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山月記の主人公(虎になった男)は狂人?
中島 敦の「山月記」です。 国語の授業での先生の説明だそうです。 「虎になる=理性を失った状態の比喩」という解釈なのかもしれませんが、なんか寂しい解釈で釈然としません。 私は「本当に虎になってしまう」と思っていたのですが、たしかに、人が虎になるはずはないですね。 文学研究的にいうと「徐々に狂気に侵食されていく人格のお話」というのが通説なのでしょうか?
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現実に、虎になってしまう、という変身譚と、狂気というか、求める社会に受け入れられない心のありようとが二重写しになっているわけです。 だから人が虎になる話でもあるわけです。 >人が虎になるはずはないですね ということをいいだすと、文学というものは記録文学しか成立しなくなります。 とりわけ幻想文学なんかはそういう表現で書きたいものがある、という点で成立しているので、その現実性をいいだせばはじめからありえない。そのありえない話を(場合によってはたしかに妄想かもしれないが)生き生きと書くことによって「文学的仮構」として成立させているわけです。 そこにあるのはたしかに現実そのものではありませんが、しかしより深い真実である、ということができる場合もある、ということではないかしら?
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- Mock_Hatter
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もうすでに皆さんが回答されていますように、「狂気」という、一見合理的な解釈はおかしい。私が高校生だった時分(今から二十年以上前ですが)には、授業では「虎になった」ということが前提になっていましたし、むしろ「なぜ虎になってしまったのか」という点を解釈しようとしていました。 これは#1の方も書かれているように下敷きになった話があるからです。 それで、ここからが本題です。 #1の方の挙げられた「人虎伝」ですが、読んでみたいと書かれていましたので。 岩波文庫の『唐宋伝奇集』に翻訳が収められています。短いし、読みやすいですよ。
お礼
お礼がおそくなってごめんなさい。 虎になってしまうほどの、心の経緯を読み取り感じ取る、良い授業だったことでしょう。個人的には学校で読むには辛すぎる内容だと思いますけど。泣いてしまいそうです^^; 訳本の紹介、ありがとうございます。読んでみます。 ありがとうございました。
論理的に真であるもの、例えば、私は私である、(1)+(1)=(2)である、 これらのものは自由を奪う権力的なものであって、「真理はそもそも自由であり誤謬が隷属状態であると考えるべきではない」とフーコーが言っていますように、 哲学的分析、論理学的真理から離れたところ、不合理、不条理にこそ文学の可能性が見出されるのではないか。 われわれ個人個人が自由に解釈できるところに文学の醍醐味があると私は考えております。
お礼
自由に解釈してこそ味わえるのに、学校では「正解」を教えなければならないから、ややこしくなるんですね。 きっと、国語の先生は「狂人になったのですね」以外のことも話されたのだろうと思います。そう思いたいです。 ありがとうございました。
- toko0503
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こんにちは この小説は、詩人になり損ねて虎になった哀れな男の物語で、 カフカの変身同様「変身譚」の一つとしても有名です。 なので、私も質問者さん同様、実際、主人公の李徴は 虎になったと思いますよ。 この小説は、中国の「人虎伝」が原本ですよね。 それにも「ただ行の神祇(じんぎ)に負(そむ)けるを以て、一旦(いったん)化して異獣となった」とあります。 李徴は中島敦自身の自己投影と言われていますね。
お礼
そうですよね、ほんとに虎になってしまうんでないと、あの深い哀しみと慟哭が伝わらないですよね。 原本があるのですね。難しそうですが現代語訳があれば読んでみたい気がします。 ありがとうございました。
お礼
妻を捨てたあたりで、「この頃から少しづつ気が狂い始めていたんですねぇ」と先生が説明した、という子供の話を聞いて、ものすごく脱力しました。なんかもう、「やめてくれよ」と言う感じで。あの胸の張り裂けるような哀しみを単に「狂気」で片づけられてはたまりません。 単に科学的、論理的に分析するだけでは、文学や芸術にこめられた「真実」を味わうことはできませんよね。 ありがとうございました。