尾崎放哉・種田山頭火らの自由律俳句だけでなく、古い俳諧の世界にも「字余り」「字足らず」として、17文字でないものがありました。芭蕉に例を取っておきます。
やまぶきの/露菜の花の/かこち顔なるや 二十字
夕顔の/白ク夜ルの後架に/紙燭とりて 二十一字
芭蕉野分して/盥に雨を/聞く夜かな 二十字
これらの句は、単なる字余りでなく、それぞれかなり字数がオーバーしています。試しに切れそうな所に/を付けてみました。ただし、切れ方には(1)リズム上切れる箇所 (2)意味的に切れる箇所 (3)切れ字の箇所 などがあり、正調的な五、七、五 の句と比較して難しくなっています。
「やまぶきの」の句、初句は「やまぶきの露」が本当であろう。最後が八字で終わる。「夕顔の」の句、「白ク夜ルの後架に」と十字で、終は「しそくとりて」で六字。「芭蕉野分して」の句、初句は八字で切れる。
実は切れ方はあまり問題でありませんでした。二十字以上の句が芭蕉の句の中にあること、しかも複数あることが言いたかったのです。
質問者があげられた句「秋 陽は照るるも寒風で 舎に入る」はおそらく現代俳句と思いますが、一応十七文字で、2/11/4と切れます。こういう句はそう多くは見受けませんが、また芭蕉の句に例を求めます。
あけぼのや/白魚(しらうを)白き/こと一寸(いつすん)
試しに切ってみましたが、この切り方は五七五に合わせました。しかし、意味上からは「白魚白きこと/一寸」となるべきです。すなわち 5/9/3 となります。実はこのようなやり方は古くからあり、「句割れ」「句跨ぎ(跨がり)」と呼ばれてきました。これらは同じことを言っています。句割れとは「白きこと」が「白き」と「こと」に割れているということで、句跨ぎとは「白きこと」が七と五とに跨がっているということです。
「秋 陽は照るるも寒風で 舎に入る」はこういうものとは異なっています。最初からリズムを崩すつもりだったでしょう。こういう句の作り方も今日では考えられるということですね。
なお、拗音・促音・撥音・母音がある時の字数の数え方等は必要があれば、また回答いたします。
お礼
たしかに無理に入れ込みましたね。