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長篠合戦 武田軍の敗因は?

長篠の合戦で武田軍は何故敗れたのでしょうか? そもそも織田信長による鉄砲隊の一斉射撃は無かったわけだから だとしたらいくら勝頼が愚将でも山県や飯富、馬場美濃に高坂といった武田二十四将や 甲陽五名臣といった最強クラスの武将が そうあっさりと織田 徳川軍に負けるでしょうか? 織田軍には当時 中国計略中の羽柴秀吉や北陸で戦っていた柴田勝家 前田利家らのエース級の武将が不在だったわけで どう見ても織田軍に勝ち目はなさそうなのですが…

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  • eroero1919
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回答No.5

戦争においては、兵力の多寡が大きな影響を与えます。昔だろうが今だろうが、基本的に兵力が多いほうが勝ちます。例えば城攻めを除けば名作戦が少ないといわれる秀吉ですが、しかしほとんどの戦役に勝利をしています。九州攻めしかり、小田原攻めしかり。九州攻めも一部で大敗しましたが、最終的には勝利しています。なぜ秀吉が勝ち続けられたのかというと、やる前から勝てるだけの兵力を集めたからです。つまり最初から「こりゃ勝つだろ」というだけの兵力を集め運用したことが秀吉の凄さであったといえます。 あの孫子の兵法書にも、名将というものは本来「戦う前から勝てる体制にしておく」ものであると書いてあります。 さて、武田軍というとやれ二十四将だのなんだのといわれていますが、まあ過度に宣伝されている部分もあります。どこかの質問者さんのように捏造というつもりはないですけどね。 その武田軍どころか名将武田信玄と直接戦って大敗したのが徳川家康です。ご存知、三方ヶ原の合戦です。ところがこの三方ヶ原の合戦、家康は大敗していながら主だった家臣を誰も失っていないのです。あの本多忠勝を始め、後に関ヶ原の合戦の前哨戦の伏見城の戦いで壮烈な戦死をとげる鳥居元忠や赤備えで有名な井伊直政ら、誰も戦死していないのです。つまり、戦いには負けたものの、徳川軍は弱くはなかったのです。 というか、あまり知られてないのですが、家康の野戦指揮能力って信玄や謙信クラスに匹敵するんですけどね。小牧・長久手の合戦の野戦指揮なんてまさに変幻自在というべきものでしたしね。 だから、武田軍は精兵、織田軍は弱いなんてよくいわれますけど、確かに織田軍は強くないけど、徳川軍は武田軍と互角の実力を持っているのですよ。 そして、悪魔的にドSの信長は長篠の合戦でも要となる設楽ヶ原南部にその家康を配置します。設楽ヶ原北部は起伏がある地形で、さらにそこに織田軍は柵を作り、空堀を掘りました。つまりそこにちょっとした城を築いたのです。それでそこに大量の鉄砲を用意して万全の「防御陣地」としました。 一方、設楽ヶ原南部は地形が緩やかでかつ開けています。そこに徳川軍が配置され、周到な信長は徳川軍が突破されたときに備えてその背後に息子の信忠を隠しておきました。つまり信長は家康を使い捨ててもいいと考えていたのです。ドSですね! 実際問題、戦いが激しかったのはこの家康が担当した設楽ヶ原南部だったのです。 つまり信長の戦略は、織田軍の正面の北部戦線は陣地と鉄砲でしっかり守り、南部は徳川軍をこき使って勝てば上々だし、仮に徳川軍が突破されても戦略予備の息子信忠が武田軍を食い止めるから無問題というものであり、実際に信長の戦略の通りになったのです。 長篠の戦役において、武田勝頼は戦術的勝利を追求するしかありませんでした。精鋭武田軍を率いるのであれば、戦術的勝利は見込めますからね。戦術的勝利が突き抜けることで戦略的勝利につなげようとしていたのです。 しかし対する織田信長は最初から戦略的勝利を狙っていました。信長にとっていちばん恐れていたことは、織田・徳川連合軍の数の多さに勝頼が驚いて、決戦を避けて撤退されることでした。だから、まるで武田軍を恐れているかのように腰が重い動きを見せたり、息子信忠の軍勢を隠したりして「織田軍は精兵武田軍との決戦を恐れている」あるいは「両軍の兵力はほぼ互角である」と思わせようとし、そしてそれは成功したといえるでしょう。 稀代の戦略家、織田信長の方が一枚も二枚も役者が上であったということですね。

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございます

その他の回答 (6)

回答No.7

連投失礼します。 >別働隊に長篠城の攻囲軍を撃破されて、引くに引けない状況に追い詰められ これは間違いです。 勝頼が攻撃を前日に決定し、当日朝に攻囲軍の敗走を知り、設楽が原の戦いが始まる。という流れでした。攻囲軍が撃破されて(退路を断たれて)、決戦を決意したわけではなしということです。

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございました

回答No.6

他の方もいっていますが、一番大きいのは単純に兵力差でしょうね。 38000vs14000です。 別働隊に長篠城の攻囲軍を撃破されて、引くに引けない状況に追い詰められ(設楽ヶ原周辺を戦いの4ヶ月前に調査をしていたりと、見えないところで色々やってそう)、野戦築城を施した織田・徳川陣地に攻め込んだ訳ですから、疑問に思うようなことは何も無いような。 武田二十四将や甲陽五名臣やらは「甲陽軍鑑」が元で、それが江戸時代に大ヒットした結果、武田は強いとなってるわけですね。 兵の強さ的には、戦争に明け暮れていた織田兵と大差ないでしょうし、武装度(鉄砲のみならず槍、鎧等)も織田優勢でしょうし、さらに兵数、野戦築城という地の利、全て織田が圧倒的優勢下で行われた合戦ですね。 >織田軍には当時 中国計略中の羽柴秀吉や北陸で戦っていた柴田勝家 前田利家らのエース級の武将が不在だったわけで どう見ても織田軍に勝ち目はなさそうなのですが… 前田利家も柴田勝家も秀吉も参加していますよ。 光秀は不明らしい。

azuki-7
質問者

お礼

秀吉は当時播磨で別所氏と交戦中で長篠には参戦していませんよ? 逆に光秀は出ています 勝家と利家も不参加です もう少し歴史を学びましょう

noname#177763
noname#177763
回答No.4

武田信玄といえば騎馬隊が有名ですが、 当時の日本の馬はサラブレッドのような大きな馬ではなく、 脚が短く体も小さな馬でした。 おまけに30kg近い鎧を着ています。 そんな騎馬隊はトロトロ走るだけで、恐怖の対象ではありません。 落ち着けば、長い槍や火縄銃で充分対応出来るのです。

azuki-7
質問者

お礼

確かにそうですね 真田信綱が三尺六寸の長槍を振り回し 織田軍に突撃をかけたらしいですが あいつ何やってんだ?って感じに見えたかもですね

回答No.3

防御陣地を構築している敵に対して攻撃をかける場合、攻撃側は最低でも防御側の2倍の兵力は必要です。 開けた平地での機動戦であれば、用兵や兵の質で兵力差を覆すことも可能だったでしょうが、長篠の合戦の舞台である設楽が原は丘陵に囲まれた窪地で、織田・徳川連合軍は防御陣地を構築していました。 織田・徳川連合軍3万8000 武田軍1万5000 鉄砲の数など関係ありません。 自軍の2倍以上の兵力が防御陣地を構築しているところに攻撃をかけたのだから、最初から武田に勝ち目など無かったのです。 じゃあ、武田は何故こんな無謀な戦いをしたのか? 武田軍の退路に位置する鳶ヶ巣砦が、酒井忠次の別働隊によって占拠されてしまったため武田軍は無傷での撤退が不可能になったからです。 退路の鳶ヶ巣砦を攻撃すれば当然織田・徳川の主力が背後から襲いかかります。どんな精強な軍隊でも背後から攻撃されればひとたまりもありません。 そもそも武田が長篠に出兵したのは、武田を裏切り徳川に付いた奥平に懲罰を加え武田の威信を守るためです。 その結果、長篠城は落とせず、自軍に損害を出して撤退したのでは武田の威信は大きく傷つきます。 武田の選択肢は、自らの威信を貶め多少の犠牲を出して撤退するか、一か八か勝利か全滅かの賭けに出るかの2択しかなく、後者を選び壊滅した・・・これが長篠の戦いだと思います。

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございます

  • Yelm
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回答No.2

そもそも長篠の合戦で武田軍が勝てる見込みは最初から殆どありません。 両軍の総兵力は諸説ありますが織田・徳川連合軍は約3万8千人、武田軍が1万4千人とされており二倍以上の戦力差があるのです。 そのような状況でありながら武田方が戦ってしまった理由ですが、それまで数年間、織田方は主力の消耗を恐れて武田の精鋭との決戦を避ける方針を一貫して執っており、この経験則から勝頼や重臣達は「今回も織田方は決戦を避けるだろう」という見込みでいたのだと思われます。 しかしその数年で信長は周囲の脅威を各個撃破し、長篠の合戦時には武田の主力と戦えるだけの陣容を固めていたのです。 この見込み違いのために武田勢は数において圧倒的に勝り、戦意も旺盛な織田方との決戦を余儀なくされ、その結果として順当に敗北してしまったのです。

azuki-7
質問者

お礼

しかし武田は天下の精鋭部隊 その程度の兵力であっさり負けるでしょうか?

noname#159617
noname#159617
回答No.1

azuki-7さんのお得意戦法です。 ハニトラにかかって敗れました。

azuki-7
質問者

お礼

やっぱりそうですか?

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