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国会開設の勅諭

国会開設の勅諭が決まってからの政府の動きを教えてください。 国会を政府の有利な方向に動かすために 憲法を作ったり、天皇主権を宣言したりと…。 調べていると「世論の緩和をはかろうとした」 ということが分かったのですが、 どうやって暖和をはかろうとしたか等がわかりません。 少しの情報だけでも良いので、是非教えてください。 よろしくお願いします。

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  • Bird1979
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回答No.1

「世論の緩和」の意味がよくわかりませんが、「勅諭」後の政府の動きとしては、 1.憲法制定に備え、憲法調査のため伊藤博文を派遣する。 2.国会開設に向けた制度・組織作り 3.自由民権派への弾圧と懐柔 があります。 2.については、華族令、内閣制度のほかに、次のものがあります。 ○「市制・町村制」(1888、M21) 制限・間接選挙による市長および市会、市参事会、町村会の設置 ○「府県制・郡制」(1890,M23) 間接選挙による府県会、郡会の設置 これによって、自由民権運動に参加していた地方有力者には市会・府県会という「地方自治」への途が開かれます。その点では、地方政治とはいえ具体的な政治参加が実現するわけです。 しかしこれらは、内務省(山県有朋)の主導のもとに進められた、中央集権的な地方自治制度でした。山県の狙いとしては、自由民権運動の一翼を担っている地方名士、名望家を民権運動から切り離し、国家主導の下で府県会・郡会に組織することでした。それによって「国家の組織を堅緻にし立憲政体の基礎を強固にする」とともに「かくのごとき老成着実の人士」によって帝国議会を形成しようとするものでした。 とはいえ、この山県の目論見は、地方名士の多くが民党(自由党、改進党)へと参加することで裏切られることになります。 3.については、政府は自由党・改進党の幹部を懐柔します。幹部と下部党員との離間策をとるわけです。 具体的には板垣の洋行(1882,M15)、自由民権派の大隈・板垣・後藤象二郎らへの叙爵(1887,M20)、および入閣【板垣=第二次伊藤内閣の内相、後藤=黒田清隆内閣(1889,M22)、大隈=伊藤内閣の外相(1888,M21)】などです。 「世論の緩和」とは、少々異なりますが、薩長政府とすれば、自由民権派のシンボルを取り込むことで「挙国一致」内閣としてアピールしようとする目論見があった、といえるでしょう。 なお、当時の内閣(総理大臣)は、現在のような議院内閣制ではなく、「薩長有力者によるたらい回し」、のちには総理経験者(元老)による推挙、という方法で決まっていたことに留意する必要がありますね。 ご質問に的確に答えているか疑問ですが、ご参考までに。

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