一般的には、事故というと、
どうしても最終原因に偶然性を求めてしまうように思うのですが、
私は必然だと思っています。
原因を遡れば必ず、ある決定をを選択した(または選択しなかった)人類がおり、
それが派生的に事故につながっているという意味で。
(たとえば酒酔い運転による人身事故は、運転者の責任を問われますが、
「運転者が飲酒していた」という事が「偶然の原因」として認定されているように思います。
しかし、実際には車というものが世に出る前に、
このような可能性は当然認識されるべきだし、されていたと思うのです。)
「>起こった後で多くの解説や説明がなされ」ますが、
原因が(おっしゃる通り結果論として)一部の個人・企業、
または特定の条件にあるとする事で、
安易な責任追及や当座しのぎの改善を図ろうとするに過ぎない傾向が、
一向に改まらないのは残念に思います。
ひとつの事故(事件であっても)は、その原因(又は理由)を、
過去のある時点で誰かが正当な方法で改善しなかった、
あるいは、誤った改善(改悪)を行ったせいで派生的に
発生したものであるはずです。
その意味で、人類は(あるいは生き物は)空間的にも時間的にも連鎖的であるし、
一蓮托生といっていいでしょう。
事故(又は事件)に至るあらゆる可能性を事前に考える事は、
決して不可能ではないように思います。
(その可能性を追求する為には、あらゆる方面で限りない関門をくぐりぬける必要がありますが。)
ですから、
「>起こるまでは言葉で表現できなかった」というよりは、
「起こるまでは言葉であらわすのを恐れ、極力避けていた」
あるいは、
「起こるまでは妥協の判断」がなされていた、
というような感じがします。
お礼
ご丁寧に洞察されたことを教えていただき、ありがとうございます。問題点があるかないかが分からないままに生じる事故というのが本当の事故だと思うのですが、言葉の効用で対応できることがあるのかどうか大変興味があります。