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哲学にレトリック
サラリーマンの知人と話していて、哲学書の難しさが話題になりました。 哲学の始まりの方に位置するプラトンは、レトリックや詩を好きではなかったと思いますが、アリストテレスは弁論術や詩学を書いているように、レトリックは思考や意見を伝える際の有効かつ重要な要素でしょう。ヨーロッパにはレトリック教育の伝統もあります。 しかし、カントやフィヒテの主著においては、レトリック的要素が極めて少ないと思われます。彼らが、もう少し比喩を使ったりしてくれれば(逆に、こんな比喩使わないで、というような変な例えもどこかにありましたが)、一般に難解だと言われる哲学書もわかりやすかったのに・・・ 哲学にレトリックは必要じゃありませんか? みなさまはどう思いますか。
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論証というのはなにかというと、命題が真であることを、論理学的な手続きにのっとって照明することです。つまり、演繹か帰納ということです。 たとえば「あの山に火がある」ことを正しいかどうか論証するためには、 大前提:火のないところに煙はたたない 小前提:あの山に煙が見える 結論 :あの山に火がある という推論が必要です。 そうしてデカルトにしてもカントにしても、この三段論法で論証された推論をつなぎ合わせて結論を導いていった。 ですから、つなぎ合わせていく推論の根っこ、最初の「絶対確実な大前提」を近代の哲学は求めていった。それがデカルトのコギトであり、もう少し時代が下ると、フィヒテの「自我」になる。 この命題を論証していく際に、「事例」、あるいは直喩を使うことはできます。論理学の生みの親であるアリストテレス自身が、「事例」は豊富に使っています。 これはたとえば(ほら、これも「事例」の例です)、「黄色みを帯びた薄い青」と言っても伝わらない、そういうときに「ウグイスの色だよ」という。 あるいは昔のSFに出てくる「火星人」を、「四肢が細く頭部が肥大している」と言うより「タコのような形」と言った方がわかりやすい。 こうした「事例」は哲学の中にも豊富に出てきます。『純粋理性批判』のなかにもたくさん出てきます(ごめんなさい、いま時間がないので、本の適当な該当箇所を見つけることができません)。 ただし、「レトリック」という言い方をするときは、事例やあるいは直喩を指すのではなく、隠喩、メタファーのほうを指します。たとえばマックス・ブラックはこのように言います。 ----- 「哲学者が使った隠喩をことさらに取り上げて見せるなら、それは論理学者の原稿を『字がお上手で』と褒めるようなもので、相手を馬鹿にしているのである。隠喩を使わなければ言えないぐらいなら初めから沈黙せよという原則があり、そもそも隠喩を使いたがるほうが間違いということになっているのだ」M・ブラック「隠喩」(『ことばと身体』よりの孫引き) ----- たしかに上にあげた「火」がもし別のものの隠喩であったとしたら、論証はうまくいかないのです。論証のためには、あなたとわたしが考える「火」のカテゴリーは同じものでなくてはならない。わたしが「火」を、たとえば「女性」の隠喩で用いていたとしたら、カテゴリーがちがってくる。隠喩というのは、たえずその危険性を孕んでいるわけですね。 ところがおもしろいことに、このブラック自身が自説の説明に隠喩を利用している……とここから先は、どうぞ尼崎の本をお読みください。 実際、この哲学と隠喩のもんだいというのは、一筋縄ではいかないところがあります。
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ご無沙汰いたしております。 過日は、大変お世話になりながら、今回お約束を破ってしまい、ひと言お詫びをと、出来もしない回答を書き込んでみます。 約束を破ってしまったいいわけは、結局、自分のしたい質問をしないのならば、こんな事していても、意味が無い。と考えた次第です。 おっと、これでは削除されてしまいますから、本題です。 哲学とレトリック 私は残念ながら、哲学書の原典をドイツ語やフランス語・英語でも読めません。したがって、レトリックとか比喩と言われても、それが翻訳者の意図したものか著者自身のものかどうかが判断できません。 たとえは、「ピグマリオンのイライザ」と「マイフェアレディーのイライザ」と言った表現が混在していると、翻訳者の意図の影響が侮れませんね。 それと、私のようなものが一生懸命考えて、例えば、石を見てそれで動物を殺す事が出来る。考える事自体がレトリックと繋がっているような気がします。出来の悪い回答で、大変失礼しました。
お礼
お久しぶりです! アレから一年も経ったのですね~。 速い! ご質問は、約束云々よりも、 ご自身の探究心を優先されたということで、 なんの問題もないと思います。 私の足りない頭では、 もうあれ以上の回答はできません。 こちらこそお許しください。 ですので、今回はスルーしました(笑) ところで、 >翻訳者の意図 のことはまったく念頭にありませんでした。 しかし隠喩とか比喩と言うのは、 言葉が転義的に使用されるものですから、 語義的には翻訳という言葉と 関係ないわけではありません。 >考えること自体がレトリックと繋がっている これについては、 もうしばらく考えてみます。 もう遅いので・・・ ありがとうこざいました。 あ、一番の方に肝心なお礼を忘れていたような気が・・・お礼がないお礼というレトリックと受け取ってもらえれば幸いです m(_ _)m
補足
>考えること自体がレトリックと繋がっている の件ですが、おそらく、 言葉なしで思考できるか、 というようなたぐいの問題と関係するのかな。 レトリックも言葉のなかに含まれますので、 思考と繋がっているというのは その通りだと私も思います。
- goosuka003
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この御質問拝読して瞬間、貴Hネームをクリックしておりました。こんなことするの初めて… 「この世に酒がなくては、色恋も、またどのような楽しみも虚しいものになってしまう」 そりゃ酒飲みの意見でしょ?何にでも醤油かけないと飯が進まぬ味覚音痴みたいなもんで(レトリックしてますか?)何にでも酒ビちょびチョかけないと味が分からんのですよ酒の味しか。考えようによっては哀れです。酒飲めないやつをバカにする酒飲みがいるようですがね。(自分は飲めますが特に好きでもありません酒無しでも色恋は酩酊状態のごとく楽しめました) あ、質問の本題から逸れてしまうところでした。前置きが長くなってしまった。スミマセン。 哲学とレトリック、御質問の本意としては「哲学とメタファー」のほうが、より的確でしょうか? この問題はリーマン端くれの小生としても気にかかっていたことでして、まあ思っきし本音を言わせていただけるならば 「こちとら哲学でメシ食ってんじゃねーから! 時間ないんだよ忙しいから。けど思索しないわけじゃないし、うまい考えがあったら知りたい教えて欲しいとは思ってるよ。だけど手っ取り早くお願いね。」 こんな感じですかねえ。 もちろんズレた比喩では始末が悪いですが言い得て妙な比喩ならば、こんなに時間端折れる便利なものもないわけで。 ことばというものは同時代の同じ国に所属し生活している者どうしでも解釈の違いが多少なりあり得ますから、まして国が違う言語体系が違うともなれば…哲学に限った問題ではありませんね。ですから、そのへんのズレを極力できれば完璧に防止したうえで本題に取り掛かるべきなのでしょう。 しかしながら、その本題に取り掛かる前の事前のすり合わせに膨大な時間が取られてしまったりするんじゃないですか。 「そこんとこはイチイチ説明してくれなくていいからエキスと言うんか焦点と言うんか要点だけ聞かせてよ時間ないからさ忙しいんだよ」こういうことでしょうね。 厳格に言うなら 哲学にレトリックやメタファーは邪道もしくは無用なのでしょう。 しかし哲学思想家や専門家以外の人間には必要便利なものです。 レトリックするやつメタファーするやつは哲学やる資格ないんじゃ!と言いたい人もいるみたいですがレトリックやメタファーが哲学の目的ではないとともにレトリックやメタファーを用いる人間に哲学が不可能ということもないでしょう。 釈迦などは宗教家と言うよりも思想家の趣が強く感じられますし且つ類稀な比喩の使い手であったと伝わっているそうです。もっとも無学無教養な衆生に理解させ易くするためであったでしょうが。 比喩を侮蔑する哲学徒はだから比喩を用いなければならぬ部外者=無学無教養の輩と見下すのでしょう。 だがしかし釈迦が比喩を用いて衆生を導きながら衆生を侮蔑したでしょうか? そして侮蔑する哲学徒は釈迦を凌ぐ者でしょうか? しょせん衆生に向かって己の思想を御開陳に及びたいと欲するならば彼に衆生を侮蔑する資格はありますまい。自分や自分に似た少数の仲間内だけでやり取りするオタクに留まっていればよいことです。 だいたい逐一ことばを厳格に定義するという作業自体が膨大な時間を要するはずですから、うかうかしてると、それだけで一生終わりかねません。にもかかわらず歴史に残るような意義ある著作物を何冊もものすということは果たして彼ら自身、定義作業を実際のところ、どこまで厳格に行ったと言えるのか?このへんは天才ならではのインスピレーションと集中力によって常人の及ばぬ合理的処理を行えたものか。 本当は天才の言わんとしたところを凡庸な哲学徒が(自分たち自身が天才の発言をカン違いしないために)血眼になって定義づけようとしてるんじゃないんでしょうか。 いずれにせよ定義の作業に血眼になっている哲学徒がヒマ人に見えてしまうのは他の事で忙しい一般人には無理もないことですし「手短にお願いね」と言いたくなるのも仕方のないことです。 だからと言って哲学する資格はない、などと切り捨てなければならないほどスケールの小さい学問ではないと思います。 もの書き志望だった頃に 「虚構でもって真実を語る」ということばを耳にしたことがあるのを思い出しました。「虚構」の部分に代えて「メタファー」「物語」等という単語を当てはめてもよさそうです。 哲学が目指す目的地はどこでしょうか? 真実の地平を目指しているのは比喩を使う人間の動機だって同じこと。ただクソまじめで時間の余裕がある彼らには「メタファー」という飛行機、「レトリック」という自動車に乗る者が横着者に見えるのかもしれませんね。 だが逆から突けば飛行機も自動車も使わずテクテク歩いて辿り着いても、そこが目的の地ではなかったら何としましょう。 本当は間違いなく目的地に向けて進む方角を定めるため足元の地面を確認しながら踏みしめるために定義をはかっていたはずなのに、とんでもない場所に着いてしまった…というようなマヌケな結果に終わる事態もあり得ると思います。ことに哲学徒の衣を着たソフィストの場合においては。 私個人は或る人物の思想が直に読み下せば許容量を越える時間を要するときは比喩という名翻訳家の力を借ります。いずれ哲学書というものは本来、原著に当たるべきなのでしょうが、その言語を理解できない以上、センスある優秀な翻訳家の手になる外国文学を読もうとするのと同じことです。 それは無意味なことでしょうか? いかに原著を原文で読み下そうとも他者の思考を書物を通して読むことで知ろうとする時点で、すでに幾重にもかけられた薄絹を通して透かし見るようなものと開き直ります。 それでも何ものもつかめないかというと、そんなことはない。そうでしょ? 自分が現実にぶつかった壁の正体をトコトン考えることのほうが、りっぱな思想書を原著で読むより大事な事だってあるさ。 自分そんなふうに思います。
お礼
お礼は100字まで? 無理そうです・・・ >そりゃ酒飲みの意見でしょ? たんにワインは素晴らしいな~という言葉なので、 ここらへんを修辞的に突っ込まれても困りますが、 そういう受け取り方もあるのかと感心しました。 >御質問の本意としては「哲学とメタファー」のほうが、より的確でしょうか? たしかにメタファーもレトリックの一つの要素で最も有名かもしれませんが、 他にも、「言葉のあや(Figura)」、や「換喩(Metonymia)」という 比較的よく用いられるであろう大切な要素がありますので、 その意味でレトリックという言葉にしました。 >厳格に言うなら 哲学にレトリックやメタファーは邪道もしくは無用なのでしょう。 はい、そういう傾向があったようですね。 しかし、哲学者でも 学問を土台から建てる建物の比喩で表す人はいるのに、 なぜか肝心なところはわかりやすく伝える気がない・・・ >レトリックするやつメタファーするやつは哲学やる資格ないんじゃ! それでも、一応ニーチェは、哲学者とも見なされていますよね。 彼の場合は、レトリックを多用しすぎているため、 反対に意味がわかりませんが・・・ あ、そうみれば、 >もの書き志望だった頃に >「虚構でもって真実を語る」 >「虚構」の部分に代えて「メタファー」「物語」等という単語を当てはめてもよさそうです。 こういう観点は大変興味深いご意見です。 たしかに、どっかで読んだようなキーワードの並び方ですが。 >いずれ哲学書というものは本来、原著に当たるべきなのでしょうが、 日本語で読んでわかれば私も翻訳で十分だと思います。 ただ、日本語だとなんとなく読み進むだけで、 一語一語をよく考えずに進んでしまうことがあるだけでしょう。 仰る通り、良く考えることの方が大切なのでしょう。 それに、すべての人に哲学書を原書で読むほどまでの向上心を求める のは難しいことですよね。
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お礼
>ところがおもしろいことに、このブラック自身が自説の説明に隠喩を利用している >……とここから先は、どうぞ尼崎の本をお読みください。 >実際、この哲学と隠喩のもんだいというのは、一筋縄ではいかないところがあります。 本当に、ちょっと面倒な問題のようです・・・ GBさんが引用されている初めの「序」の部分だけで、 すでにこの質問にあるすべてが含まれているような気がします。 そして、一の「たとえ」の構造の冒頭では 三角形の定義を子どもに伝える際の困難が例として挙げられますが、 そこに 「このように私たちは、自分のよく知っているはずのことを語ろうとする時でさえ、 言葉の論理的使用だけでは追いつかず、何かに喩えたり、実例をあげたりする。 いうまでもなくこれはレトリックの使用である」 という説明も見られますね。 これは読んでおかないといけない本でした(汗 ありがとうございました。 この著者の本では『日本のレトリック』というのを 5年くらい前に100円で買ったまま、 日本文学コーナーに寝かせて置いていたのがありました。 つまり、言い訳しますと、私の頭の中では、 ヨーロッパには関係ないカテゴリーに入れていたので、 まったくのノーマークでした。 今回の質問の契機は知人との会話にありますが、 その基となっているのは以前読んだブルーメンベルクです。 残念ながらデリダ-サール論争のような華々しい現象からではなく。 最近、ブルーメンベルクがよく読まれている理由の一つは、 2000年前後からブルーメンベルクの著作がいくつかまとまって 出版されていることにあると思いますが、 彼の詩学・メタファー・レトリックに関する論文も一冊にまとめられています。 その中の、 「レトリックの現代性への人間学的なアプローチ」(1971年)という論文と、 この論集の編者の「レトリックの技術―ブルーメンベルクのプロジェクト」 というあとがきの影響がこの質問の基です。 そして、その他も考えてみれば、レトリック関係では、 有名なニーチェを筆頭に、 私はヨーロッパ人の書いた著作にしか触れていなかったようです。 勉強になりました! そして再度のご回答、ありがとうございました。
補足
そうでした、本を読みながら思ったのですが、 ミルクって何? という質問を受けて、 「白い液体」 と答える人って、 そもそも説明する気がない人ですよね。 辞書のような定義ならばそれでいいかもしれませんが、 対話にならない冷たい答え方だと思いました。 つまり、これは初めから説明を放棄した答え方で、 「どう説明してもわからない」 の〈見事な例〉にはなっていないように思います。