- ベストアンサー
鉄砲三千丁説が唱えられた由来
織田・徳川連合軍と武田軍が戦った長篠・設楽原の戦い。 信長が三千丁もの鉄砲を使用したというのは誰もが知っています。 ただこの三千丁説はどこから来ているのでしょうか? 信長公記には千丁余と記されていますよね。
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
通説である「鉄砲3000丁」というのは小瀬甫庵(おぜほあん)の「信長記」に登場します。 太田牛一の「信長公記」を自分流に書き直した「信長記」は、「桶狭間の戦い」や「長篠の戦い」での「鉄砲三段撃ち」など、現在一般的に定着している戦国時代の知識の一部は、甫庵の作品に端を発しています。 「信長公記」は記録資料として活用する一方で、「信長記」は、あくまで「文学作品」として評価し資料価値を認めない傾向にあるのが現状です。 ただ、「信長記」は、刊行されるやベストセラーになり、大衆に広く親しまれたために、「鉄砲3000丁」という数字も定着してしまったのではないでしょうか? 「信長公記」では、決戦に使用された鉄砲数に関しては「千挺計」=「約1000丁」、鳶ヶ巣山攻撃の別働隊が「五百挺」と書いてあるので、合計しても約1500丁にしかなりません。 しかし、この「千挺計」は、あくまで「佐々成政」、「前田利家」、「野々村正成」、「福富秀勝」、「塙直政」の5人の奉行に配備したと書かれているのであって、この5人の武将以外の部隊の鉄砲の数には言及されていない点には注意が必要です。 また、信長はこの合戦の直前、参陣しない「細川藤孝」や「筒井順慶」などへ鉄砲隊を供出するよう命じています。 その結果、細川は「100人」、筒井は「50人」を供出しています。 こうなると、他の武将からも鉄砲隊の供出は行われたのではないか?と考えられます。 さらに鉄砲の傭兵団として有名な「根来衆」も参戦しています。 つまり、太田牛一は、全体の正確な鉄砲数を把握していなかった可能性が考えられますので、「1500丁」は考えうる最低数の数といえるのかもしれません。 では、当時の織田家は鉄砲をどの程度、集める事が可能だったのか?ですが、これより6年後の天正9年(1581年)に定められた明智光秀家中の軍法によれば、 一千石取りで軍役32人、そのうち鉄砲5挺を用意すべきと定めています。 長篠の合戦に参戦した織田軍の兵力を通説に従って「3万」と仮定し、参戦しない武将にも鉄砲隊を供出させたという史実から考えると、数千挺ほどは十分用意出来た可能性も考えられます。
その他の回答 (3)
- izuhara
- ベストアンサー率31% (97/310)
すでに回答されていますが、小瀬甫庵の「信長記」が由来です。 長篠合戦の通説については様々な問題が指摘されて久しいですが、 藤本正行『長篠の戦い』(洋泉社新書) が参考になるとおもいます。
お礼
回答ありがとうございます。 その書籍は以前読ませて頂きました。 近年の研究で学者の間では鉄砲三千丁という数字は誇張であると言われていますよね。
- zep19
- ベストアンサー率45% (138/306)
信長公記をよく読まれたでしょうか? 三千挺かどうかはわかりませんが、信長方の鉄砲総数が千挺だけではないはずです まず鳶ノ巣山攻撃の為、信長は馬廻に鉄砲五百挺を加え金森長近、佐藤秀方、賀藤市左衛門を酒井忠次の援軍としています これとは別に鉄砲千挺を《選抜》し弾正山に布陣していた佐々、前田、野々村、福富、塙ら馬廻に指揮させています つまりそれらの鉄砲奉行指揮下に《選抜》されていない鉄砲衆もいたはずですし それよりなによりも信長の軍勢は馬廻だけではありません 佐久間信盛、滝川一益、丹羽長秀、羽柴秀吉ら一介の武将らいます 彼等の軍勢が鉄砲を全く持っておらず槍、弓のみ装備していたとは考えられません 後に北関東の沼尻で佐竹義重を総大将とする佐竹・宇都宮連合軍は北条軍と対峙しますが 長篠時代の織田・徳川軍より兵力・財力の劣るはずの佐竹・宇都宮連合軍は鉄砲八千挺も動員しているのです
お礼
回答ありがとうございます。 もちろん決戦当日に使用された鉄砲の数が千丁という認識です。 しかし、少なくとも太田牛一本人は鉄砲の数を把握していなかったのは現状ですし、 三千丁というのはさすがに誇張ではないでしょうか。
一般的には、味方の軍勢、武器の数は 数倍と称するものなので、 実際に千丁あったのなら、 三千丁と称しても不思議ではないと思います。
お礼
回答ありがとうございます。
お礼
回答ありがとうございます。