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義民が駆ける
いつか藤沢周平の「義民が駆ける」を読んでみたいと思うのですが、どうして(どういう思惑で)庄内藩の民草は実力行使をしてまで酒井候の長岡への転封を阻止しようとしたのでしょうか?
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庄内藩は表向きの石高より実際の収穫が多くて住民は一応満足していました。幕府は養子を各藩に押し付けていましたが、押し付けられた藩の中に賢い家臣がいて「藩換えしてくれれば受け入れる」といったわけです。 リッチなところに移れるわけだから悪い話しじゃありません。 幕府がこれを受け入れたので地元は困る人がでたわけです。 失業する家臣団(武士)、これまで儲けてきた商人(豪商)や支配体制支えてきた農民(豪農、庄屋)。 彼らがスポンサーになって農民扇動します。江戸までおぶって行った美談は許せますが、娘売って費用まかなったなんてのでは「何やってるの、違うでしょ」です。 首謀者は処罰を恐れたので文書、証拠がないのですが「大挙して請願」「殿様思いの農民」は全国に伝えられました。 地元の方ならもう少し、農民に同情的な解釈すると思います。しかし南国育ちだから昭和になっても娘売っていた北国の人が理解できません。 直接雨にぬれなければ死ぬことのなかった国では(^^)貧しいけどその手の話しはないんです。いまでも下から数えたほうが早い貧乏県です。 鹿児島(島津)などは武士の搾取収奪がきつくて豪農は育たなかったほど。
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- PENPENMAKKY
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元々は川越藩の財政破綻が原因でした。川越藩は赤字の神様で、藩財政は万年赤字でした。再建不可能な状況に陥った時、幕府に嘆願して裕福な庄内藩に転封させてもらうように工作したのです。そこで、幕府は川越を庄内に、庄内を長岡に、長岡を川越に移すことを決定します。 両藩とも200年以上に渡り転封しなかった藩で、藩政も上手くいっていました。藩主は領民に慕われていたのです。そこに降って沸いたのが転封です。長岡藩は藩士に借金の処理を命じ転封の準備に入ったのですが、庄内藩は領民が転封に反発し、直訴にまで至ったのです。 転封は将軍逝去にともない中止となりますが、領民の反発も大きかったと言われています。 最後になりますが、その領民の慕われぶりが戊辰戦争に大きく影響し、新政府は長岡攻略に甚大の損害を出し、庄内には最後まで勝てませんでした。
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御回答ありがとうございます。 酒井左衛門尉は領民に慕われていたのですね。
お礼
御回答ありがとうございます。 民草の実力行使の背景にはスポンサーがいたのですね。 人身売買については、今の感覚でモノを言う事は出来ないかもしれませんが、ちょっと理解に苦しむ事ではあります。