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魏志倭人伝? 三国志?

なぜ卑弥呼のことが書かれている書物が「三国志」ではなく、「魏志倭人伝」と教科書に載っているのでしょうか? もとは中国の正史「三国志」の中の「魏志(魏書)東夷伝」の「倭人の条」なのだから、「三国志」でも良いと思うのです。 学校の先生に聞いた胡散臭い話でもいいので、お願いします

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  • pyon1956
  • ベストアンサー率35% (484/1350)
回答No.5

まず、東夷伝には「序」があります。つまり東夷全体についての序の部分があり、これは特異な事です。これは三国志がその成立状況から序文がないのと対照的です。つまるところ陳壽自身がこの部分を特別扱いしています。というのもそれまでの史書には倭人の条項はありましたが、直接中国の都まで貢献してきたのははじめてのことであり、それが陳壽の仕える西晋朝とその前の魏朝の正統性を示すという考えがあったからだと思います。 また倭人伝と呼ぶのは不当とまでは言えないのではないかしらん?そもそも条とかかいてないし・・・・第一、東夷伝とも書いてないのですが。正確を期するなら烏丸鮮卑東夷伝なんですが。ということで慣用的には倭人伝でも問題ないと思います。事実そういう構成の写本もあるようですし。 で、倭人伝が独立しているのは別の問題です。実は教科書によくのっている「倭人伝」の写本のもとは日本にあるのはその部分だけなのです。 これは歴史学界の事情でしょうね。つまり三国志の研究は東洋史のなわばり、倭人伝、邪馬壹国(三国志の写本はすべてこれ)の研究は日本史の古代史のなわばり、という問題。で、この写本の倭人伝部分だけ、送ってもらったそうです(中国から。もちろん写真を、で、原本じゃありません) まあそういう事情なんで研究も倭人伝のみの専門、三国志全体についてはよく知らない体の研究者が多いようですから。

noname#13738
質問者

お礼

わかりやすい説明ありがとうございます。 おかげで納得できました

その他の回答 (5)

  • tkr1977
  • ベストアンサー率20% (80/395)
回答No.6

こんにちわ。 私も「三国志」でも構わないと思ってました。 んで、高校の世界史のテストで「魏志倭人伝」じゃなく試しに「三国志」って書いてみたところ、○をくれました。 大学入試の記述問題でも○をもらえるんじゃないでしょうか。

noname#13738
質問者

お礼

テストで○をもらえましたか。 私が(随分前ですが)やった時は×でした。 抗議したのですが「受験でそれをやったら確実に×だぞ」と言われました。 回答ありがとうございました

  • yamikuro3
  • ベストアンサー率17% (92/523)
回答No.4

自信はありませんが、下記のような理由を思いつきました。 1・単に「三国志」といった場合、「三国志演義」との混同が避けがたく発生する。 2・「魏志倭人伝」の記述はほんのわずかである上に傍流のそのまた傍流の記録である為、学問としては絞り込むのは当然。 「三国志」と云った場合非常に膨大な情報量となる為、結局「魏志倭人伝」と教える方がイメージが湧き、理解しやすくなる。 3・昔から邪馬台国論争が盛んであった為、「魏志倭人伝」がひとり歩きし有名になってしまった。

noname#13738
質問者

お礼

>「魏志倭人伝」がひとり歩きし有名になってしまった というのには考えが及びませんでした。 回答ありがとうございました

  • caesar-x
  • ベストアンサー率48% (101/208)
回答No.3

ま、間違いではないですが、晋の陳寿撰の三国志は、魏・呉・蜀の三部構成からなる全65巻の大著で、魏志と通称で呼ばれる魏書だけでも、本紀4巻が列伝26巻もあり、そのなかで倭国が登場するのはたった一冊の一項の一条、30巻の東夷伝・倭人のところだけです。 比重が65分の1以下では、三国志のなかというにはあまり漠然としています。 それで日本では魏志倭人伝のなかにあると、具体的に言う事になっているのです。 それとこれは日本古代史に関する”最古の史料”なので、特別な存在であるということも重要でしょう。 だから漠然と三国志のなかのどこかでは困るわけです。 ちなみに記述というのは  倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす。旧(もと)百余国。漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十国。  郡より倭に至るには、海岸に循(したが)って水行し、韓国を歴(へ)て、乍(あるい)は南し乍(あるい)は東し、その北岸狗邪韓国に到る七千余里。始めて一海を度(わた)る千余里、対馬国に至る。その大官を卑狗(ひこ)といい、副を卑奴母離(ひなもり)という。居る所絶島、方四百余里ばかり。土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿の径の如し。千余戸あり。良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴(してき)す。また南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)という。一大(支)国に至る。官をまた卑狗といい、副を卑奴母離という。方三百里ばかり。竹木・叢林多く、三千ばかりの家あり。やや田地あり、田を耕せどもなお食するに足らず、また南北に市糴す。  また一海を渡る千余里、末盧国に至る。四千余戸あり。山海に浜(そ)うて居る。草木茂盛し、行くに前人を見ず。好んで魚鰒(ぎよふく)を捕え、水深浅となく、皆沈没してこれを取る。東南陸行五百里にして、伊都国に到る。官を爾支といい、副を泄謨觚(せもこ)・柄渠觚(へくこ)という。千余戸あり。世々王あるも、皆女王国に統属す。郡使の往来常に駐(とど)まる所なり。東南奴国に至る百里。官をシ馬觚(しまこ)といい、副を卑奴母離という。二万余戸あり。東行不弥国に至る百里。官を多模といい、副を卑奴母離という。千余戸あり。  南、投馬国に至る水行二十日。官を弥弥(みみ)といい、副を弥弥那利という。五万余戸ばかり。南、邪馬壱(台)国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。官に伊支馬あり、次を弥馬升といい、次を弥馬獲支といい(中略)  その国、本また男子を以て王となし、住(とど)まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼(ひみこ)という。鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿(ふせい)なく、男弟あり、佐(たす)けて国を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。(下略)                         〈岩波文庫〉 このくらいの文章です。

noname#13738
質問者

お礼

確かに正史「三国志」のあれだけの分量の中で数ページというのは漠然としていますね でも「魏志倭人伝」と「三国志」の関係についてちょっとくらい触れてくれてもいいのではないかと思い質問しました 回答ありがとうございました

  • yu--ki
  • ベストアンサー率28% (18/64)
回答No.2

三国志とは、後漢末から起こった三国の争いを後に編集した物語でして、 「魏志(魏書)東夷伝」はその中の「魏」で起こった一つの出来事として記されています。 ですので、決して魏志東夷伝の詳しい内容が三国志としての中に 織り込まれているわけではありません。 なので三国志では出てこないのだと思います。

noname#13738
質問者

お礼

「三国志」からすると思い切り傍流なのでそうかもしれませんね。 回答ありがとうございました

  • acacia7
  • ベストアンサー率26% (381/1447)
回答No.1

超適当な推論。 いわゆる三国志には「正史 三国志」と 歴史小説の「三国志演義」があり、 普通に「三国志」というと「三国志演義」を指すため・・ ではないかなぁ。 なんておもったりして。

noname#13738
質問者

お礼

案外これが一番の理由かもしれませんね。 三国志演義を知っていても、正史三国志の存在を知らない人がいるそうですから。 回答ありがとうございました

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