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カントの経験的自我
大学のレポートで「カントの自我」について調べています。 いろいろ調べていくうちにカントは経験的自我と超越論的自我に分けていることがわかったんですが、カントの言う経験的自我がわかりません。 あと、勘違いしている可能性もあるのでできれば超越論的自我に関しても簡単に解説していただければとおもいます。 よろしくお願いします。
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- ghostbuster
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最初に断っておきます。これは回答ではありません。 まず、カントは「自我」という切り口でもんだいを立てていません。 「超越論的自我」なんて、ひとことも言っていません。もちろん「経験的自我」も言っていません(と思います)。 もちろん「自我」は、「純粋悟性概念の演繹」の部分や、それを受けての「純粋理性の誤謬推理」のところで出てきますが、あくまでも主眼は「わかったと思ったことと、そのものが一致しているとどうして言えるのか」ということにあるのであって、「自我」を超越論的哲学のなかで位置付け直そうとか、そんなことをしているわけではありません。 カントが『純粋理性批判』のなかでやろうとしたのは「それは何であり、どうしてそれがわかるか」ということであり、「実際に人間はどんなふうにそれがわかるか」であり、「知ることができること」と「知ることができないこと」について明らかにすることです。 その「どんなふうにそれがわかるか」の中心に、「自我」がある、と言ったのは、カントの後継者であるフィヒテです。以降、ドイツ観念論(フィヒテ―シェリング―ヘーゲルという流れ)の人々にとって、「超越論的自我」というのは、中心的なもんだいになっていきます。 そうした流れを受けて、逆に、カントの『純粋理性批判』そのもののなかから「自我」を読み解いていこう、という問題意識があるのです。カントの「自我論」というのは、現在のカント研究のなかでも、一番活発な部分かもしれません。活発ということは、未だ固定した解釈がない、ということでもあります。研究者によって、独自の切り口がある。 レポートを書いておられるとのことですが、いったいどのようなことを書いていらっしゃるのか、見当もつきません。 >超越論的自我に関しても簡単に解説 なんていうおそろしいことはとてもできませんが、もう少し細かく、わからないとされる点を具体的に書いていただければ、もしかしたら、答えられるかもしれません。ただ、こちらはあくまでも素人であるということをお含みください。