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言葉とは所詮、観念にすぎない?
- 言葉で言い表しても、本当のことはなにも伝えられないのですか?
- 言語論なのですかね?よくわかんないですけど、誰かうまく説明してくれるかたいませんか?
- 言葉の限界はいくら説明してもあるのか、気になっています。
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質問者が選んだベストアンサー
存在そのものが「概念に過ぎ」ません。 我々が「感じ」ているのは外の存在ではなく、感受器官 表面での相互作用パターンに過ぎません。 そのうち、光や音などの情報性の高い先行感覚の刺激 パターンに対して、過去の五感の相関した経験の蓄積に 基づいて味覚や触覚といったより生理的な影響の大きな 感覚を励起させる事で「そこまで行った時の影響の予測」 =遠くの存在(空間的広がり)として認識するのです。 そうした外的意味において、グループ分けの可能な類似性 ・共通性が生じるのは、時間的な進化のプロセスにおける 系統の近さ、そうした進化の射影たる階層現象性における 原理的な共通性が潜在する事によります。 そうした“まとまり”が生じる事で、それに条件反射的に 記号を結びつけられ、言語は可能になるのです。 しかし、その根底にある「経験の蓄積」において、個人の 遺伝的特性、感覚器官の個性、生育環境の違いなどが先入 する事により、たとえば同じ「赤」でも自分が感じている ものと他人が感じているものが同じかどうかを確認する 方法はないのです。 「血の色」や「夕日の色」などと、共通性を確認しようと しても、そうした物体に基づく経験において先入する個性を 排除できない限り、違う感受をしながら「同じ色だね」と 言っている可能性は残るのです。
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 言葉が シルシであるに過ぎないことは 分かりきっています。 だから日本人は こと(事)の端と見たようですし さらには こと(言)そのものではなく やはりその言の端とさえ捉えました。 もっとも 文字通り・言葉どおりの事が事実としてあったのだと見なす精神錯乱状態も大々的に長い期間にわたって 民族の民族性によっては 起こり得るようなのですが。 ★ 言葉で言い表しても、本当のことはなにも伝えられないのですか? ☆ 問題は ひとつに人間の能力と努力とに限りがあるということ。一人ひとりの主観がそれぞれに共通の事実認識を得られるという《客観》の想定があるに過ぎないのですから。 ひとつに そのような《問い‐答える》ということは 互いに人間どうしのあいだに起こるということ。 言いかえると 問うほうも 問題になります。つまり 何が知りたいのか。これがはっきりしないなら 問うほうも 言葉の限界についてその限界を大きくしてしまっている責任を負います。 答えるほうとしては どうしても説明内容が伝わらなかったなら 知らない・分からないと答えればよいのです。 相手も問い方を変えてくるでしょう。それで じゅうぶん 人間的です。お互いさまです。 問い求めというのは 相互の意志行為である。こう開き直ってもよいのではないでしょうか。回答ロボットになる必要はありません。
お礼
ありがとうございました。
- 0fool0
- ベストアンサー率18% (134/738)
盲人へ月を教える逸話が有ります。 いくら言を尽くしても、意味が通じません。 言葉とは既に共通認識を持っている人間どうしでなければ、意味が通じません。 普通はお互いに同じものを見て、聞いて、触れられるモノですが、これらの感覚がズレていたり、無かったりすれば、認識は違う物になります。 日常生活では中々経験は出来ない事でしょうから、皆、自分の見える世界が他人にも見えていると思い込んでしまうものです。
お礼
ありがとうございました。
- dropyork
- ベストアンサー率15% (13/85)
言葉とは所詮、観念にすぎない。何を考えているのかが分かりません。 たとえば、この回答でも私が疲れていて、このようなことをしたというの記憶上の勘違いなのだとしたのならあなたは所詮、観念なのですよ。あなた自身で考えてみて御覧なさい。あなた、観念って知っているのですか。 言葉には限界があります。だから、丁寧語というものがありますし、言い回しというものがありますし、語調と言うものがありますし、顔の表情というものがあります。書物にしたっておバカが書いたものを別にすればそれを読み解くにはそれ様の知恵を持っていなければ曲解するのです。本人は知ったと思いますがね。 例えは、青信号、昔の人は緑がなかったのです。そこに緑があるのに(これも)青なのです。ごく浅いレベルです。
お礼
ありがとうございました。
- guess_manager
- ベストアンサー率33% (1175/3512)
言葉とは仰るとおり、現実を抽象化し観念でとらえたものです。 ですから、例えば言語的・文化的背景が異なればその意味するところは異なりますし、いくら丁寧にコミュニケーションを取っても伝えきれないのです。 極端な話ですが、日本人の私が「木」と言うのと、遠く離れたアフリカに住む人が「木」と言うのでは、全く意味が違うでしょう。これは、日本語と他の言語の違いではなく、翻訳することのできない文化的差異がそこにはあるからです。 言語を用いずにコミュニケーションする方法を考えればその違いは明らかです。例えば、地球の裏に住む人が、私を殺す、というコミュニケーション手段を取った場合、それは言葉も観念も存在せず、ただ直截に殺す、という非常にありふれた動物的行動の発露として、私は否応もなく受容させられることになります。そこに全く意味するところの差異は生じず、疑いもなく殺される、これが完全なコミュニケーションのあり方です。似た行為として、レイプして種つけする、なんていうのもレイプするとされる側に於いて完璧な意志の疎通が相互に行われますね。 これに比べれば、言語的コミュニケーションの不完全さは自ずと明らかになりましょう。
お礼
ありがとうございます。
- tatsuya3fd6
- ベストアンサー率38% (21/55)
どういう本に、誰が書いたかによるとは思いますが・・・。 「いくら言葉で説明しても限界がある」という言葉自体が、何を言おうとしているか・・・が問題ですね。 哲学的な本で、ある物の説明を完全にしようとすると、数限りない言葉で説明しようとしても説明しきれない、と言いたいのか、例えば、物ではなく「優しさ」とか「愛」を言葉で説明しようとしても、簡単明確には説明しきれないということなのか・・・。 あなたが抜き出された部分だけを読んでみても、質問自体がすこし理解しづらいですね。
お礼
ありがとうございます。
- yama891
- ベストアンサー率13% (191/1368)
言葉は、記号・表現・伝達力・説得性が、あれば。 但し、聞かれる方の_センスと素直な受容能力次第ですが。・・・
お礼
ありがとうございました。
お礼
ありがとうございました。