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邪馬台国について
前々から思ってた事ですが、 「邪馬台国」は「やまたいこく」と呼ぶのではなく 「やまと(大和)の国」=大和政権、 「卑弥呼」は「ひみこ」ではなく、漢文的に「ひめ(姫)と呼ばれていた」 =女帝の1人とは考えられないのでしょうか? 「魏志倭人伝」で地理や年代の記述が合わないと言われてますが、 中国はまだ三国騒乱の時代で、どこまで辺境の日本の事を 構っていられたか分りませんし、 当時の中国人にとって行った事もない日本の地理が どこまで正確だったのかも分りません。 邪馬台国がその後の大和政権に繋がったと考えるのはナンセンスなのでしょうか?
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- reflector
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つーか、その前に削除されてしまった。 >これはまず非常識です。歴史学としては絶対にありえない。 >「竹内文書」。先ずこれがデタラメ。 >日本に文字がもたらされたのは少なくとも古墳時代。 宮内庁てきな発言ですか? 階段状ピラミッドが日本国内に二基あります。どちらも土砂で覆われており目視で確認するしか方法がない事を理解してください。 エジプトのピラミッドに象形文字が描かれていました。 当然、日本にも同じものがあると思われます。 武内宿禰さんは、これから生まれてくる若者です。 武内宿禰さんと子孫(一族)が書き残したのが「竹内文書」です。 一度、竹内文書を回収する予定です。 まー、国内の考古学が今までどれだけ捏造を続けていたのかを問い正す作業から始めないと真実が見えません。 >ましてやピラミッドが東アジアにあるなどとは考古学の分野でも問題になどされてもいない。 日本人には関心が無いので、世界では有名な話です。 特に、富士高天原王朝を基とする場所は、宗教圏では聖地エルサレムなので目に鱗です。 エルサレムの所在地は説明できませんので、もう一基のピラミッドの所在地なら教えられます。 猿田彦と磐長姫の時代、静岡県伊東市の西に位置する大室山に階段状ピラミッドが隠されています。 地上高450m超の巨大ピラミッドです。 中国の我侭は聞き飽きた。
- TANUHACHI
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♯10の見解 >可能性はありそうです。 竹内文書で日向族が帰国後、背後から滅ぼしたと書かれていますので、侵略者集団の可能性は濃い。 泰の始皇帝は、日本人が祖先と記述されており、中国吉林省に位置するピラミッドは日本人(=ユダヤ民族)が残した遺跡となります。 高天原は、「富士」が省略され、正確に「富士高天原王朝」が正規になります。 富士高天原王朝は、旧約聖書では北イスラエル王国と表記されています。 これはまず非常識です。歴史学としては絶対にありえない。「竹内文書」。先ずこれがデタラメ。日本に文字がもたらされたのは少なくとも古墳時代。それも銅鏡や銅剣の銘文として刻印の形で記されたモノが最初。その後「文」の形でもたらされたものが「千字文」。国内で文字として記されたものの最古が法隆寺の「百萬塔陀羅尼経」と言われる。 ましてやピラミッドが東アジアにあるなどとは考古学の分野でも問題になどされてもいない。この回答者の論旨の背景にあるものは、「記紀神話+旧約聖書のつまみ食い」であり、こうした姿を学問的には「プロクルーステースの寝床」と比喩される。都合の良い部分を貼り合わせて歪な形で論証する(論証とも言えない遊び事)。 >当時の中国人にとって行った事もない日本の地理どこまで正確だったのかも分りません。そこまでの文化がないようです。今の中国の歴史は、約百年足らずの歴史。歴史を語るには未熟です。台湾へ移住した人達なら歴史を語る資格があります。 今の中国を対象とする議論ではありません。妄想と偏見(イデオロギー)は慎みましょう。質問種趣旨とかけ離れています。
補足
すいません学者レベルの議論は他でお願いします。
- reflector
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>邪馬台国がその後の大和政権に繋がったと考えるのはナンセンスなのでしょうか? 可能性はありそうです。 竹内文書で日向族が帰国後、背後から滅ぼしたと書かれていますので、侵略者集団の可能性は濃い。 泰の始皇帝は、日本人が祖先と記述されており、中国吉林省に位置するピラミッドは日本人(=ユダヤ民族)が残した遺跡となります。 高天原は、「富士」が省略され、正確に「富士高天原王朝」が正規になります。 富士高天原王朝は、旧約聖書では北イスラエル王国と表記されています。 >当時の中国人にとって行った事もない日本の地理どこまで正確だったのかも分りません。 そこまでの文化がないようです。 今の中国の歴史は、約百年足らずの歴史。歴史を語るには未熟です。 台湾へ移住した人達なら歴史を語る資格があります。 邪馬台国は、王朝と表記されていませんので、賊の集団の可能性があり。 九州北部か四国周辺、兵庫周辺が有力地です。
- TANUHACHI
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邪馬台国が畿内にあったとの畿内説がある一方で未だ九州説もあることは確かです。 大和平野の西南部にある桜井市近辺に箸墓古墳がありますが、これが卑弥呼の墓であるとの見解もあることも確かです。 ただこの邪馬台国問題が歴史学の見地からみた時、極論すれば「畿内と九州の何れの地域にあっても大した問題ではない」とのことであって「それがあった」との事実だけが求められます。考古学の方からすれば大問題なのでしょうけれども、それがヤマト王権や古代国家の形成にどの様に影響していたかだけが問題です。 魏志倭人伝の記述どおりに道を辿れば、行き着く先は海の上になってしまいますし、方角を読み替えることが果たしてその史料が持つ意図を正確に読み解くことにつながるかは甚だ疑問の残るところです。 この問題が持つ複雑性は一つの文献史料しかないとの思い込みが作用している感が否めません。その以前の漢書ではどのような記載がなされ、されがなぜその様になされているのかなどとの文献史学としての関連性をはじめ三角縁神獣鏡が初めて日本にもたらされたのが何時であるのか、などとの問題もあります。国内でそのレプリカが作られたならば、その製造技術を伝えた人間がいることになり、当時の中国大陸と日本との交渉がどのような関係にあったかも考慮されねばならない。 かつては卑弥呼を神功皇后に比定する見解もありましたが、神功皇后自体に関しても記紀に記されている記述をそのままに信頼するわけにもいきません。 魏志倭人伝にはマツラ国・クヌ国などの表記も見られることからそれが「小国家群の存在」を示すとは言われていますが、それがそのままヤマト王権につながるとの根拠も不明です。一つの共同体がクニと呼ばれる組織体へと移行する過程を明確に論証できている地域は世界史のなかでもごく僅かです。 とはいえ一つの可能性として「邪馬台国」が「ヤマト王権」になりえたとの可能性を積極的に否定するものでも肯定できるだけの根拠もありません、というのが現状です。 一つだけ気になるのは「中国はまだ三国騒乱の時代で、どこまで辺境の日本の事を構っていられたか分りません」との部分で、文化度としての先進国が日本よりも中国であったことだけは確かです(当時の日本には文字すらありません。また度量衡もありません)。
お礼
お答え頂いて申し訳ありませんが、 文章が長い上に難しすぎます。 学者レベルではなく庶民的なレベルのお話でお願いします。
- rabirabi88
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一番の問題は魏志倭人伝がかなりうそ臭い、そこらの港町で噂や伝聞を寄せ集めただけじゃなかろうか、という疑いがぬぐえないところじゃないかな? まあ、邪馬台国という大きな国が日本列島に存在したってだけで、他は全て妄想の産物。 妄想を膨らませ、日本の神話にぶち込むと、邪馬台国は九州にあって、神武天皇が東征を行い中つ国、つまり列島の中央たる近畿を支配した、そして和、大和と名乗ったって、妄想してみます。 考古学で、石器やら土器の年代やら言っていますが発見されてないだけ、または破壊されただけと考えればOK 神道の主神が天照という女性だったのもポイントですね。
お礼
例えば日本が他国の歴史の記録を正確に、しかも先入観無しに書けるか、 と考えれば多分無理でしょうね。どの国でも同じです。 しかもカタコトの中国語とカタコトの日本語で通訳し合ってたはずなので 翻訳自体間違ってたのかも知れない。 どちらにせよ畿内と九州にそれぞれ強大な勢力があったという事実以外は 何がどれだけ正確だったのか分かりませんよね。 邪馬台国も本当に邪馬台国だったのか。 間違って違う国に行ったかも知れないし。
- あずき なな(@azuki-7)
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当時 日本には複数の国があった そのなかのいくつかに邪馬台国と旬奴国があって親交があったということです 当然両国に それを統治する王がいて 邪馬台国は卑弥呼 旬奴国は しんぎわおう でした もしかしたら 魏志倭人伝にある記述は 旬奴国へ行った事の記述とも考えられます
お礼
どっちかが魏ではなく呉に行ったって事はないでしょうかね(苦笑)。
- あずき なな(@azuki-7)
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2つの国家が存在した可能性はあります…が 卑弥呼が皇族なら 邪馬台国が都であけばいいわけですが 当時 天皇が邪馬台国にいたという記述はありません 卑弥呼は占いで政治を行っていたらしいので 巫女的な存在で 当時の王や豪族もその力を信仰していた可能性はあります
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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すみません。 回答ではありませんが、関心がある素人ですので訪問したこと足あとです。 玄人の場合は根拠を以って、比定するのでしょうが、素人の私はやはり昔から邪馬台国や卑弥呼などについて感じと思いつきで何かと比定していました。 専門の方々がご回答下さり、たいへん啓明した思いです・ 数年前、23区の一つの自治体でもこの質問に関連したことを取り上げた、シニア向けの連続講座がありました。 そのとき、講師の学芸員は邪馬台国と卑弥呼のことにも敷衍的に触れていましたが、当時、邪馬台国と記述されて外国の古い文献で伝えられるような、国というか、地域集団は各地に数百あったと考えるのが適当である。 だから類似の考古的発掘もいろいろありうるであろう。 などと見解を述べていました。 何かを答えてなくて、問題のままなので、素人の私は不満で否定したい気持ちでした。 しかしそうなら仕方ないと思いなおしています。 九州で漢委奴国王印が出土したとか、それは贋物だとかあるそうですね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%A7%94%E5%A5%B4%E5%9B%BD%E7%8E%8B%E5%8D%B0 学芸員の考え方だと、何も贋物としなくてもいいことになるし、畿内説でも九州説でもいいことになってしまいますね。 以上、ご参考までに。
お礼
スイマセン専門的過ぎて難しくて分りません。
- あずき なな(@azuki-7)
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追加です 邪馬台国の位置を確定的にさせるには 卑弥呼がもらったとされる「かんのわのなのこくおう」の金印の出土が不可欠です 邪馬台国と親交があった 句奴国(くなこく)の王がもらった「しんぎわおう」の金印は承知の通り 九州の志賀島から発見されています… 邪馬台国と くなこくの親交度合いがどれほどのものだったのかにもよりますが…
お礼
じゃあ交友のあった句奴国の方が日本の王という事になりますが それじゃ邪馬台国は?こっちの方が臣下?
- あずき なな(@azuki-7)
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まぁ 卑弥呼の墓が機内にあるので(箸墓古墳) 邪馬台国は近畿にあったんでしょう しかし卑弥呼は女帝ではない事は系図を見ればわかります 弟が天皇だったので皇族ではあったようですが ただ 邪馬台国が=大和政権に繋がったかというと やや?です 卑弥呼が死んだとされて 伊予(トヨなどともいいますが)が後をつぎますがそのご邪馬台国は全く何の文献にも登場しません しかし大和政権のことは同時平行的に文献には出てきます つまり邪馬台国と大和政権は全くの別物です 発音が似ているので 結び付けられた感はありますが それに邪馬台国は いわゆる都市国家と考えていいでしょうが ならその場所はのちの何処だったのか? 奈良なのか?継体帝が都とした桜井市か? いずれにせよ 卑弥呼が皇族なら 邪馬台国がその後の政権における都と考えるのが自然です
お礼
まあ卑弥呼が女帝でなくとも男の王の補佐役(摂政?)だった 可能性はありますね。 そもそも卑弥呼は間違いなく王だったのかどうか。 もし別モノだとすれば奈良の桜井という小さな地域に 邪馬台国と大和政権の2つの国家が存在したという事になりますが 普通に考えてありえますかね? クーデターとか起こって別の国家になったっていう可能性は 考えられますけどね。
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補足
議論が質問と関係無い方向に行っている様なので ここで締め切らせていただきます。