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「わたし」と「身体」
「わたし」は「身体」を所有しているのか。 「わたし」は「身体」であるのか。 「わたし」は「身体」に所有されているのか。 現在どのようなイメージをお持ちですか?
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身体と自由の関係について、 自と他を分けないと「わたし」は存在できず、また体ひとつだけで空が飛べないように、完全な自由というのはありません。人は「わたし」であり、「身体」であるから、意味的存在としての制約を受け、物理的存在としての制約を受けます。ですから、人が語ることのできる自由とは完全な自由ではなく、不自由の欠落としての自由です。人は自分の意に反することを不自由と感じ、それを取り除くことで以前よりは自由にはなります。しかし、制約は完全に消えるわけではありません。不自由というのは意に対する反発として現れるので、自由は相対的なものです。ですから、不自由がなければ自由も存在しません。 ここで疑問に思うのが、「不自由を生み出す自分の意」を捨てる自由はあるのかということです。そもそも意図していないものなので、それを自由と呼んでいいものかわかりませんが、「わたし」というもののなかに、「意を捨てる」という意が存在することも可能だと思います。この「意を捨てる意」は、前者の意(不自由を生み出す意)に対しては不自由であり、後者の意(意を捨てる意)に対しては自由です。つまり、矛盾した存在が「わたし」の中で同居します。そもそも、「わたし」が一つとも限らないし、「わたし」の意が一つとも限らないので、自由というのは玉虫色だと思います。
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- hw4183
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私のイメージですが 私は精神であり肉体であるが、肉体的我と精神的我がいつも揺らいでいる。 精神と肉体が私でありつつも、絶えずどちらかに振り子のように 振れているように思います。 主は精神的我だと確信していますが、肉体的な要求を絶って生きていける 自信はありません。ただ、要求のままだと、精神に異常をきたすので なるべくはコントロールしています。 よって、 >「わたし」は「身体」を所有しているのか 「わたし」は「身体」であるのか。 「わたし」は「身体」に所有されているのか に対しては 私は体を所有していると自覚しているがいつもではない。 私は体でもあるが私の本質とはいえない。 私は体に所有されているときもあるが、いつもではない。 となると思います。 精神(心、魂)と肉体は常にお互いが影響し合っていますので、 極端な判断、極端な行動を慎み、うまくバランスを保って 生きて行きたいと思います。(けっこう極端ですから^^;)
お礼
貴重なご意見誠にありがとうございます。 私の答えにくい質問に真剣に取り組んでいただき心より感謝いたします。 >私は精神であり肉体であるが、肉体的我と精神的我がいつも揺らいでいる。 非常に賛同いたします。 >極端な判断、極端な行動を慎み、うまくバランスを保って 生きて行きたいと思います。(けっこう極端ですから^^;) いや実は私hw4183さんの回答をいつも興味深く拝見させていただいているのですがそんな面がちょこっちょこっと顔を出しているのを発見していて親近感を抱いておりました。 私も極端なのでお気持ちが良く分るわけなんです。 どうもどうもありがとうございます。 また是非宜しくお願い申し上げます。
出遅れてしまいましたが、この件に関して少し整理してみます。 結果は失敗ですが(笑。 1)ハノーヴァーの未開の少年 狼に育てられた子供は、言葉も話せず、二本足でも歩けません。 人間らしい、理性もなく、はたして「わたし」があるのでしょうか。 これらの少年が、その後どうなつたか、資料不足ですが 2)発達心理学 生後何ヶ月の間に幼児の共感が発達するらしいです。 このためには、他者の存在や関心が必要なようです。 1)2)から、「わたし」は決して「身体」のみから、自発的に 発生するわけではなさそうです、つまり、「わたし」は「身体」 に依存すると同時に、他者にも依存していると、 考えざるを得ないのではないでしょうか。 3)ところで、「わたし」と一言で言っても 私の考える「わたし」と 他者の考える「わたし」がいます。 この二つは、全く別物でしょう、少なくとも同じじゃない。 この辺りの、溝を埋めるため、「わたし」は「身体」を拡張する。 う~む、この辺説明しにくいですね、まだ未整理。 つまり、「わたし」の中には、能力・権力・影響力等を、 お互いに評価しあっている「わたし」がいることを知っています。 4)イノベータ 経済物理学の受け売りです。まだ未整理 円ドル為替の移推グラフを、偏差値を使って分析すると 全体の5%の取引が、グラフ全体の形を決定しています。 残り、95%のグラフは、ランダムウォーク(ふらふらしてるだけ) これは、人間行動学の、イノベータ理論とよく似ています。 5%の決定者と残りは有る意味追随(真似)。 つまり、われわれは、しょっちゅう決定などしていない。 他人と同じか、少し違う程度でふらふらしているのが「わたし」 ただ、此処でも、物理学の「くりこみ理論」と 経済学での「合理的人間 (P)」への抽象化との相違が 未整理。 さらに、5%の決定がなぜ出来るかも、積み残し。 5)最後に、「身体」を考える場合は、科学が役立ちます、 ただ、物質をいくら切り刻んでも「わたし」は出て来ない。 「わたし」に付いて考えれば、「言葉」に頼らざるを得ない、 「言葉」も「お金」と同様、道具です。 「お金」には色々問題が有りますが、 「言葉」には問題はないのでしょうか、あるはずですが サッパリ判らない。 こんないい加減な回答をする「わたし」の動機も サッパリ判らない。 質問自体への回答は「沈黙」です。長文失礼。
お礼
貴重なご意見誠にありがとうございます。 私の答えにくい質問に真剣に取り組んでいただき心より感謝いたします。 少年はやはり「わたし」を持つことはできなかったようです。 そして人間が「わたし」を持つにはまず自分の身体を他者の視線として捉え、その他者にとっても皆それぞれが「わたし」であるということを理解する必要があるようです。 >私の考える「わたし」と 他者の考える「わたし」がいます。 現実社会では他者の考える「わたし」が私の考える「わたし」を制約し私は他者の考える「わたし」を演じ続けなければならず私の考える「わたし」と他者の考える「わたし」のどちらが真実の「わたし」といえるのか? >円ドル為替の移推グラフを、偏差値を使って分析すると 実は当方も私的に為替保証金取引を齧っていてたいへん興味あるところです。 >「言葉」には問題はないのでしょうか、あるはずですが サッパリ判らない。 言葉が単なる道具ではなく、この世界が言語的であろうということだとおもいますが、ここら辺は勉強したいと考えています。 >こんないい加減な回答をする「わたし」の動機も サッパリ判らない。 私はカタルシスで回答をして癒させてもらっています。 くそ暑いですが沈黙せずに少しでも積荷を降ろしていただければと思います。
- bofd
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「あなたのもの」、「わたしのもの」という一般的な意味での「所有」ではなく、ある存在がそれ自身であるために必要な優位性を基準に考えると、 「わたし」は身体を所有し、「身体」は「わたし」を所有している。 なぜなら、「わたし」なしには「身体」は存在しえないし、「身体」なしには「わたし」は存在しえないからです。ここで言う「わたし」とは、自と他を分けた時に生じる「自」であり、意味としての存在です。例えると、スクリーンに映し出された人物です。スクリーンが「身体」で、人物が「わたし(自)」です。大まかに言えば、スクリーンに映しだされた「わたし」を維持しようとする行為が「生きる」ということです。もし、「人物(わたし)」という意味的な存在がなければ、「スクリーン(身体)」は自らを維持することはできず、ただの布切れになり。逆に、「スクリーン(身体)」がなければ「人物(わたし)」は映し出されず、意味として存在することはできない。 このように、意味としての存在である「わたし」と、物理的存在である「身体」は互いに包摂関係にあると思います。
お礼
>貴重なご意見誠にありがとうございます。 こうしていろいろ考えて回答していただけると質問者冥利につきます。 ありがとうございます。 うまく比喩していただけたと思います。 >なぜなら、「わたし」なしには「身体」は存在しえないし、「身体」なしには「わたし」は存在しえないからです。 結論的には、そこに落ち着かざるを得なくて、これ以上は話が進まぬといったところだと思います。 そこでbofdさん自身は、身体に所有されているとかじんるのはどのようなときだと思われますか?
補足
質問者が一番お聞きしたかったのは身体と自由の関係についてなんですが、何方かご教示いただけませんでしょうか?
- o-sai
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「わたし」という自己を含めて「身体」であろうかと思います。 義手、義足、内臓パーツ、義眼、等々の各身体部品を代用に置き換えて、 脳のみ残せば「わたし」という自己は存続できるのか否か。 おそらく各部からの情報のフィードバックが無いので「自己」も混乱し、 正常な精神を存続できなくなるのではないかと想像します。 もしその「身体置き換え状態」が可能であるなら、 逆に脳を記憶メモリー装置に置き換えていくのも可能だと想像できます。 生まれたての「わたし」と本日の「わたし」、数十年後の「わたし」は明らかに異なりますので、 「わたし」の成長部分をどういう基準で「わたし」であると判断すべきか、難しい点ですね。
お礼
貴重なご意見誠にありがとうございます。 >「わたし」という自己を含めて「身体」であろうかと思います。 身体を精神に還元することはできない、そして 「わたし」は身体として「そんざい」している、ということだろうと思います。 >生まれたての「わたし」と本日の「わたし」、数十年後の「わたし」は明らかに異なりますので、 「わたし」の成長部分をどういう基準で「わたし」であると判断すべきか、難しい点ですね。 時間の問題は、それが物理的な出来事から構成されているとすれば、 人間の意識、知覚、記憶などの働きが関係してきますので非常に難しいところです。 たいへん貴重なご意見ありがとうございます。 またよろしくお願いいたします。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
「わたし」という一人称の認識をすること自体、 「身体」が無ければできないことなので、 「わたし」は「身体」に所有されている。 と言って良いのではないかと思います。 確かに、媒介としての「身体」を通して、 「わたし」という「意志」を発揮していると思う事もあります。 (即ち、「「わたし」は「身体」を所有している」と) ただ、「わたし」が存在するために何故、 「「わたし」という認識が必要なのか?」、 という事を考えると、 媒介としての「身体」を創造した 何らかの意志(偶然性・必然的は不問)が、 その両方の本来の所有者なのか、 とも思ったりするので、 やはり、 「「わたし」は「身体」に所有されている」 と考える方がいいかな、と思うわけです。
お礼
貴重なご意見誠にありがとうございます。 >「わたし」という一人称の認識をすること自体、 「身体」が無ければできないことなので まず重要なのは精神は脳髄に還元されるものではないと思うのです。 個人的には身体を客体と考えていますが。 (これは身体を所有するという意味ではありません)。 >媒介としての「身体」を創造した 何らかの意志(偶然性・必然的は不問)が、 その両方の本来の所有者なのか、 宇宙と存在の関係でしょうか。 人類が種を保存する為に社会は形成され、我々個人はその 社会から様々な制約や教育を受け人格を形成してゆくわけですが それが何による意志かは分りません。 ただわれわれが身体的な存在である以上 この社会的な不自由から遁れられないのは事実です。 貴重なご意見ありがとうございます。 またよろしくお願いいたします。
- kaitaradou
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解剖学的には体から脳が分離して体を改めて支配するようになっているとすれがこれを所有といえると思います。しかしこの所有権は誰からも認知されていませんから横領ではないでしょうか。一方私というのは脳の働きと関係していますから体がなければ存在できないとすれば私は体によって所有されているともいえるのではないでしょうか。こちらの所有は、体が大声で主張しませんが、所有権は公知のもののようでもあります。
お礼
貴重なご意見誠にありがとうございます。 >こちらの所有は、体が大声で主張しませんが >所有権は公知のもののようでもあります。 なるほどよく考えておられると思います。 「わたし」は客体によって束縛されている不自由なそんざい であり、逆にムンクの絵のように「解放してくれえ!」叫びたくなる気持ちにさせられます。 >所有権は公知のもののようでもあります。 我々人間は他者の視線によって規定されざるを得ません。 肉体的なコンプレックスは身体から解放されない限り 解消されることはないようです。 人間は仏様にはなり切れませんから。 どうも貴重なご意見ありがとうございます。 またよろしくお願いいたします。
身体的欲求をコントロール出来た時 ⇒「わたし」は「身体」を所有している 身体的欲求をコントロール出来なかった時 ⇒「わたし」は「身体」に所有されている
お礼
貴重なご意見誠にありがとうございます。 明快にお応えいただきました。 ありがとうございます。 私なんか心も身体もコントロールできず 毎日四苦八苦しております。 自律神経訓練法なんかも試みているのですが すぐかっとなる性格は直りそうにもありません。 いやいや私事で失礼いたしました。 貴重なご意見ありがとうございます。 またよろしくお願いいたします。
仏法では『色心』と説いています。 「色」とは色法のことで、身体を表します。 「心」とは心法のことで、人間の精神、感情をあらわします。 そして、相互に関係している状況を「不二」といい、 『色心不二』といわれています。 mineosanの質問から言えば、3つの例は全てあてはまりませ。 『わたしは「生命」と「身体」を有している。』という表現が適切ではないでしょうか。
お礼
貴重なご意見誠にありがとうございます。 >『わたしは「生命」と「身体」を有している。』 やはり今心身症が万延するのはこのバランスが 正常ではないということでしょうか。 まさに『色心不二』だと思います。 貴重なご意見ありがとうございます。 またよろしくお願いいたします。
- reira080802
- ベストアンサー率6% (18/300)
イメージですけど私は身体の中にあるような気がします。 魂だけが時代を超えて残っていって身体はどこかからの借り物のような感じでしょうか。
お礼
たいへん貴重なご意見誠にありがとうございます。 なるほど魂と身体、魂は永遠に不滅で 常に我々は肉体を仮に宿にしている。 私も昔はそんなイメージが強かったです。 どうもありがとうございます。 またよろしくお願いいたします。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
最近、大病をしてリハビリ中なんですが、「わたし」は「身体」を所有しているという感覚が理解できるようになりました。健康な時は、「わたし」は「身体」であると思っていたんですが、実際には、心(私)と身体は同じものでは無かったですね。今は、中古車と運転者の関係ですね。10代のころは、考えるより体が先でしたから「わたし」は「身体」に所有されているだったですね。健康の状態で関係は変わってきますね。そのうち中古車もエンストして使い物にならなくなれば私はどこへいくのですかね。天国とやらですかね。
お礼
貴重なご意見誠にありがとうございます。 たいへん面白いご意見だと思います。 普通は逆のように思えるのですがやはりそう簡単にくくれないところに人間性があるのだと思います。 すなわち「断定」は誤りということですね。 無常といったらいいでしょうか。 mmkyさんはたいへん卓見された方だと思います。 またよろしくお願いいたします。
お礼
貴重なご意見誠にありがとうございます。 私の答えにくい質問に真剣に取り組んでいただき心より感謝いたします。 後半部分は、人間精神の両義性を表現されているのだと私は解釈いたしました。 これは無意識とも関連性があると思われます。 そもそも人間が身体を持つということ自体両義的なのですが。 どうもありがとうございます。 また次回も宜しくお願いいたします。