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哲学にレトリック
サラリーマンの知人と話していて、哲学書の難しさが話題になりました。 哲学の始まりの方に位置するプラトンは、レトリックや詩を好きではなかったと思いますが、アリストテレスは弁論術や詩学を書いているように、レトリックは思考や意見を伝える際の有効かつ重要な要素でしょう。ヨーロッパにはレトリック教育の伝統もあります。 しかし、カントやフィヒテの主著においては、レトリック的要素が極めて少ないと思われます。彼らが、もう少し比喩を使ったりしてくれれば(逆に、こんな比喩使わないで、というような変な例えもどこかにありましたが)、一般に難解だと言われる哲学書もわかりやすかったのに・・・ 哲学にレトリックは必要じゃありませんか? みなさまはどう思いますか。
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論証というのはなにかというと、命題が真であることを、論理学的な手続きにのっとって照明することです。つまり、演繹か帰納ということです。 たとえば「あの山に火がある」ことを正しいかどうか論証するためには、 大前提:火のないところに煙はたたない 小前提:あの山に煙が見える 結論 :あの山に火がある という推論が必要です。 そうしてデカルトにしてもカントにしても、この三段論法で論証された推論をつなぎ合わせて結論を導いていった。 ですから、つなぎ合わせていく推論の根っこ、最初の「絶対確実な大前提」を近代の哲学は求めていった。それがデカルトのコギトであり、もう少し時代が下ると、フィヒテの「自我」になる。 この命題を論証していく際に、「事例」、あるいは直喩を使うことはできます。論理学の生みの親であるアリストテレス自身が、「事例」は豊富に使っています。 これはたとえば(ほら、これも「事例」の例です)、「黄色みを帯びた薄い青」と言っても伝わらない、そういうときに「ウグイスの色だよ」という。 あるいは昔のSFに出てくる「火星人」を、「四肢が細く頭部が肥大している」と言うより「タコのような形」と言った方がわかりやすい。 こうした「事例」は哲学の中にも豊富に出てきます。『純粋理性批判』のなかにもたくさん出てきます(ごめんなさい、いま時間がないので、本の適当な該当箇所を見つけることができません)。 ただし、「レトリック」という言い方をするときは、事例やあるいは直喩を指すのではなく、隠喩、メタファーのほうを指します。たとえばマックス・ブラックはこのように言います。 ----- 「哲学者が使った隠喩をことさらに取り上げて見せるなら、それは論理学者の原稿を『字がお上手で』と褒めるようなもので、相手を馬鹿にしているのである。隠喩を使わなければ言えないぐらいなら初めから沈黙せよという原則があり、そもそも隠喩を使いたがるほうが間違いということになっているのだ」M・ブラック「隠喩」(『ことばと身体』よりの孫引き) ----- たしかに上にあげた「火」がもし別のものの隠喩であったとしたら、論証はうまくいかないのです。論証のためには、あなたとわたしが考える「火」のカテゴリーは同じものでなくてはならない。わたしが「火」を、たとえば「女性」の隠喩で用いていたとしたら、カテゴリーがちがってくる。隠喩というのは、たえずその危険性を孕んでいるわけですね。 ところがおもしろいことに、このブラック自身が自説の説明に隠喩を利用している……とここから先は、どうぞ尼崎の本をお読みください。 実際、この哲学と隠喩のもんだいというのは、一筋縄ではいかないところがあります。
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また、あなたのように、ご指摘を下さる方とお話させていただけたらと、思っています。ご指摘いただけるのは、大変ありがたいことです。 二回目で主張したかった事柄を、明瞭にまとめてみます。今回は、論理を省いたり、抜かしたりすることのないように。 ニュートンの話について。 ニュートンが、ほら、りんごが落ちた、りんごが落ちたんだーっ!と、その驚きを皆に吹聴して回っても、万有引力を説明したことにはならない。「ニュートン、新しい遊びを思いついたかい?」なんてことを言われたりするだけで、相手にされない。ニュートンが、落ちたりんごを指して、「りんごが地球に引っ張られたのだ。万物は、引き合う力を持っている。」と、相手に言わなければ、驚きは共有できない。更に、学会において理解を得るには、万有引力の法則のある事を、証明し、発表しなければならない。 ルソーだったかな、このような意味の言葉を、思い出します。 「我々は、証明すべき事柄をひらめきの内に発見するが、それまでの道筋は見えていない。それへの道筋を辿ってゆくことが、証明すると言うことである。」 以上の、ニュートンの例え話や、ルソーの言葉を経て、今、改めて、理解について、次のように述べます。 話し相手の前で、瞑想(沈黙と対話)していたり、自然に入っている(自然と対話)だけでは、話し相手の存在を埋没させてしまうことになる。 何かの事柄について相手と話し合うときは、その事柄、つまり共有する話題の材料のほかに、相手を見て話さなければ、理解に繋がらないだろう。 釈迦は、 1、瞑想していることで真実(理解されるべき事柄、対話の目的、意味)を知っており、 2、対話者(弟子)が釈迦を認めているように、相手を認めることでその個人(理解を必要とする者)を知っており、 3、自然を観ていること(対話の目的に囚われず、現状が見えていること)で、相手の理解のためのきっかけを得、「効果的な証明方法」を編み出すことができた。 効果的な理解の方法を、得るための条件を示すために、釈迦の話を紹介させていただきました。1、2、3、の文中に出てきた()の中は、うまく理解がなされるために、知っておればよい事柄です。()内を簡便に書き出します。 1、意味、目的 2、理解する者 3、現実 1は、お題、 2は、考える人、 3は、周りのこと です。 3つを欠かなければ、理解は正確にして、早まると思います。 これらを総合すると、例えば、レトリックという、意味を理解するきっかけも、上手に得れるのではないでしょうか。 今回は、うまくかけたかな? 自信はないけれど。もしご指摘あればおっしゃってください。では(^^)ありがとうございました。
お礼
またまたご回答ありがとうございました。 >何かの事柄について相手と話し合うときは、その事柄、つまり共有する話題の材料のほかに、相手を見て話さなければ、理解に繋がらないだろう。 つまり、普通一般の「対話」のことですよね。 それで、回答者様が仰りたいのは、 対話において相手を特に重視した有名な例が、 釈迦とその弟子たちの対話である。 弟子たちのそれぞれの性質を釈迦は洞察していて、 それゆえ、それぞれに合った言葉を心がけていた、 ということですね。 そこで、私が無知なためよくわからないのは、 元のお話にある、愚直な弟子はレトリックなどを使ったら、 もっと理解できないのでは? ということです。 たとえば、「あいつは狼よ」とAさんが愚直なBさんに言った場合、 愚直なBさんは、「ぇ~、狼? 人間じゃないの? マジ~?」 というようになるでしょう。 愚直な人は、レトリック的要素を解せない場合がありますので。 つまり、 「塵を払い、垢を除け、と言いながら、毎日掃除をしなさい。」 という言葉がどうレトリックなのかが私には分らないのです。 これは、本当に、言葉のそのままの意味で言われたもので、 実際、愚直な弟子も、この言葉にそのまま従って行動しただけ ではないでしょうか? 彼はこの行動をする際に、何か難問を理解したのでしょうか? 彼が「ひたすら続け」、悟りを得たのは、 その努力の結果、すなわち継続は力なり、 なのではないかと思いました。 あ、もうこちらにご回答いただくのも申し訳ないので、 新たに、「釈迦の説法」ということで質問したいと思います。 そういえば、私、 回答者様に対して「釈迦に説法」 という過ちを犯しているのかな(汗
こんばんわ(^^) 頂いたお返事を読み、昨晩書いたものですが、対話が滞る心配もないと思いましたので、編集して、いまお送りいたします。 釈迦の話が出ていますので、彼の使ったレトリック的な手法が描かれている、私が感銘を受けたストーリーを、哲学的対話と、理解についての参考としてあげてみます。 釈迦の弟子のうちのある者で、話すに適さない者が居ました。対話や議論のできない彼は、修行仲間からも仲間はずれにされていたりもしたのですが、あるとき釈迦が彼に言いました。 「塵を払い、垢を除け、と言いながら、毎日掃除をしなさい。」 愚直な彼は、その言われた通り続け、ひたすら続け、ある日、弟子のうちで誰よりも早く、悟りを得てしまいます。 ひねりがあるね、と言いますが、釈迦は、愚直な彼に合った、愚直な道を、少しひねって、彼に、その彼の道の真っ直ぐさを、示したのではないでしょうか。 故に対話は、相手を見つめることが、大事なのだと思います。目線で釘をさすような意味ではなくて、プレッシャーを与えると言う意味でもなくて、つまり、認めると言うことです。 釈迦が真理ばかりを見て(真理を知るばかりで)、チューダバンダカを見ていなければ(知っていなければ)、優れた師にはなっていなかっただろうと思います。 対話においても、相手を見て話さなければ、よき対話者とはならないのでしょう。 私は、雨を聞くように人の話を聴き、雑踏に燻る落ち葉や屑、路面に張り付いたガム、そこを這う空気をみるように、世相を見ていることがあります。そして、それが当然だとも思っていました。そういう態度を努めることもありました。故に私はチューダバンダカ、話すに適さない者だったのだとわかりました。 人間は、相手が人に限らず、様々な事象と対話できます。だからと言って、話す人を前に、沈黙や自然と対話していては、理解に繋がらない。 ニュートンが学会に出て、黒板のチョークが落ちたのを見て、あー!!っと叫んでも、誰もその叫び、万有引力!の意味を理解できないでしょう。 伝えたいことばかりでは、伝わりきらない。そんな歌を、チューダバンダカであった頃に、作った覚えがあります。 今年の夏の、終わり頃だったかな(^^ 言っている事を理解しあうこともとても大事ですが、言わなくてもわかること、花が好きだとか、空気が気持ちいいとか、旅に出たい、とか、君が好きだとか、そういう当たり前の気持ちを、我々が既に共有している事の幸せを、感じていたいと今思いました。 釈迦の本心が、彼の引導の、何処に宿ったのか(掃除すること?それとも呪文を唱えること?それとも弟子の愚直さ?)、を考えると、そのような、全部をひっくるめた対話のよさを、もっと享受してもいいかなと思う。 哲学にとっては、挑戦以外の何者でもないが、その挑戦が、考える人に活路を与える事は、確かだろう。 レトリック的なもの、解り易さや共感を得るとは、話が道筋だとすれば、広い土地を得るようなものだから。 迷子になるって? それは、意味を見出す、余地を得たのです。
お礼
再度のご登場および面白い逸話をありがとうございました。 回答者様は、対話の重要性を説かれていますが、 私自身が回答者様の文章をちゃんと理解できているかが疑問です(^ ^; とはいえ、それほど深い意味での「理解」ではなく、 普通の日本語の問題です。 回答者様の場合、全体的に文章(論理)の飛躍がありまして、どこかスッキリしません・・・ (論理の飛躍がはらむ問題性については、 http://www.p-press.jp/correct/mailmaga_015.html や、野矢茂樹の論理についての著作を参照のこと) そのうちの幾つかについて、 以下に、 私が勝手に文章のつながりを考えてみました。 間違っていたら教えて下さいね。 まず初めのお言葉、、、 >頂いたお返事を読み、昨晩書いたものですが、 >対話が滞る心配もないと思いましたので、編集して、いまお送りいたします。 〔この文章は〕頂いたお返事を読み、昨晩書いたものですが、 〔昨日は送信しませんでした。〕 〔しかし〕 対話が滞る心配もないと思いましたので、編集して、いまお送りいたします。 >人間は、相手が人に限らず、様々な事象と対話できます。だからと言って、話す人を前に、 >沈黙や自然と対話していては、理解に繋がらない。 >ニュートンが学会に出て、黒板のチョークが落ちたのを見て、あー!!っと叫んでも、 >誰もその叫び、万有引力!の意味を理解できないでしょう。 人と話さず、沈黙して自然と対話していては、 〔その場に居合わせる相手の〕理解に繋がらない。 ニュートンが学会に出て、チョークが落ちたのを見る。 〔これは自然との対話だと言える。しかし彼がたとえ〕あー!!っと叫んでも、 誰もその叫び、〔つまり自然との対話からデカルト自身が得た〕 万有引力!の意味を理解できないでしょう。 >哲学にとっては、挑戦以外の何者でもないが、 >その挑戦が、考える人に活路を与える事は、確かだろう。 「その挑戦」=「全部をひっくるめた対話のよさを、もっと享受してもいいかなと思う」? それとも、「対話のよさ」が「レトリック」の意味であり、そのレトリックを使うことがすなわち「挑戦」という意味でしょうか? などです。 文章で何かを説明する場合には AからBへのジャンプが大きくなりすぎないように お互いに気をつけましょう。 ありがとうございました☆
補足
この場をお借りして 皆様、ありがとうございました。 11日の夜には締め切りたいと思います。 知らない文献や貴重なご意見に出会うことができ、 大変勉強になりました。 「おまえが自分で投げたものを捕らえているあいだは、 すべては手なれた技量に尽き、うるところは乏しい」 リルケ(ガダマー『真理と方法』から孫引き)
内山節著「里という思想」と言う本をご存知ですか? 先週、やっと新しいPCが届き、設定やダウンロード・サポート待ちの合間に読み終えたのですが。 本のタイトル自体が「里」と言う比喩、レトリック(私はこの言葉を隠喩や直喩の総称として使用していますが間違っていたらご指摘ください)で始まっています。 最初の「理由」と言う文章では、自分が気にいった村の何処に「理由」が有るかと問いかけ、実はその理由がはっきりとは判らないと述べ、「哲学には今、この問題が重くのしかかっているのだと私は思う。原因亡き世界が私たちのまわりに展開するとしたら、哲学はそれを、どのような方法でつかんだらよいのだろうか。」と、章を締め括ります。章全体がレトリックかな。 この著者は、哲学の表現方法についても、色々と考えていられるようで、「ねずみ」とか「木」とか「畑」との会話を紹介するのです。たとえば、「チュー太が、子供に餌場を教え、自分はお暇の挨拶に来た」と言うような意味の事を書きます。面白いですね、哲学者です(たぶん)。 難解な概念語は殆ど使わず、難解な本を読んだあとは、この著者の本で口直しをしています。 今回の「里という思想」は、正直驚きました。誰でしたか、「読書は他人の頭を使って考える事」と言ってましたが、私が感じながらも、「そうじゃない」としか言えない事を、はっきりと言葉にしてくれています。まるで、本を読みながら、自分の頭で考えているかのように。自分が考えている事を言葉にできるのも一つの能力ですね、著者には頭が下がります。 確かに、甘い所があるかもしれませんし、曖昧さも在るのかも知れません、ただ、私のような哲学嫌いには有り難い人です。 最後の言葉は 「その意味で、私は、未来を喪失させようと思う。」
お礼
とても面白そうですね。 ありがとうございました。 それではご返礼ということで・・・ 先日、「文藝春秋」12月号に塩野七生さんが 知ることと考えることについてコラムを書いていました。 立ち読みのため、細部は覚えていませんが、 だいたい次のようなことを言っていたと思います。 __________________________________ 塩野さんは現在もイタリアに住んでいるため、 日本についての情報を、リアルタイムには なかなか追うことしかできない。かといって、 インターネットはアナログ人間としては使う気にならない。 新聞も日本のはあまり買うところがないし、高いし、 ケチな人間にとっては好ましくない。 だが、月刊週刊の雑誌は定期的に送られてくる。 だから、ほぼ一週間遅れではあるが、 日本についての情報はそうして摂取している。 しかし、このような生活は悪くない。 たとえばこの間の選挙戦予想のように、 リアルタイムに多くの情報に触れているからといって、 まともな予想ができるとは限らないからだ。 一週間後に読むのに値するような記事が書ける人は せいぜい五人くらいなものだろう。 こんなことがイタリアの生活で分った。 歴史を書くことも同様である。 インターネットを駆使できる日本の史学を学ぶ大学生と インターネットを使えない自分とを比べれば、 明らかに学生の方が、得られる情報は多く集めるスピードも速い。 しかし、どちらが良く書けるだろうか? おそらく自分の方がよく書けるはずである。 ものを書くには様々な経験が必要だから。 結局、言いたいことは、 氾濫する情報から少し身を引いて、 たまには考える時間を作ろうではないか、 ということである。 __________________________ というような内容でした。 現代のショーペンハウアーといったところでしょうか(笑 「読書は他人の頭を使って考える事」 と言う場合も、だから読書だけではダメです、 ということになると思いますが、 いずれにせよ、考えることが大切なんですね。 気をつけます(汗 少し、 「未来を喪失させようと思う」 の意味も考えるべきでしょうか・・・ ありがとうございました☆
- goosuka003
- ベストアンサー率20% (23/110)
すばらしい質問!すばらしい回答!(含んでないのもアリ)…このカテにおいて近頃めずらしいスレッドと愉しませていただいております。 アインシュタインの「白い液体」ですが 結局、体験・体感の必要性を言ってるのではないのでしょうか。もっとも「相対性理論」をアインシュタインが体感していたのかと思うと妙な心持ちがしますが… GB様の御答えや、いかに! 考えてみればレトリックが通用するレベルの相手かどうかということも問われてきますよね。 日常でも経験・体験値の高低如何で話が噛み合わないことが、よく見受けられます。 さる自称哲学徒に「比喩と経験バンザイ主義者」と罵倒された我が身としてはスッキリ爽快&勉強させていただき喜んでおります。
お礼
回答者様のご回答の方が愉しいような気がしますが そう言ってくださると嬉しいです。 「比喩と経験バンザイ主義者」 は罵倒なのでしょうか? 哲学者というのは、 実は、 文学の想像力も好きな人だと思いますよ。 ありがとうございました。
そうですね、哲学に必要なのは、対話であると思います。対話できれば、理解も深まるから。 あー、もうお前とは話せねぇ、お話になんないよ、と切り捨てずに、ペースに乗りながら、対話を続けてゆけば、意味の理解に繋がるんじゃないかな。 だから考えることは、どうしたら対話が続けられるだろう、どうしたら対話が始まるだろう、そういうことだと、私は思います。
お礼
長く続けられた思想の対話といえば、 やはり『思想のドラマトゥルギー』でしょうか。 おかげさまで、久しぶりに手に取る機会となりました。 ついでなので、今回の質問と関係するところを少し引用してみますね。 「デカルトは、若い時分ジェスイット学校なんかで教えられてきて、レトリックを断乎として否定しているが、やがてだんだんとレトリックンにシャッポを脱ぐ羽目になってくる。つまり、哲学というのは、自分が探求し掘り当てた真理の言い放しではだめなわけです。 (…) 論敵から批判されたら、答えなくてはならない。それからお弟子ができると、彼らが自分の既成知識を踏まえて独り呑込みや逸脱するのを匡してやらなくてはならない。そうすると、やはり説得、パーシュエイションということが必要になってくる。」(422ページ) 「はじめデカルト主義に立脚してレトリックを排し〈証明〉だけでいいとしたアルノーたちも、結局、説得が手ごたえあるには理性だけでは駄目で、想像力へのアピールが必要だ、と変わって来ていますね。」(443ページ) そういえば、こんなこと言っていました・・・ ありがとうございました☆
- ghostbuster
- ベストアンサー率81% (422/520)
もしかしたら質問者さんはデリダ-サール論争をご存じのうえで、こういう質問を出していらっしゃるのかもしれません(デリダ-サール論争に関しては、デリダのほうが何を言っているのか、イマイチわからないので、回答できません)。 そうでしたら、的を外した回答になると思いますが、レトリックに関して、ごく基礎的な回答を試みてみます。 まず野内良三『レトリックと認識』(NHKブックス)から。 ------ 「デカルト以来の近代合理主義・客観主義の要請にレトリックは答えられなかったのだ。合理主義と経験論は万人の共有する「理性」と「感覚」にとって「明証的」なものを真理と措定した。合理主義者にとっては観念的実体が、経験論者には感覚的実体が、真理(真)として個人的な思惑とは別に、人間の主観の「外部に」客観的に存在する。この近代主義は「客観主義的実在論」と呼ぶこともできる。 真理は客観的に存在するのだから、その真理をありのままに提示すればよい。論証すれば足りるのであって、説得の必要はない。いわんや言葉を飾る必要は微塵もない。弁論術も修辞学も出る幕はないということになる。「理性」に叶うこと、それがすべてだ」 ------ ここで注目してほしいのが、「説得の必要はない」という部分です。 尼崎彬の『ことばと身体』(勁草書房)のなかに、こんなエピソードがありました。ある女性がアインシュタインに「相対性理論とはどんなものですか」と説明を求めるのです。すると、アインシュタインはこう答えた。 ----- 「昔、暑い日に目の見えない友人と田舎道を散歩していた時のことです。私がミルクを飲みたいと言いますと、友人はこうききました。 『〈ミルク〉とは何だい』 『白い液体だよ』 『液体は知ってるが、〈白い〉とは何だい』 『白鳥の羽の色だよ』 『羽は知ってるが、〈白鳥〉とは何だい』 『首の曲がってる鳥だよ』 『首は知ってるが、〈曲がってる〉とは何だい』 私は我慢ができなくなり、彼の腕を掴むと、ぐいと伸ばして『これが〈真直ぐ〉』、次に肘を曲げさせて『これが〈曲がってる〉ということだ』と言ってやると、彼は言いました。『ああ、〈ミルク〉とは何かやっとわかったよ』」 ------ このたとえ話でアインシュタインが示したのは、「どう説明してもわからない」とはどういうことか、です。それも「たとえ」を使ってさえもわからないことがあるということを。 ところがこの婦人はいったい何を理解したのでしょうか。彼女は、自分が相対性理論をなぜ理解できないのか、その理由を論理的に理解したわけではないのです。 「わからせたい」とき、つまり「説得したい」とき、定義や論証ではなく「たとえ」を使うのはわたしたちの常套手段です。それは論理的な理解ではない。 わたしたちは「理解」するのではなく、「把握」するのです。 尼崎はここで「把握されるものは概念の論理関係ではなく、関係の型であり、図式である」と言います。 さらに、言語は本来的に比喩的なものであるともいえます。わたしたちは「把握する」と言いますが、この「把握」にしても、「呑み込む」にしても、「腑に落ちる」にしてもすべて隠喩です。わたしたちは隠喩ではなく、文字通りの意味として使っている多くの言葉が、すでにレトリックであるとも言えるのです。つまり、隠喩、メタファーというのは、わたしたちの基本的なものの認識のありようのひとつである、と言えるのです。 つまり、レトリックとは、説得するための技術であるだけではなく、なぜわたしたちがレトリックによって説得されるのかを考えてみるとあきらかなように、わたしたちの認識のありかたと密接に関連しているものなのです。 近代合理主義が死亡宣告したレトリックが「技術」であったのに対して、近年注目されているレトリックとは、人間の認識のありように根ざしたものであると言うことができると思います。 ------- 「以上述べてきたことで最も大切なことは、メタファーというのは、ただ単に言語の、つまり言葉遣いの問題ではないということである。それどころか、筆者らは人間の思考過程の大部分がメタファーによって成り立っていると言いたいのである。人間の概念体系がメタファーによって構造を与えられ、規定されているというのはこの意味である。人間の概念体系のなかにメタファーが存在しているからこそ、言語表現としてのメタファーが可能なのである」(レイコフ、ジョンソン共著 『レトリックと人生』大修館書店) ------- >哲学にレトリックは必要じゃありませんか? この問いに正確に答えるためには、これからの哲学というか現代思想がどうなっていくかに関して、なんらかの展望なり予測なりが必要になってくると思いますので、とてもではないけれど、わたしの手に負えることではありません。 それでも敢えて回答を試みるならば、説得の技術としてのレトリックは、やはりアインシュタインの例にもありますように、「間違った観念をほのめかし」(ジョン・ロック)「真面目でない」もの(サール)と言えるのかもしれません。 けれども、わたしたちの認識の根底にレトリックがあるならば、やはりレトリックと哲学は切っても切れない関係にある、ということができるでしょう(という以上のことは言えません)。
お礼
GBさんから回答を頂けるとは思ってもみませんでした。 いつも拝見していましたが、このたびも有益な情報をありがとうございました。 ところで、今は時間がないので手短に・・・ >真理は客観的に存在するのだから、その真理をありのままに提示すればよい。論証すれば足りるのであって、説得の必要はない。 この二つの文章、なんとなく怪しくありませんか? まず、「真理をありのままに提示」することが果たして可能なのか。 第二に、論証の際にも少なからずレトリックが必要ではないか。 たとえば、説得性のない論証による論文ってどんな感じでしょう。 週末には時間が作れますので、 よろしければまたお願い致します。
- ZeroFight
- ベストアンサー率15% (30/189)
〈それは本当ですか? これこそレトリックじゃないですよね・・・ 『純粋理性批判』の読者も同様に想定されていたということでしょうか???〉 冗談に決まっているじゃないですか。 しかし、学生が最初の受け手だったわけですから、講義録ほどではないにせよ、論文の書き方は、学生の反応から影響を受けていたでしょう。 〈また、回答者様は、現代の日本人には難しいが、 当時のドイツ人には良く理解できた、というご意見のようですが、〉 カントが、比喩を多用して、わかりやすく書こうとしていたと言っているだけで、第三者にとって、わかりやすかったかどうかは別の問題です。 ハイデッガーの本は『カントと形而上学の問題』です。刃先という比喩の分析をしています。
お礼
>冗談に決まっているじゃないですか。 そんな回答は許されませんよ。 あの文章を読んだ人で内容を信じた人がかなりいるはずです。 虚偽はいけません。 >論文の書き方は、学生の反応から影響を受けていたでしょう。 これも虚偽です。 回答者さまの回答は、ご自分の先の回答に辻褄が合わなければならない、 という方向からの内容なので、もうそろそろ嘘を突き通せなくなってきたようですね。 非常に印象に残るところですから、読んだ方にはわかると思いますが、 『純粋理性批判』自体にも「無味乾燥な、もっぱら学究的(スコラ的)な文体で」 書いたと記されています。 >第三者にとって、わかりやすかったかどうかは別の問題です。 あれ、痛い言い訳ですね。 >ハイデッガーの本は『カントと形而上学の問題』です。刃先という比喩の分析をしています。 そうですか、私は『カントにおける比喩』といったタイトルかと思いました。 『カントと形而上学の問題』はカントの比喩を分析した本でしたっけ? それではもう一度: 哲学にレトリックは必要ですか?
補足
なぜいい加減な回答ばかりお書きになるのか不思議に思い、 これまでの回答履歴を拝見しました。 これまでもかなり、 ひとりよがり・独断的な回答をされているようですが、 もう少し正確な知識と思考力をつけた上で 回答されることをお勧めします。
- ZeroFight
- ベストアンサー率15% (30/189)
〈あるいは、ほとんどの人がそれを聞いただけで 具象的に理解できるような表現でしょうか? 違いますよね。〉 質問者は、自分にとって難解だから、カントは比喩やレトリックを 用いていないと決め付けているようですが、全く違います。 比喩やレトリックは、相手に合わせて用いるものです。 カントは、当時の哲学者と学生が理解しやすいように、比喩を用いたのであり、 200年後の日本人を想定して、書いたわけではありません。 〈比喩〉は、辞書で、こんな風に説明されています。 〈ある物事を、類似または関係する他の物事を借りて表現すること。たとえ。〉 認識のメカニズムと法律は、別の物事ですが、カントは二つの間に類似性が あると考えました。 法律を比喩にしたのは、厳密だからではなく、カントの授業に出ていた学生に 法律の勉強をしている者が多かったので、法律を比喩に用いた方が、 分かりやすくなると考えたからでしょう。 カントは、よく比喩を使う人で、ハイデッガーなんか、カントの比喩を 分析することによって、本を一冊、書いているくらいです。 プラトンも比喩をよく使い、名文家とされています。 二頭立てに馬車の比喩や洞窟の比喩なんかは有名ですよ。
お礼
>法律を比喩にしたのは、厳密だからではなく、カントの授業に出ていた学生に 法律の勉強をしている者が多かったので、法律を比喩に用いた方が、 分かりやすくなると考えたからでしょう。 それは本当ですか? これこそレトリックじゃないですよね・・・ 『純粋理性批判』の読者も同様に想定されていたということでしょうか??? また、回答者様は、現代の日本人には難しいが、 当時のドイツ人には良く理解できた、というご意見のようですが、 『純粋理性批判』は当時の知識人にもあまり理解されなかった ということと矛盾しますよね。 フィヒテですら、誤読しているという指摘を受けたほどです。 >カントは、よく比喩を使う人で、ハイデッガーなんか、カントの比喩を 分析することによって、本を一冊、書いているくらいです。 これについてはまったく知りませんでした・・・ 勉強したいと思いますので、よろしければご教授ください。 これで、知人のサラリーマンにも 説得力のある説明ができるかもしれません。 ありがとうございます。
- prusaku3
- ベストアンサー率73% (56/76)
レトリックと言うのは本来説得術です。だから 「哲学にレトリックは必要じゃありませんか?」 必要だと思います。自らの言説の理解を施し説得することが基本ですからね。 比喩、メタファーなどは現在は文体論に位置づけされていますが、たとえばメタファーは抽象的な概念を具体的に表すことができるという長所があります。ただ、ともすると論理学的にいう詭弁Sophismに陥ってしまう危険性も伴います。いわゆる「虚偽」ですよね。それと、身近なもの、常識的な事柄にたとえたりする場合、文化、時代が違う読者にはわかりにくい場合もあるでしょう。 また、文章が美文、耽美にはしることで内容を失ってしまうという危険性もあります。 カントやフィヒテは18世紀の哲学者ですが、18世紀はちょうど、レトリックが内容的な関心ではなく文章学になってしまったこととラテン語が使われなくなったことでレトリックが衰退した時代ですね。 現代盛んな、言語が対象となる科学や思想研究などにはレトリックは重要な研究対象になっていると思います。あ、ちょっと脱線しましたかね。
お礼
一文一文に確かさがある文章ですね。 虚偽ではない証拠としての 参考文献の提示や注をつけなくても 十分に信用に足るご説明だと思います。 (偉そうにすみません) 回答者様のような文章が書けるようになりたいものです・・・ やはり、「説得術」ですから、哲学にも必要ですよね。 ありがとうございました☆
- ZeroFight
- ベストアンサー率15% (30/189)
カントはくどいくらい比喩を使っていますよ。事実問題と権利問題というのも、比喩です。『実践理性批判』の最後は、比喩の傑作です。 哲学の本が難解な理由は、いくつかあります。 まず、厳密に書こうとして、いろんな飾りがくっついて、文章が回りくどくなるからです。どれが主節で、どれが従属節かを見分けながら読めば、かなり分かりやすくなります。 次に、当時の問題意識が分からないことがあります。名前を出していない場合でも、誰かに対する反論として書いている箇所が多いですが、元を知らないと、訳が分かりません。そういうことは入門書を読めば、解説してあります。 最後に、俗流マルクス主義の影響があります。戦後の日本はマルクス主義の時代が長く続いたので、哲学用語が知らず知らずの内に、俗流マルクス主義に汚染されています。専門家の間では、マルクス主義による汚染は収まっているようですが、gooのこのカテの質問や回答を見ると、汚染が続いています。マルクス主義の影響を、一度抜かないと、非常な誤解をすることになります。
お礼
ご回答ありがとうございました。 >カントはくどいくらい比喩を使っていますよ。 それは肝心な部分をわかりやすくするためのレトリックでしょうか? あるいは、ほとんどの人がそれを聞いただけで 具象的に理解できるような表現でしょうか? 違いますよね。 >事実問題と権利問題というのも、比喩です。 権利や事実というのは、もともと法律用語 だと言われています。 すなわち、比喩ではなく むしろ厳格な学問用語を使用しているものと 考えられます。 “Die Rechtslehrer, wenn sie von Befugnissen und Anmassungen reden, unterscheiden in einem Rechtshandel die Frage ueber das, was Rechtens ist (quid iuris), von der, die die Thatsache angeht (quid facti) “(Ktitik der reinen Vernunft, Meiner版では164頁以降) 簡単に言えば、 「実際には~です」 という見方と、 「いや、・・・となっているはずだ。そうでないと辻褄があわない」 というような見方があって、 仮定+必然のような意味が「権利」ということですよね。 >『実践理性批判』の最後は、比喩の傑作です。 一見、比喩のように思われますが、本当に比喩なのでしょうか? >名前を出していない場合でも、誰かに対する反論として書いている箇所が多いですが、元を知らないと、訳が分かりません。 これは同感です。当てこすりということでしょうね。 え~と、「最後に、俗流マルクス主義の影響があります。」以下の意味がまったくわかりませんでした。 質問の回答にはなっていないように感じるのは気のせいでしょうか・・・ おそらく回答としては、レトリックは必要だ、 ということになるのでしょう。 ありがとうございました☆
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お礼
>ところがおもしろいことに、このブラック自身が自説の説明に隠喩を利用している >……とここから先は、どうぞ尼崎の本をお読みください。 >実際、この哲学と隠喩のもんだいというのは、一筋縄ではいかないところがあります。 本当に、ちょっと面倒な問題のようです・・・ GBさんが引用されている初めの「序」の部分だけで、 すでにこの質問にあるすべてが含まれているような気がします。 そして、一の「たとえ」の構造の冒頭では 三角形の定義を子どもに伝える際の困難が例として挙げられますが、 そこに 「このように私たちは、自分のよく知っているはずのことを語ろうとする時でさえ、 言葉の論理的使用だけでは追いつかず、何かに喩えたり、実例をあげたりする。 いうまでもなくこれはレトリックの使用である」 という説明も見られますね。 これは読んでおかないといけない本でした(汗 ありがとうございました。 この著者の本では『日本のレトリック』というのを 5年くらい前に100円で買ったまま、 日本文学コーナーに寝かせて置いていたのがありました。 つまり、言い訳しますと、私の頭の中では、 ヨーロッパには関係ないカテゴリーに入れていたので、 まったくのノーマークでした。 今回の質問の契機は知人との会話にありますが、 その基となっているのは以前読んだブルーメンベルクです。 残念ながらデリダ-サール論争のような華々しい現象からではなく。 最近、ブルーメンベルクがよく読まれている理由の一つは、 2000年前後からブルーメンベルクの著作がいくつかまとまって 出版されていることにあると思いますが、 彼の詩学・メタファー・レトリックに関する論文も一冊にまとめられています。 その中の、 「レトリックの現代性への人間学的なアプローチ」(1971年)という論文と、 この論集の編者の「レトリックの技術―ブルーメンベルクのプロジェクト」 というあとがきの影響がこの質問の基です。 そして、その他も考えてみれば、レトリック関係では、 有名なニーチェを筆頭に、 私はヨーロッパ人の書いた著作にしか触れていなかったようです。 勉強になりました! そして再度のご回答、ありがとうございました。
補足
そうでした、本を読みながら思ったのですが、 ミルクって何? という質問を受けて、 「白い液体」 と答える人って、 そもそも説明する気がない人ですよね。 辞書のような定義ならばそれでいいかもしれませんが、 対話にならない冷たい答え方だと思いました。 つまり、これは初めから説明を放棄した答え方で、 「どう説明してもわからない」 の〈見事な例〉にはなっていないように思います。