輪廻思想が いつのまにか混ざってしまったこと。 もうひとつが、日本古来の「祖霊崇拝(先祖崇拝)」と混ざってしまったこと。 > ただ、宗教団体で言われるような因縁というものは、仏教の中の因縁とは違うと言う意味です。 それは、多分いろんな因縁の考え方が混ざっちゃったモノだからだと思います。 別に変質しちゃったから、混ざっちゃったから、間違っている!と言う気はありません。 でも、何か変だな?と思うなら、信じなくちゃいけない根拠もありません。 > そもそも因縁って何でしょうか? 本来、仏教のおいては不運なり幸運なり様々な事物を生じさせる 内的な原因を「因」と呼び、外的な原因を「縁」と呼びました。 つまり大雑把に言えば「自分」と「他」の関係が理解できれば 不運なり幸運なり様々な事物がなぜ起こったのか?が理解できるという 現代人から見れば、前世を信じる古代インド人に較べ 非常に論理的な主張を行ったということです。 > 不運の要因とされる事柄について、詳しく教えていただきたいのですが。 これは「仏教本来の教義を教えてくれ」ということなので このスペースでは無理です、ゴメンナサイ。 (そもそも私が仏教本来の教義を説明することが無理です。) (未だ仏法を会得していない者が理法を説いてはならないという戒めもありますし。) OKWaveの過去ログを丹念にご覧頂ければ 仏教解釈に関する侃々諤々の議論が交わされています。 結構、難しいです。

kumonoito
質問者

お礼

ありがとうございます。 そうですね、いろいろなモノが混ざってしまっていますよね。 一方的に裏切られたり、裏切られた上に濡れ衣を着せられたり、利用されたり・・・自分が、どうしてここまでされなければならないのか、まったく理解できない事をされることが多くて、宗教をやっている知人から、先祖の因縁だとか言われたんです。 納得がいかなくてお聞きしてみたかったんです。 OKWave、拝見してみます。 ありがとうございました。

回答No.4

「因縁」は原因(因)と条件(縁)のことで、正当な仏教概念です。 あらゆる事物は因縁によって生起します。 先祖の行いの結果を自分が受けることはありません。 自分の前世でのカルマが今生にあらわれることはあります。 自業自得です。

kumonoito
質問者

お礼

ありがとうございます。 その、前世のカルマ・・・というのがわかりません。 前世は前世であって、今の自分ではないのに・・・。 因縁ですが、書き方がおかしかったようで申し訳ありません。 因縁自体は仏教にあるのですね。 ただ、宗教団体で言われるような因縁というものは、仏教の中の因縁とは違うと言う意味です。 申し訳ありません。 ありがとうございました。