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鉄砲の有効性を理解していた武田勝頼が何故?
長篠・設楽原の戦いについての疑問点があります。 それは鉄砲の有効性、及び三段撃ちの存在を理解していたと思われる武田勝頼が何故あのような戦術をとったのかということです。 それでもなお勝頼は武田軍が得意な白兵戦に持ち込めるという考えを持っていたのでしょうか? それともやはり織田・徳川軍が陣城を築いているという情報を掴めなかったのが敗因でしょうか?
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この戦いの帰趨は「鳶ヶ巣山攻防戦」がすべてで、武田勝頼ほどの武将なら織田の陣を見れば不利は十分に理解でき、さっさと兵をまとめて本国に向かって『転進』(旧日本軍がよく使った言い回し)してしまえばよく、追撃されたら兵力は温存しているので、有利な地点で反撃に出ればよく、これなら馬防柵もないので勝機も出てきます、もっとも信長もわかっているのでこの状況なら勝利宣言をして戦わないでしょう。 ところが鳶ヶ巣山を取られてしまったことで、もう兵力を温存しての撤退ができなくなってしまった、この状態で撤退の準備を始めれば上から一望できるので、挟撃されておしまい。 そうなると一か八か突進するしかなく、佐久間信盛が内応するらしいとか、雨で鉄砲が使えないのではないかとか、織田の兵は根性がないから逃げ出すだろうとか、諏訪権現の神力で神風が吹くとか、これも旧日本軍と同様に不利なファクターを見ないようにて突進を決めてしまった。 >それでもなお勝頼は武田軍が得意な白兵戦に持ち込めるという考えを持っていたのでしょうか? 勝頼は優秀な武将ですから、無理は承知していたと思う。 ただ威信の低下とか、支配地域の武将の離反とかいった事情から、やらざる得ないところまで追い込まれており、撤退も考えていたと思うが、迷っているうちに鳶ヶ巣山を取られ、もはやこれまでと思ったのでは。 >それともやはり織田・徳川軍が陣城を築いているという情報を掴めなかったのが敗因でしょうか? 陣立てからすべて把握しており、戦いの帰趨も読んでいたと思いますよ。 忍者なども使っていますし、一説では内応を信用させるために信長の指示で佐久間信盛が陣の配置図を届けた(知られても構わない範囲で)という話もあるくらいです。 ただ理屈と実際は違うので、ひょっとしたら柵を壊すことができるかも知れないし、突っ込めば勝負になると考えたと思う。 まとめると、武田勝頼はかなり優秀な武将であるが、信玄の時代(せいぜい1万人規模)とは異なり数万の兵と戦う時代に入り、甲斐の金山も枯渇し、国力を維持できなくなってきた。 配下の勢力も次々に調略され、周辺部では武田家に見切りをつけて織田や北条に走る豪族も増えてきて、ここで威信を見せないと瓦解するところまで追い込まれていた。 唯一の生き延び策は三河の支配をあきらめ戦う前に『戦略的転進』として甲斐に帰ることだが、その機会を失してしまった。 こうなればもうどうしようもなく、神頼みで突っ走るしかない。
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- Yelm
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勝頼が既に幾つも指摘されている不利を推して決戦を挑んでしまった理由として考えられるのは、それまでの信長の行動に原因があると思われます。 実は信長は信玄時代を含めて武田方の精鋭との正面決戦を避ける方針を続けていました。 これはいわゆる第二次信長包囲網の中にあった信長は、武田軍と正面決戦を行うに足る戦力を集める事が出来ず、また仮に可能になったとしても多大な犠牲を伴いかねない決戦は避けたかったからだと思われます。 ところが長篠の合戦時に信長は浅井・朝倉を滅ぼすなど各個撃破により包囲網を崩壊させており、武田方と決戦を行うだけの用意が整っていたのです。 しかしながら勝頼はこの戦略的状況の変化を見抜けず、経験則から「今回も信長は決戦を避けるだろうから、徳川方だけ相手をすればいい」という結果的には誤った読みを抱いてしまったのではないでしょうか。
お礼
回答ありがとうございます。
- eroero1919
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長篠の合戦で最も激しい戦いがあったのは、実は武田軍から見て左翼、つまり徳川軍正面でした。徳川軍は織田軍ほど鉄砲は持っておらず、しかもほぼ平野で機動戦向きの地形をしています。 だから、もし織田・徳川連合軍の右翼つまり徳川軍を突破すれば勝機が見えると勝頼は踏んだのではないでしょうか。 そのあたりの武田勝頼の戦術眼は決して愚かではないと思いますよ。ちゃんと要を突いてきている。 ただ、勝頼の見込み違いがふたつあって、ひとつはやっぱり信長の戦略眼は勝頼よりも一枚も二枚も上であったということと、徳川家康は強かったということです。実際問題、家康の野戦指揮官としての能力は信玄、謙信クラスに匹敵しているといえます。三河兵は強兵ですしね。 信長のすごいところは、信長自身もたぶん決戦地は設楽原南部と見切っていた。そして自分の軍隊がおせじにも強兵とはいえないこともわかっていた。だから、自分の主力は北方の起伏に富んだ地形に置いてさらに柵を築いて城のようにした。これで弱兵でも耐えられかつ鉄砲が有効利用できる体制を整えました。 さらに、その決戦地には家康を置いて織田軍の損害を最小限とするとともに家康の後方に息子(信忠)を隠していざというときの予備にしました。家康をこき使うことにおいて信長の右に出る人はいません。 元々が勝頼としては織田・徳川軍との決戦は望んでいたところだったと思います。ただ、勝頼の読みとしては信玄の三河侵攻作戦のときのように織田軍は一部だけが増援にくるとみていたのではないでしょうか。それが信長直々が兵を率いてきたというのは勝頼としても驚くところであったと思います。 しかしそもそも決戦を望んで出兵してきたのに「思ったより相手が多いから帰ります」では威信が大いに低下してしまいます。当時は軍事作戦はそれぞれの武将は費用は自分持ちで参加するのが通常でした。つまり勝ち戦で戦後の報償が期待できるからこそわざわざ自腹を切っても戦争に参加していたわけで、もしここで勝頼が引き下がったら家臣としては報償にありつけないというわけで、特に三河の親武田の武将たちが徳川方に寝返ってしまうリスクが相当にあったと思います。 当時はまだ上方で三好三人衆と石山一向門徒の活動が活発で、直前まで信長自身が兵を率いて大阪にいましたし、三河方面に大軍が送れるほど織田軍には余裕がないと勝頼としては読んでいたと思います。実際は勝頼が想像した以上に信長には動員兵力があったということでしょうけどね。 だから勝頼とすれば、引き下がれば家臣団の離反を招き、突っ込めば大敗北のリスクを負うという難しい立場に置かれたと思います。そしてまたそういう立場に勝頼を追い込んだという時点で信長の戦略的勝利は確定したといえるわけで、このあたりは信長の戦略眼の確かさであるかと思います。 そしてその中で、勝頼はイチかバチかの勝負に出た。イチかバチかといっても決して破れかぶれではなく、織田・徳川連合軍の要となるところを重点的に攻撃したのですから追い込まれていたとしても勝頼の戦術家としての視点は確かだった。 しかし、それも信長としては想定した範囲内であったということでしょうね。信長は勝頼が兵を引けば、それならそれでもよいと考えていたと思います。戦略的には勝利を得られるので、三河・駿河のパワーバランスは織田・徳川優位になる。実際、長篠で大勝利をしたにも関わらずその後7年も勝頼を放置しています。東方戦役は信長にとっては優先順位は低かったということでしょう。
お礼
おそらく勝頼も家康が強敵だと認識していたのでしょうね。 故に山県昌景を当たらせたのでしょう。 回答ありがとうございます。
地元なので一言。 信長の鉄砲は国友村で作られるものも多く、特に有名な斉藤道三との会見に持ち込んだ鉄砲は国友製と言われています。 また信長からは数百丁単位の大量発注を受けているので、手作りというより「工房」「町工場」と考えた方がよいと思います。 国友の直接支配は長浜城主の木下藤吉郎、言わずと知れた豊臣秀吉ですから、織田の鉄砲の主力は国友ではないかな。 地元の人間としてはそう思っています。
お礼
私も堺はどちらかというと鉄砲の海外からの輸入ルートであり日本での大量生産は国友村だと思っています。 再度の回答ありがとうございます。
戦は負けると解っていてもヤらねばならん時がある。 No.2の回答者様の回答は面白く読めました。
お礼
回答ありがとうございます。
- isa-98
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堺の職人さんの手作りだったからですよ
お礼
そうですか。
- 1582
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三段撃ち自体が後世のでっち上げだし 単に数で負けただけ
お礼
当時の資料などに三段撃ちの記述が幾つもある以上それそのものをでっち上げというのは少々乱暴ではないでしょうか。 回答ありがとうございます。
お礼
回答ありがとうございます。 信玄の時代からの度重なる遠征で国内財政が圧迫したこと、 そのことによって勝頼は領土拡張政策を図った。 そして長篠の戦いは織田・徳川側に痛撃をあたえるまたとないチャンスであり、 事実勝頼はそのような文書を本国に送っている。 また陣代であった勝頼の立場は盤石ではなく、 国内外に自らの威信をあらわす必要があったこと。 これらのことによって長篠の戦いは引くに引けない戦だった。 つまり元を正せば長篠での敗北の遠因は信玄にあったとも言えますね。