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子孫が絶える人間の存在意義について
自分は妻との二人暮らしで、経済的事情で子供は居ません。 要するに、「我が家」は、家系的にも遺伝子的にも、何ら生物学的な機能を果たさないまま終焉することがわかっております。 これまで、歴史上でも、食をはむこともできぬ経済的弱者の集団は、絶滅の憂き目にあい、そのたびに、有力者の子孫のみが繁栄し、その何割かが没落して、結果、身分制度が(表沙汰にはならなくとも)維持されているものと愚考します。 となると、滅び行く家系の構成員は、いつの時代も存在したことになり、現在の我々が特別な存在ではないことはわかります。 ですが、このような「滅び行く人間」としては、どのような心構えで「人生」というものをとらえればよいのでしょう? 「DNAの指令を果たした」とか「とりあえず後は子供に任せた!」という投げやりな引退劇は、我々には望むべくもありません。 ただ、生まれ、ただ、死ぬだけで、後には何も残りません。 「社会的な功績を残せば良いではないか!」と言われるかも知れませんが、そんな人間は一握りでしょう。 また「その日その日を幸せに過ごすことが出来れば、それでいいじゃないか?」とも言われそうですが(というか、現によく言われます)、それは論点をずらしただけであって、本質的な疑問の解決にはなっていません。 「人類は、どこから来て、どこへ行くのか?」という問いならばまだ救いがあるのですが、「自分は、先祖から生まれてきて、ただ死ぬだけなんだが・・・なんか意味あったの?」と考えると、やはりただの乱数の一つであったとしか思えません。 他の皆さんはどう思われますか? 何を目標に、何を考えて、生きてゆくのでしょうか?<我々 意味など無いことがわかった上でも、なお修羅の道を最後まで歩く価値があるのでしょうか? <なお、宗教関係者のご回答は丁重にお断りさせていただきます。>
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質問者が選んだベストアンサー
No.10です。 私たちは、生きること、生きたことの「証し(あかし)」が欲しい。 しかし、それが「他からの評価」や「子ども」(現物)というのは、具体的で解りやすくインパクトもありますのでそこに帰着しがちですが、直接的じゃないんですね。 他に下駄を預けているわけです。 (時には、それが人類という種だったり、時には国家だったり、会社だったり・・・・。) 私は子どもが4人います。この子らが、私の願いを一つ二つ引き継いでくれるかもしれないし、私を貶め私を利用することだけを考えるようになるかもしれません。 別の人格であることはわきまえたいですね。 また、自他の子ども分け隔てなく、社会の宝として子どもを愛することには反対はしませんが、ならば子どもから成長した大人も同じように愛しても良いのではないでしょうか。 やはり、将来への余地、可能性、白紙性という部分に期待をし、下駄を預けているのでは・・・・。 私の場合、私自身が世界とどう関わりつながるかというのが大きなテーマです。 他人から評価を受けたり自分の痕跡を残したりということに関係なく、「無条件に」感動したこと、私が「この世に生まれてきて良かった」と思ったこと。 例えば (1)美しい夕日を見たとき。 ・・・・世界にはこんなに美しいものがあったのか。 芸術家が感動を受け、更にそれを表現するというのはすごいことだと思います。 それに対する評価は後のこと。場合によっては社会的に評価されないこともあります。 例え周りが賞賛しても、自分が納得できないときには気持ちが悪いし時には創ったものを壊してしまう、それに似た体験はありませんか。 (2)美しい定理に触れたとき。 ・・・・世界の真理とつながった。ペンを持ったまま走り回りたい感じ。 数学や、理論物理学を学んだ人は割りと体験していると思います。自然科学は有用性(役に立つ)という側面と、真実性(世界の法則)を求める側面があります。 時間的にも能力的にも有限な私が、顔をのぞかせる世界の法則を理解する喜び。 (3)人の誠に触れたとき。 ・・・・誠を示した本人は今は私に文句ばかり言っていますが、その事実は確かにあった。 私の記憶も当てにできないし、忘れてしまうかもしれないがその事実は確かにあった。 他人の評価には関係ありません。 そのときの気分や、行き当たりバッタリの感情優先という意味ではなく、 真実はさまざまな場面で顔をのぞかせる、それに触れてつながる喜びを求めている。 世界と一体化したい。(けっこう本気で言ってます。) という感じです。 「真実は真実ならざるものを真実化させようとするはたらきを持つ」 というのは本当じゃないかなと思っています。 (他に誰かが言った言葉でしょうが、そうでないなら私の言葉) 例えると 山道を降りてくる人がその道の先が崖になっていて危険なことを知らない。 別の人が高い場所からその状況がよく見えて、降りてくる人が非常に危険な状態にあることを知っていたならば、そのまま降りると危険であることを知らせようとする。
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子孫を残せないとなると 存在意義さえ儚く感じるかもしれませんね。 血縁関係者同士で共有する遺伝子の確立でいうと 親と子供の血縁関係は1/2で、兄弟も1/2、 祖父母や従兄弟は1/4づつは受け継いで生きますよ。 そう考えると甥や姪子さんも1/4の「私」がいます。 甥や姪子さんが4人以上いるなら 計算上では自分の子孫を残せていることになります。 (そうはいっても実体はないのですが) 肉体は自然からの借り物で いつか自然に還さなければならないですが 人間が残せるのは物質以上のものもあって 例えば「功徳」 誰かを幸せにしてあげたり、賢くしてあげたり出来たら 人生という時間枠以上に生き長らえるでしょうし 精神性こそ死でも奪えない「私」であると 思いますよ。 私は存在意義は快楽だと思っています。 誰かの幸せが自分も楽しめる自分でいたいと思う。 それを一番に優先するのが子供ですね。 子供のいない夫婦がペットを世話することで 親のように愛され、 そして親も癒されるケースもあります。 でもペットは別れの時も早いのが辛いです。 月々僅かな援助で海外の貧しい子供たちに 学校に行かせて交流が出来る「教育里親制度」 もいいと思いますよ。 貧困や望まない妊娠で生後すぐに 売られてしまう赤ちゃん(日本であっても)。 米国は海外養子縁組が盛んですね。 日本も昔は養子はよくあったようです。 福祉が充実して生活に困らないので 子供を作らない北欧の福祉大国。 仕事や生活を圧迫するので子供を作らない日本。 少子化にあって中絶反対論。 人権侵害の人身売買も廃止しよう。 複雑でよくわからなくなりますが、 生を受けた子供には何の罪もない。 可能性と未来が沢山あるように仲間と教育と糧と 微力ながらでも繋げてあげれるといいですよね。 余計なことまで書いてしまいました。すみません。 よその子供でも自分の子供と同じぐらいに、 心配したり、励ましてあげたり、慰めてあげたり 愛しめる子供さん見つけると生き甲斐になれますよ。 子供は親だけでなく社会の宝物ですよね。
お礼
お礼が遅れまして恐縮です。 ご回答内容の方向性が「生きる意味とは」若干異なるように存じますが、要は、よその子供でも大切にしましょうということですよね。 それは、そう思います。 ご回答ありがとうございました。
- 岩尾 俊志(@arakan)
- ベストアンサー率43% (31/71)
「チップス先生さようなら」で、チップス先生が死んでいく時に 「子供もいないのが、残念だったね」と誰かがなぐさめます。 それを聞いたチップス先生は 「子供がいない? 私に? 」と自問自答してから 「いるさ。何百人という子供が・・・・。」 とつぶやきます。 英語の「 ハンドレッズ オブ チルドレン 」というひびきが 耳に残っています。 人間が生きていく限り、周囲の人と関わり、何らかの影響を与えていきます。 その行為自体が永遠につながる=意味のある行為のはずです。 ※「はずです。」という言い方しか出来ないのは 私自身が人生の意味について断言できない部分が残っているからで、 まことに心苦しいのですが、どう考えても答は その(はずです)。 がんばってください。
お礼
お礼が遅れてしまい恐縮です。 ご自身におかれても人生の意味について自信がないにも拘わらず、はげましてくださり、ありがとうございます。 感謝致します。
- tokytime
- ベストアンサー率37% (43/114)
結局、 ・・人は如何に生きると幸福か、生きる意味は・・ という問題をとことん考えた方が仏陀であり、キリスト であったのだと思います。 昔から質問者様のような悩み、その他のごく一般的な悩みをどのように真摯に考え、乗り越えていくか・・を凡人では思いつかないような次元で哲学していたのが仏陀でありキリストです。 特に仏陀の教えは、宗教というより哲学であり、さら哲学というより科学ともいわれています。 私も宗教関係者ではありませんが、知れば知るほどその素晴らしさに舌を巻きます。 哲学的、科学的答えの参考として、仏陀の真の教えの流れを汲む根本仏教のURLをはりますので、参考にしてくださることを願います。 その中にきっとお悩みの答えが見つかることと思います。
お礼
お礼が遅れてすみません。 昔の人も生老病死に苦労したのだろうとは存じます。 宗教の教えはその解決策の一部でしょう。
- mogurayama
- ベストアンサー率33% (31/93)
こんにちは♪ 生きる意味についてちょっと長いですが お目を通していただければ幸いです。 以前に私が回答したものをアレンジして お届けします。 さて、みなさんの回答をみるといろいろな人が いろいろな生きる意味を提示されてます。 人それぞれバラバラですね。 nebura71さんもおっしゃっているように 「後世に遺伝子を残すため」 「幸せを感じるため」 「生きることに意味はない」 「死ぬために生きる」 「社会的うんぬん」 エトセトラ エトセトラ では nebura71さんのお好みに合う「生きる意味」は ありましたか? 人類が知性をかけたその先にこれが正しい 「生きる意味」なんてものがみつかるのでしょうか。 正解を導く方程式が宇宙の果てに存在しているのでしょうか。 神様がこっそり決めて、我々に与えてくれるのでしょうか。 私は「これが本当の生きる意味」なんてものは 存在しないと思います。 なぜなら「意味」というものは、人が作り出す 価値観を現しているからです。どこかに絶対的な 法則があるわけではありません。 ですから 「遺伝子を後世に残す」ということも 当然、人が作り出した価値観の一部であり 絶対的に正しいものではないのです。 極端な話、 「遺伝子を後世に残すこと」ただそれだけが 絶対的な人生の価値観なら 精子バンクに遺伝子を残せばこの上なく 満足な人生のはずです。 または一生懸命にニートを育てれば満足な人生です。 人生の価値観は人が作り出す 相対的なものでしかないのです。 つまり 「子孫を残すことに人生の意味がある」とする方に とっての生きる意味は「子孫を残すこと」なのです。 「幸せを感じることに人生の意味がある」とする方に とっての人生の意味は「幸せを感じること」なのです。 「生きることの意味が分からない」とする方の 生きることの意味は「分からない」なのです。 「生きることに意味がない」とする方の 生きることの意味は「存在しない」なのです。 言葉遊びのように感じられてしまうかもしれませんが 絶対的な法則がない以上、それぞれが見つけた 生きる意味が即ち それぞれの生きる意味なはずなのです。 正しさの問題ではないのです。 そう考えると生きる意味は難しいものではないと 思いませんか。 あなたが思えば即ちそれがあなたの生きる意味なのです。 つまり、他の回答者様から生きる意味を示されても あなたの心がそれを生きる意味としない限り それはあなたにとっての生きる意味にはならないのです。 たぶん今あなたにとっての「生きる意味」は 「分からない」なのだと思います。 それは分かっているわけですから あなたにとっての生きる意味は「分からない」で 良いと思います。 不安ならば探してみることを意味にしても良いですね。 別のものに生きる価値観を得られたらそれを 新たに生きる意味にすればよいだけです。 コロコロ変わったって何の問題もないです。 たくさんに増えたって、なくなったって良いでしょう。 生きる意味なんて絶対的なものでもなければ 誰かに決められるものでもありません。 何よりもあなたの生きる意味ですから♪
お礼
お礼が遅れに遅れて、恐縮しております。 結論としては「そりゃそうですね!」というところです。 悪い意味ではなく、「ごもっともなご指摘です」という意味です。 つまり、生きる目的や意義を見失っている自分としては、そもそも生きる意味など存在しないことと同義だと言われれば、実はそのとおりだなあと思うところしきりです。 そういう意味では、間抜けな相談をしたことだなぁ・・・と反省もしています。 わかりやすくご解説くださった手法に感謝申し上げます。
- lightgrid
- ベストアンサー率26% (11/42)
宗教関係者はお断りとのことですが、私は、宗教関係者ではありません。一般人です。宗教関係者でないならば、宗教的観点で回答してもよいのでしょうか? 私としては、霊的な観点で、お話したいところですが、おそらく、質問者様は、宗教的回答をお望みでないのでしょう。 >経済的弱者の集団は絶滅の憂き目にあい 質問者様は、子孫を残さないと人生は空しいとお考えでしょうか? 霊的世界を信じないのであれば、人間はロボットのようなものです。 「死」は、人間としての形が崩れて灰や土になるだけのことです。ロボットが空しいと感じていると訴えても、それはロボットのたわごとです。そのように感じるようにプログラムされているだけです。意味はありません。気にしないで下さい。 あなたの心が空しいと感じても、意味がありません。それもたわごとです。そう感じているのは物質的な仕掛けです(本当は霊です)。あなたは、生物的にまたは今までの教育によってそのように感じるようにプログラムされているだけです。 子孫を残そうと残すまいと、DNAを残そうと残すまいと、全ての生物は、全ての個体の人間は死ぬのです。あなたが子孫を残してたとしも、将来どこかで途切れる可能性のほうが大きいです。人類はいつか必ず滅亡します。あなた個人が子孫を残すかどうかは人類には全く影響がありません。 子供や子孫は、親や先祖とは別人格の人間です。子孫がいてもいなくても、人間は死んだら同じです。(死ぬまでに何をするかだけが問題です。)子は、親のクローンでもなく、先祖の生を連続させるものでもありません。 生物的に見た場合、子供を残さない個体がいてもよいのです。それは、人口調整のためでもあり、そのような個体は、他の個体の子孫の成育に貢献するよう維持されており、将来環境の変化が生じたときのために維持されているのです。生物的には、そのような価値があります。 世界に有史以来の環境の変化が起きて大部分の人間が死んで、あなたが生き残こることがあるかもしれません。そのとき、あなたは新しい環境では、環境に適応して子孫を残せるかもしれません(そうだったら嬉しいのですか?)。でも、子孫を残すかどうかということに何の意味があるでしょうか? (経済的に恵まれていて子孫がいるのにもかかわらす、不幸な人もいます。彼らの存在意義は?) 子孫を残せないのは、経済的弱者だけではありません。経済的強者でも子孫を残せない人がいます。逆に、歴史的には経済的弱者でも多くの子孫を残してきました。子孫を残すだけなら、子供を産んで養子に出すとか孤児院に預ければよいのです。子供は子供でたくましく生きていきます。 霊を信じないのであれば、何を目標に、何を考えて生きてゆこうと、人生は空しいです。生物的には、他の人の子孫の生育に協力すればよいでしょう。肉体は死んだら灰や土に帰すだけです。 ・・・このような回答で満足されたでしょうか?
お礼
お礼が遅れに遅れてごめんなさい。 皆様のご意見が深いものですから、こちらも対応に時間がかかっておりました。 生物学的な論点につきましては、非常に参考となるところがありました。 ただ、「霊」の話につきましては、なんとも。 これは哲学的な議論と言うよりも、宗教的議論になってしまい、思想信条としてのアイデンティティを書き換えなければ幸せには慣れないと言うような意味と近似ですから、さすがに満足は出来ません。 ご厚意でおっしゃってくださっているのに、申し訳ないかぎりです。
- eeldog_2005
- ベストアンサー率29% (16/54)
相談者様にはご不快かもしれませんが、自分の経験から書いてみます。 子供というのは特別な存在であることが、子を持ってはじめて分かりました。うちの場合は、なかなか来てくれなかったので半ば諦めていたのですが、私たちにとっては一種の僥倖ともいうような形で、生まれてくれたのでした。 そのとき感じたのは、生命の連続性です。大げさに言えば、祖父母―両親―自分たち―子供という生面の連関を実感したといえば言い過ぎかもしれませんが。 それ以来、自分の生きている意味が、初めて明確になったような気がします。 だから、相談者様のようにお考えになるのは、もっともなことだと思いますし、ある部分、考えても答えの出ない範疇ではないかと思います。それほど、子供の存在は大きいともいえます。 さて、ご質問から考えると、家系(≒家)という、ある意味、社会的生命につながるものと、子孫という肉体的生命に関する問題のように読めました。 そこで、肉体的生命の連続性を諦めた場合、自分ならば、手っ取り早く「養子」ということを考えるかもしれません(お金もかかるでしょうが)。これは見ず知らずの人からではなく、できれば、身内とか、知人から迎えたいものです。そうすれば、とりあえず「家系が絶える」という可能性はしばらく遠のきます。家系が絶えなければ、墓参りくらいしてくれるかもしれません(そんなことに意味はないという人もいるでしょうが)。 そうでない場合というのは、実は思いつきません。うちの場合も、養子についてある程度真剣に考えた時期がありますが、では、もし実際に実行出来たかと考えると、答えを出さぬまま、何事もせずに年をとっていくようになったかとも思います。 また、社会的生命としての連続性を見出すならば、それなりの社会的存在でないと難しいように思います。普通の人が、没後も語られるのは、やはりある種の功績がないと難しいのではないでしょうか。例えば「木を植える男」のようにすることは、そう簡単ではないと思います。 いろいろ考えてみましたが、やはり確たる答えは出ませんでした。これは、本を読んでも解決できない問題だと思います。生きている以上、やはり何かの意味を見出したいのは人情ですし。 けれども、最近は子を持たない方が増えてきているので、相談者様の質問は、今後、多くの人に切迫感を持って語られていく内容なのかもしれませんね。 私も、他の方のお考えをもう少しお聞きしたいです。
お礼
お礼が遅れに遅れて恐縮しています。 あまりに多くのご回答が寄せられて、考えるところが大きかったものですから。 >家系(≒家)という、ある意味、社会的生命に >つながるものと、子孫という肉体的生命に関す >る問題のように読めました ここまでご回答を賜って恐縮ですが、それは誤解なのです。 「子孫がいない」という事象を敢えて書いたのは、「生物の最低限の機能であるところすら果たせないのに」という、「生きる意味の模索」状態を強調するためであって、子供が居ないことイコール不幸だという意味で申し上げたのではないんです。 その点、多くの方へ誤解を与えてしまいました。申し訳ない限りです。 ただ、 >生きている以上、やはり何かの意味を見出したいのは人情ですし。 というご指摘は、鋭いところを突かれたという気がします。 意味を見いだしたいのは人情であって、本当は意味など無いと開き直るべきなのかも知れません。 だからどうなるというものでもありませんが、少なくとも、意味のない命題へ対して堂々巡りの悩みを循環させる必要はなくなります。 また、確かに子供がいれば、親としては生き甲斐や癒しの対象になるかも知れません。が、それは逆に言えば、子供を、一個の人格を持った人間として扱うのではなく、一種のペットとして扱うことと似ているような気もしてきました。 それは、親の傲慢というものなのかも知れません。 なお、自分は貴殿のご回答によって不快など感じておりませんから、その点はご心配なく。 少しずつではありますが、更に皆さんのご意見を拝聴してみたいと存じます。 深い話ですと、お礼を考えるのも一朝一夕には行かず、ご無礼を働いてしまいました。
>人間が生きる理由を求めていると言っていいでしょう ご質問と他の方のご回答、それに対するお礼などを読ませていただいて、どの方も「人間が生きる意味」について書かれていると感じました。 「人間が生きる意味などない」という考え方の方はいらっしゃいませんね。 そもそも、人間が生きる意味があるという前提は、どこから来るのでしょうか。 生物学的には子孫繁栄、また進化の要素の一員としての役割はあると思います。(淘汰されるものがあるからこそ進化するのですし) けれど、哲学的に「生きる意味は?」という問題ですね。 質問者さまは、自分はただ生まれて食べて死ぬだけなら、何のために生きているのだ、と書かれています。 では子孫を残したり社会的な功績を残した人は、生きる意味があったと満足していると思いますか? ここは哲学のカテゴリーですが、私は心理療法の仕事をしていたことがあります。 心の悩みとして、「生きる意味が見出せない」という人はたくさん見てきました。 質問者さまの今回の質問を、もっと病的にしたものを持っている人は多いのです。 そういう人は皆、「子供を産んでいる人、社会に貢献している人は、生きている意味がある。でも自分は何もない。」と言います。 それに対してよく「ボランティアでもしてみたら?」というアドバイスをする人がいるのですが、これはダメです。 こういう人がボランティアをしても、最初は「生き甲斐」を見出したと感じることがあっても、すぐに「違う・・」とまた虚しくなってしまうものです。 実際、質問者さまもここにある回答で、「これはこういう意味がある」「あれはああいう価値がある」と言われても、納得できますか?できないでしょう。 なぜなら、もともと「生きる意味」を求めている時点で、それは強迫観念なのです。 そういう人は例え子供を産んでも、出世して大きな仕事を任されるようになっても、「生きる意味」に到達することは永久にないでしょう。 なぜなら、「生きる意味」という回答は存在しないからです。 回答のない疑問を持ち続けることが、人生の意味であるという考え方もあっていいかもしれません。 でも、心理学では「回答がない」という回答が、一番の解決策である場合が多く、実際、そういった虚無感に悩む人が「生きる意味を探す」ことを止めたとき、真に「自分の人生を生きる」ことができるようになるのです。 私自身、苦悩を抱えて最後に辿り着いたのが「生きることに意味などない」という真実でした。 それからの私は地に足をつけて毎日、楽しく生きることが充分、自分の生き甲斐と感じられます。 生きる意味は求めるから見つからないのです。 質問者さまが >意味など無いことがわかった上でも、なお修羅の道を最後まで歩く価値があるのでしょうか? とおっしゃるのは、まだ生きる意味を捜し求めているからです。捜し求めているから修羅の道となるのです。
お礼
お礼が遅れに遅れて恐縮しています。 あまりに多くのご回答を賜りましたので、色々考えるところ多く。 結局生きる意味など無い。 これは、自分も普段から考えていることでした。 しかし、そのことが敢えて自分を強迫観念へ結びつけているというご指摘には、初めて遭遇致しました。 なるほど。 ただ、悩むことなく草食動物のように生きていれば、人生は修羅の道でも何でも無いというということですね。 なかなか、目からウロコなお話です。 学問的な意味も含めて、少々生きるのが楽になりました。 たまたま生きているだけだと思いますと。 的確なご指摘ありがとうございます。
- 8942
- ベストアンサー率13% (188/1414)
実際そういった境遇にならないと解らない辛いつらさがあると思います。 きっと貴方の心を汲み取れない発言があるかもしれません。 お許しください。 私は個人個人の個性というのはとてもユニークでかけがえの無いものだと 思うのですが、ですがDNAといった遺伝子はどうでしょうか? あなたにしかない特別な遺伝子ってあるのでしょうか? ABO型の血液型はどうでしょう。何億人と人間がいてもA型とB形とAB型とO型しかいません。DNAなんて人類共通の部品に過ぎません。 専門家でないので詳しくないですが、おそらく他の形質に関する遺伝子もそんなにバリエーションは多くは無いのではないでしょうか? 貴方の細胞に刻まれているDNAは特別なものではなく、おそらく 一般的日本人には珍しくないものばかりでしょう。 貴方が伝えられなかった遺伝子のおそらく全ては必ず多くの誰かによって後世に 確実に受け継がれます。実の子にだって伝えられるDNAは自分のそれの半分に過ぎません。 それより、貴方が伝えなくてはいけないものは、今まで貴方が生きてきて、貴方しか経験していない事や、学んだ事、価値観、哲学といった事では ないでしょうか?それはDNAには決して刻まれる事のないかけがえの無い知恵です。しかし、それは子孫だけでなく、人類誰にでも伝得うる 人類の至宝ではないでしょうか? 貴方が後世に伝えられるものは、DNAよりもずっと貴重なもののはずです。
お礼
お礼が遅れた上に こんなお礼では失望なさりかねないので恐縮なのですが・・・。 DNAよりも貴重なものですか・・・ 人類の至宝的な・・・ 自分には無いです。そんなもの一切。 いや、「そのように自分を卑下して頭がおかしくなって自殺しちゃった人が、実は至高の思想家だった。」なんてこともありますから、自分自身で判断することも実は御法度なのかも知れないのですが、やはり自分には何にもありません。 何か伝えられればいいですね。本当に。
- frau
- ベストアンサー率28% (56/199)
私の場合「心理的事情」において子供を生まないと決意しております(という決意以前にパートナーがいないし(笑)。だからまずは独りで生きていく決意かな)。ご質問者さんの場合、パートナーがいるだけいいじゃないっすか(笑)。 >ただ、生まれ、ただ、死ぬだけで、後には何も残りません。 あなたに子供がいたとして、その子供もあなたのDNAを受け継ぐとしたらそう考えるかもしれません。そしてその子供も生まれたらあとは死ぬだけです。あと悪い人たちのことが挙がっていますね。確かに死人に口なし(?)ですが、森羅万象は二律背反の要素で成立している以上、善という絶対性の相反するものに悪という絶対性が相対し合うのは免れません。ゆえに善人は悪について苦しみますし、哲学で「善とは、悪とは」を考えていくとそれはもう回答がでないままで・・・不条理とは「魂の進歩」のため・・・でしょうね。つまり輪廻・・・おっと。宗教的回答をするところでした(笑)。(私もお断りしておきますが、関係者ではまったくない宗教を哲学として捉えたい有神論者です) そのように全ては「外の世界の出来事」。同時に「まったく純粋な内なる世界の出来事」なのだと思います。そのような相対世界を内なる絶対性とどうリンクさせていくか、それが生きることなのだと思います。 DNAの指令も戦中の日本のように「産めよ育てよ」と強迫観念を植えつけています。このようなテーマも本能以前にひとつの社会契約論かと思います。戦後女性が「産む性」から多少開放されたように、もうひとつの観念から自由になることがあってもいいかなと思います。 他のご回答にもあるように、産みたくても産めない女性もいるわけですし、ひとつの選択として決意したりするのは私も女ですから相当な意志があるわけです。特に女独りで生きていく道は出産よりも険しい道のりかも(笑)。 「戦争」で思ったんですが、戦争という死への衝動については「わかっちゃいるけどやめられれない」矛盾もありますよね。戦うことも人間の本能というけれど子孫繁栄も本能のひとつならば、戦争をし続けるパラドックスは?生への願望と死への願望が並存している意味とは?また、もし自分達の後世に再び世界大戦が始まり、我が子が兵士として戦地に赴くかもしれない可能性を考えたら?確かに戦中は国の政策に洗脳されていたとしか思えません。 だから私は母性本能というのは本当はないのではないかと思います。これは心理学のある学説にもあることですが、中世の貴族社会では子供を里子に出すのは特別なことではなかったらしいです。貧困が原因で娘を遊郭に売ったりするのは仕方ない、とされても、「間引き」のように子を手放す慣習も、我々同種の仲間ではあるわけです。時代や文化の違いによって・・・説明し難い事実です。 「早く子供を産まんかいっ」という我が母の小言(その前に結婚相手は?だろっ)を聞くたびにうんざりさせられていますが、その母だって理想の母では決してなく、むしろ子を泣かせてばかりいた母親だった。 女は特にそれが暗黙の了解のように義務化されてて、昔のように偏見では見られないだろうが、母子家庭はまだ厳しい目で見つめられ、男は育児を妻にまかせっきり、その妻が外で働きたくても元いた会社に復帰できない、しづずらい。育児休暇がない企業がほとんど。働くといっても安価な時給のパートタイマーという形態がほとんど。育児所は民間サービスに委託するような社会的サービスは充実していない。・・・産む基盤はできてても、育てる基盤が貧困じゃないですか、日本て。国は少子化を憂う前に安心できる「社会的ゆりかご」を用意しろっての。それでも例えば私の妹などは「2人目を早く」なんて言われて怒ってますがね。これは明らかに彼女の親(祖父母)のエゴでしょう。・・・あ、愚痴っちゃいましたね、スミマセン。 私的にはそのような個人事情もありますが、そういう現実とか、人間関係が希薄な世の中、犯罪の蔓延など考えますと、産むことに躊躇せざるをえません。それに人間嫌いなもんで、これ以上地球環境破壊の元凶であるニンゲンという生物を繁栄させたくもないんですね。このあたりご理解いただけないかと思いますが。 >修羅の道 なお、修羅の道とはそのような決意をした者(特に女)にとっても同様であります。 >「社会的な功績を残せば良いではないか!」と言われるかも知れませんが、そんな人間は一握りでしょう。 そうです、私はその一握りだと思います。何しろ親として成熟、というか健全なアイデンティティを確立しないままに母親となった女性がなんと多いことか! たとえば社会問題化している深刻な幼児虐待。あれは虐待の連鎖で成立しています。温かいおっぱいや乳児や親の愛情を知らないまま幼児が地獄絵図の中で死んでいくのを思うと涙が止まりません。それならばいっそのこと人間の生殖機能は消滅すべきだと思いますね。 また私の親のように子を犠牲にしたことについてはまったく無知で「親としての役割を果たした」と独りごちている名ばかりの親はゴマンといると思います。 そのように遺伝は時に負の遺産も残すわけです。 特に我々日本人のように「家系」にこだわり続けているDNAもまだ残存しているわけです。でもそれは子孫繁栄というよりも「家名」にこだわっているひとつのエゴでしょう。血縁者に恵まれない場合には里子をもらって養子にしたらしいですから。 やりたい事、学びたい事はたくさんありますし、社会的な功績なんてどこまで貢献できるかわかりませんが、私をひとつの資源としてどうぞ、使ってくださいというしかないですね。でも私の生きるというテーマは「自分を使い切る」ことですから社会的資源となり、そして土に還っても土壌の有機的資源となり(ってありえないか)、「生」に己れを食べさせれば、それでいいんです。私一人いなくたって、子孫は繁栄するでしょうし。「利己的な遺伝子」なんて言われているくらいDNAなんてわがままですから放っておいたって雑草のような生命力でどこかで行き続けますよ。 ひとつの生が点として、子孫繁栄が線となるのが点の義務というのならば、私はあえて点のままで終わりたいですね。つまり神様(不条理)へのささやかな反抗ということで。
お礼
お礼が遅れてすみませんでした。 つらつらと拝見致しましたが、どうやら自分と似たご発想をお持ちのようです。 自分としても、感情論としては、神へのささやかな抵抗として(といっても無神論者ですが。八百万の神は別として・・・)人類の繁殖は妨げたいとご見解には賛成です。 ただ、そうなると、自分で満足のいくような人生を送っていない人間は自殺すべきである(できれば楽チンに)・・・という結論に飛びつきたくなります。 (ブロバリンなどが堂々と市販されていた頃は、多くの知識人がそのようにしちゃった経緯もありますので、あながち間違いでもないように思います。) そうなりますと、一番最初の命題に戻って、「今後生きていく心構え」って何? となります。 ご回答者様の文章を要約すると「そんなものはねぇ!」ということでしょうか? なるほど、それも一つのご回答です。ふむふむ。 下手に目的論を追うよりも、「いつ死んでもいいや!」的な割り切りの方が重要なのかも知れません。
- nofutureforyou
- ベストアンサー率9% (25/277)
生物学的には、自分の兄弟や親戚の子供の生存を助けることによって自分の遺伝子を残す働きをしているはず。だから、社会のため(大きな功績でなくても良い。他の人が生き残れる確率をちょっとでも増やすとOK)になることをしたら十分DNAを残すことだと思うんですが。と言ったら期待はずれですか。でもそうでないなら子供を作ったあとすぐに死ぬように人間はなっているはず。
お礼
お礼が遅れて申し訳ありませんでした。 確かに、生き甲斐を、自分の子供を作ることのみに集約するのは無理が大きいと思えるようになってきました。 その点では、ポイントをお突きになってます。 その上で「何で生きてるのか?」と問うことは、なんだか人生相談の部類に堕するようなので、哲学とは無縁のような気がしてきました。 ありがとうございます。
お礼
お礼が遅れてしまい恐縮です。 再度の御指南ありがとうございます。 自分自身が生きていることそれ自体に感動することが、それすなわち生きている意味だというニュアンスと解しました。 確かにおっしゃるとおりです。 他人から評価されたり、良きにしろ悪しきにしろ足跡を残すことを生きる意味にしてしまうと、それ自身を貶めるような気がしてきました。 ただ、逆に、「そのような感動」を感じることすら出来なくなった場合には、意味性自体が消滅してしまう危険性も感じました。 今、まさに、自分はそのような状況にいると思います。 あきらめた時点で終わりなのかも知れません。 ご回答ありがとうございました。