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俳句の「季重なり」とは?
- 季重なりは俳句で重要な要素であり、季語や季節感を表現するための技法です。
- 季重なりの扱いには意見が分かれており、初心者には避けるべきという声もありますが、上級者には見せ場となる場面もあります。
- 季重なりの使用が容認されるかどうかは場合によりますが、句集のタイトルを併記すると引用が容認されることがあります。
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こんばんは。 以下の回答は、飯田龍太氏の『俳句入門三十三講』(講談社学術文庫)を参考にしました。 飯田氏は、父君蛇笏氏とともに、「ホトトギス」の流れを汲む「雲母」を主宰していますので、まあ正統派といってよいかと思われます まず飯田氏は「昔といいますか、ついひところまで『季重なり』ということを非常に忌み嫌った。(中略)なぜいけないかという説明は一切抜きで、憲法みたいな具合にそういう断定を下しておった。ところが最近はそういうことをあまり厳しく言わなくなって、ときには一句のなかに二つも三つも季語が入っておる。またそれで成功する場合もあるんですが、しかし一応はそういうことを念頭においておいても、決してむだではないと思うんです。」(89p)といわれてます(1971年6月述)。 そのうえで、許容される場合について、「季語」とされてきたことばが、現代の感覚で、かならずしもその季節を表さなくなった場合は、他に季節を特定することばがあるのはいいのではないか、という説明をされています。 また、上記に引用した部分も含めて、そこでいわれている内容を私が忖度するに、推敲して推敲して、どうしても必要、となった場合は、可とすべきであって、要は佳句を得るかどうか、であるというようなことではないか、と思います。 また、これは飯田氏のことばではなく、私の記憶ですが、なぜ季重なりが禁忌とされてきたか、について、季語が二つ以上あるのは、その句のイメージを明瞭にしない(「弛緩する」といういい方だったと記憶しています)からだ、といわれていたのをきいたことがあります。いま出所を明示できなくて残念ですが。 俳句は、さまざまな結社があり、「無季俳句」「自由律」などもあって、なかなかに多様のようですね。 正統派といわれる飯田氏のことば(+僭越ながら私の記憶)をここでは紹介します。 ご参考になれば。
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- d-drop
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再度失礼します。 飯田龍太氏は季重なりが多いんですか!? いえ、『三十三講』でも、ご自分の句を取り上げて、季重なりに言及してらしたんで……。そこでは、「更衣」と「六月」の2語が入っている自作句で、「更衣」は、もう季節ごとにするもので、六月の季語としては、いまひとつ使えないのじゃないか、という話だったんです。 scatsさまは、短詩形式を、いろいろ作られている方なんですね。失礼しました。私は詩らしきものをなすっておりまして、俳句は、詩の練習にと思ってつくっているだけなんです。もちろん結社なぞには入っていません。句会をやってみたいなと思っています。 さて、お礼をありがとうございました。『虚子俳話録』の38pですよね。「その中のどこかに、しかと纏まった感興を捉えておればよいのです。」という……。 これは、前の私の回答と一部重なりますが、このことば、俳句だけでなく、ものを作る人が、ぜひ心得ていたい態度であると思います。 「しかと纏まった感興」、これは、私は、「イメージをしっかり持つこと」と読みました。詩を作っていても、自分の中に、書きたいイメージがありありと浮かんでいる時ほど、いいものができるように思うんです。もちろん、書いて消してを繰り返してるうちに、イメージがはっきりしてくる時もあります(全然違うものになったり)。 話は少し飛びますが、仕事柄、「企画書」というものを作るんですが、エンドユーザーの顔がひとりひとり見えるくらい、はっきりした輪郭を持った企画ほど、通りやすい気がします。またよく売れるし。 虚子は、それくらい強いイマジネーションを得たなら、俳句の決まりごとにはこだわらなくていい、と言いたかったのではないでしょうか。 もちろん、定型だからこそ、堰がある河が、水を溜めるように、「感興」を溜めることもあるでしょう。むしろ、そのために決りごとがあるのではないかと思います。 でも、やはりそれも、感興の性格によりけりで、決りごとに拘泥していては、自分の感興が表現できないとなれば、俳句も、俳句である前に詩であり、芸術作品であるからには、定型に止まることは、むしろ本末顛倒であるというように、私は理解しました。 しかしながら虚子という人、混沌ですね。『俳話録』は、俳句のみならず、言語芸術に携わる人すべてに示唆を与えてくれるようで、私も大好きなんですが、体系的に把握しようとすると、足をすくわれる。 きっと虚子は、体系をめざしながら、体系化した時にこぼれてしまうさまざまな可能性といったものを、捨てるに忍びなかったのではないかという気がします。 長くなりました。最後にお礼を申し上げなくてはなりません。実は私も、天明期の俳句は興味があり、いつか読んでみたいと思っていました。今回、scatsさまのご質問に回答をするにあたり、買ってあった資料を、ようやく繙くことができました。これ以降、せっかく挙げた腰を、また落とさないよう、せいぜい勉めていきたいと思っています。 よい機会を、ありがとうございました。
お礼
再度、ありがとうございました。 西洋のイマジズムの詩人たちは俳句の存在を知らずに(正に)俳句のイマージュで展開しておられた時期があったと聞いたことがございます。 私はガリマール書店のマラルメ・ヴァレリーの詩集やマルドロールの歌etc.を仏-仏辞典1冊とともに枕元に置いています ※<選は創作なり>といっていた虚子の、洞察するような「選」が素晴らしいですね。 平安あれ! 俳句関連で重宝させていただいておりますのは 俳句情報探索 http://www.jfast1.net/~takazawa/index.html 俳諧データベース http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/haikai.html 詩関連では 仏蘭西の詩 〔仏蘭西語〕 http://www.feelingsurfer.net/garp/poesie/index.htm http://www.la-poesia.it/stranieri/francesi/francesi-indice.htm など。
- a375
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実作者の立場から申し上げてみたいと思います。私の師系は秋元不死男(氷海)に属します。氷海は不死男他界と同時に廃刊となりおおかたは愛弟子の(狩)の鷹羽狩行に引き継がれています。このご質問に簡単にお答え出来ないのは季重なりの元になる季語と句と作者の精神の三点を無視して季重なりうんうんが意味を持たないからです。季が重なってそれがどうしたと開き直られると、べつにルールがあるわけでなし各人の俳句に対する覚悟の程とゆうほかはありません。昔からそういわれているとする立場,例えば芭蕉の有名な推敲、(ほととぎす宿借るころの藤の花)を後に(草疲れて宿かるころや藤の花)とし治定したことは余りにも有名ですがこの二重の季語による句の散文化を戒める立場(現俳壇の大部分)をとれば季語の持つ意味の深さと季感の欠如となります。しかし小さな句会で(カンナ燃ゆビールを冷やし暑気払い)などの句が高点句であっても楽しい句会であれば何等問題ないわけです。(因みに3つの季語かさなり)しかし、ここでの問題は先ほど申し上げた俳句によって自分の生て来た証として、言い換えれば俳句を(生)のアリバイとして考える立場からいいますとある意味このような極端例でなくとも季重りよりこの(カンナ燃ゆ)の方がはるかに問題なのです。ここではこのカンナは何の働きもしていません。それはカンナは咲くといつも燃えるとされる表現がくたびれ果てているからです。いわば緊張感の欠如が問題なのです。しかしこの緊張感が漲りただいま其処に生きていることに満ち溢れ人の心を揺さぶることが出来る句なら季重りであろうが何であろうが構わないのですが、不幸にして人口に膾炙する句に出会えません。それは先ほど申しあげた緊張感、,季重りによるピントボケにならざるを得ない句になるからです。も少し突っ込む込んだ言い方をしますと季語の持つ背景大げさに言えば日本人の背骨が季語に含まれているとゆう考察が足りないのです。俳句に精魂つめておられる俳人からすればごく当たり前の話になりますが、実作者の立場から言えば季重りは殆ど意味を持ちません。17文字で表現しきる作業をつずけますと季語は一つで十分すぎるのです。多くの俳人はこの季語との格闘の明け暮れと申し上げても過言でありません。大体一句の治定に30句位い作るでしょからいらぬ素材は淘汰されますので季重りの問題は生じません。私の場合季重なりがどうしても生じた場合は棄てます。俳句をはじめたてのかたに季重なりを主宰が指導しますのはある意味型から入った方が句になりやすからです。実際俳句において季重りは差ほど問題でなく季が働く、季感詩であるかどうかの方がはるかに深刻です。繰り返し申しますが季語とはいかなるものでどんな働きをするかを考えるほうが季重りの問題より重要なことです。最後に不死男の句を上げておきます。 秋風に曲げて髪結ふ肘二つ 多喜二忌や糸きりきりとハムの腕 煌々と夏場所終りまた老ゆる 母の腿踏み始めての夏送る
お礼
ありがとうございました。 流石、晦渋な世界をご展開になられますね。 私は俳句は存問の詩という考えに共鳴しておりまして、可能な限りnot晦渋なスタンスにいたいとおもいます。感謝しております。
お礼
ありがとうございました。こちらにもお答えいただいたのですね。 『飯田龍太読本』くらいしか手元にはないのですが龍太さんの句には季重なりが多く異様に感じておりました。私は俳句・短歌・都々逸・川柳・自由律俳句をつくっておりますが口語定型句は苦手、鑑賞すら拒否しておりました。ごく最近、無季の口語定型句で好きな句に出遭い「悪くない」とおもいました。 赤星水竹居著『虚子俳話録』(講談社学術文庫)に虚子の<季がかさなっていても……>という言葉があるのですが、その判断がむつかしく季重なりの句ばかり常時つくるわけにも参りません。それでこの質問をさせていただいたような次第でございます。