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魏志倭人伝の情報源は?
- 「魏志倭人伝」(「魏書」東夷伝倭人の条)の情報源は中国人である可能性が高いです。周辺諸国を含む地理志を書く行為は未開の倭人には理解不能であり、詳細な内容を倭人が中国語で記載することも難しいと考えられます。また、朝鮮語を仲介して倭人が情報提供したという説にも疑問があります。
- 倭人の使節が現地の事情まで詳しく報告する必要があるとは考えにくく、中国人調査員が現地に派遣されて観察した可能性があります。また、倭国には中国と共通の度量衡があったか、測量技術があったかについても疑問が残ります。
- 倭国の特異な風俗や生物相についての記述も中国人の視点から書かれている可能性があります。倭人の使節がこれほど詳細な知識を持っているとは考えにくく、中国人調査員が観察した結果を報告したものと推測されます。
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前回の質問もそうですが、まじめなのか不真面目なのか分からない。 魏志倭人伝に、魏からの使いが2回ほどあったことが書かれています。なぜ無視? 魏志倭人伝は三国志という中国の史書に書かれているものです。当然、中国人が書いたものです。なぜ日本人云々という話にしようとするのか?(中国人の魏使に同行させられた朝鮮の人が記録を書いた可能性はありますが) まじめに回答するならば、上記のとおり2度の魏使があり、その報告書が一番の資料。また、狗邪韓国から對馬国一大国を経て末廬国までの南北市糴と書かれているところは、これらの国(国々)について書かれた別の資料があったと想像される。ちなみに對馬国・一大国・末廬国は、同じ人が治める今風に言えば同じ国、つまり2国のやり取りの資料。 しかし(三国志の著者の)陳寿はこれらではなく、誰かが『その2回の報告書と2国の資料をまとめたもの』を資料としたと予想される。 なぜそう予想されるかというと、ちょっと面倒なのですが、2回の魏使以外の資料として2国のやり取りの資料が想定されるのは、末廬国までの国々の様子が詳しく書いてあるにも係わらず伊都国からはそれが無い、国々の様子である程度長く居ないと書けないようなこと(良田がない云々)が書かれていて、魏使として通過しただけで書けないと思われることが書かれているため。 陳寿がそれら一次資料ではなく”誰か”がまとめたものを見た(この”誰か”は、郡の役人と想像)というのは、魏志倭人伝の文中に『文身(入墨)の風習は會稽と同じ(と思える)』とか『道里を計ると、まさに會稽・東冶の東(のようだ)』とか、非常に個人的な想像が書かれているのだけれど、(陳寿が書いた)他の部分から陳寿がそのような個人的な想像は書くことは少なく、むしろ資料を元のまま残そうとしている姿勢で書いている(これは後漢書と対比すると良く分かります)ことなどから予想されます。 蛇足ですが、里程の記述などに付いては、個人的には以下のように考えています。 個々の国々の里程 →張政(二度目の魏使)の資料 萬二千餘里 →梯儁(一度目の魏使)の資料 水行十曰陸行一月 →倭人が邪馬台国から郡に行くのにかかる日にち(距離) なお、前回の”漢字”に関する疑問ですが、当時は”漢字”を覚えても読むものがないですし、自分だけが読み書きできても相手がいなければ、伝えたいことも伝えられず意味がありません。結局、仏典という、読みたいと思わせるものが来てはじめて漢字を習得する意味が見出せたわけです。小学生のころ、あなたも漢字を覚えるのに大変な苦労をしたと思いますが、習得しても実がないものには誰も苦労などしたくないのです。
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- eroero4649
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あのね、現代の感覚で考え過ぎです。確かに1970年にHTMLでウェブページを作れといったら何のことだかさっぱり分からんといわれるでしょうが、自分自身をまず1970年の人だったらどういう生活だっただろうか、というところから見ないといけませんよ。 そもそも邪馬台国が魏に対して「正式の使者」を送ったのが238年です。それに対して、魏志倭人伝が成立したのが290年くらいといわれています。もうここで50年のズレがあります。つまり、魏志倭人伝は邪馬台国の使者の来訪を受けて慌てて作られたのではなくて、現代でいうなら「魏国外交白書」なんですよ。外務省の報告書なら、様々な資料を集めてそれを編纂するのは当たり前のことじゃないですか。「倭国の広さってこのくらい」とか「邪馬台国ってここにあるらしい」とか「その風俗はこんなものらしい」っていう様々な情報を集めて魏志倭人伝というレポートにしたのです。 考えてみれば当たり前のことですが、使節の来訪というのはいってみれば外務大臣が相手国を訪問して首相と会うようなものです。アポなしでいきなり来るわけがないですよね。使節を送りたいという打診がそれなりのルートからあって、それに対して返事があって初めて正式な使節団派遣となります。魏の皇帝は邪馬台国の使節団に対してお土産を持たせていますが、そういうのだって事前にある程度は準備しなきゃいけません。当然「外国の使節団を畏れ多くも皇帝陛下に謁見させる」となったら受け入れ側も関係各所の手回しってのは必要ですから、「皇帝陛下に会わせるに相応しい相手か」「なぜ会わせる必要があるか」ってのも必要ですよね。東京の大手企業の会社社長にどこかの地方の中小企業の社長を会せるときは、少なくとも社長室長に「相手の会社はどこにあるどんな会社です」というのは伝えなければなりません。 邪馬台国のWikipediaを見れば、使節団派遣以前から、帯方郡の太守と倭国(邪馬台国)との間で接触があったことが分かります。当たり前ですよね。仙台支社の支社長が青森県の中小企業の社長と接点を持っていたようなものです。 当然その支社を通じて「倭国ちゅうところにある会社が本社の社長と会いたいといってるですが・・・」みたいな話にはなっているでしょうし、そのときに本社側からは「倭国ってなんなん?」「どこにあるん?」「どんなやつらなん?」という質問はあったでしょうし、支社は報告も送ったでしょう。 そういう報告書やら、使節団が来訪したときに聞いたこと、あと邪馬台国は魏に貢物として奴隷を贈ったのですが、それは他に贈り物に相応しいものが何もなかった(人口が少ない当時は人間というものそのものに価値がありました)わけですが、贈り物なわけですから、粗相があってはならない。まず途中で死なないように肉体頑健な者が選ばれたでしょうし、頭のいい人も混じっていたでしょう。くどいですが、贈答品にポンコツを贈るやつはいません。当然その奴隷から話も聞いたでしょうし、奴隷も新しい社会で生きていかなければならないので言葉も覚えたでしょう。言葉なんて、本人に才能とやる気があれば教科書がなくても自然に覚えます。フィリピンには観光地で日本語をペラペラと喋る少年がいるそうで、どこで日本語を習ったのかと聞いたら観光客から教わって覚えたなんて話はよくあります。どこかに日系ブラジル人が多く住む町があって、そこの八百屋のオッチャンもポルトガル語をペラペラと喋るんですよね。 そういう中で、その倭人の誰もが牛や馬を見て「こんな生き物見たことないよ」といえば「ああ、倭国には牛や馬がいないんだな」となるでしょうし、他にも虎や豹や羊に関しても同じ情報が得られたのでしょう。「科学者は、証明されるまで言い切ってはいけない」というのは近代西洋科学の考え方ですよ。誰も見たことがないという複数の資料があったから「牛や馬はいない」と言い切ったのでしょう。 もし調査団を派遣したなら、「〇〇という者が倭国を訪れた」とどこかに記録を残すと思いますよ。様々な情報を編纂したわけですからね。 いうなれば、マルコ・ポーロの東方見聞録のジパングに関する記述と同じってことですよ。マルコ・ポーロ自身は日本に訪れてはおらず、見聞した情報をまとめて記述したわけですからね。そのマルコ・ポーロも「宮殿や民家は黄金でできている」と言い切っちゃったわけですから。
お礼
詳しいお答えをありがとうございました。前の方のお礼にも書きましたが,「酒席での馬鹿話」にあるような面白い応答も楽しく拝読いたしました。 ぼくも著者が「一発書き下ろし」で倭人伝を書いたとは思っていません。中国人のことですから,いろいろな資料を並べたと思います。ぼくの疑問は,「支社報告」の奇妙さ,ないし情報ソースです。「体に入れ墨をして素潜り漁をする」などは,文化人類学の関心がない人間にはできない記述だと思うのですね。外交にも無関係の事象でしょう。「牛がいない」は,「じゃあ,ジャイアントパンダのかわりに安上がりのウシを贈ろうか」という判断に使えるかもしれません(じっさい,朝鮮からはカササギをもらっています)。 倭国から贈られた奴隷が情報源というのは,面白いです。前にぼくが冗談で書いた「元祖ジョン万次郎」に近いかもしれません。
- teppou
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「魏志倭人伝」の文中に、中国から倭国に使者を送ったと言う記述があったように記憶しています。 「倭人伝」中の里程記述は当時の実際の記録でのはずです。 中国の国内記録に、近隣諸国までの里程や地誌、国情を記録しておくと言う意味は、朝貢を受けいたたからには、朝貢国に一旦事あるときは、軍隊を派遣しなければならないからです。 軍隊を派遣するのに最も重要な情報は、旅程日数です。その日数分の食料などを用意しなければならないからです。 時代が下って、豊臣秀吉の朝鮮出兵の折、中国(明)が出兵したのも、同様の状況からです。 「倭人伝」の当時も、中国の使者(実際は小軍隊と考えられていると記憶しています)は、倭国内のかなりの部分をその目で検分したのでしょう。(あるいは複数の人が手分けして見たか)
お礼
さっそくのお答えありがとうございました。 中国からも使者をよこしていた記載はありますが,専門的な「学術調査団」でないと記載できない知見が多いと,ぼくは感じるのですね。古代史では常識的な質問をしてしまったかもしれませんが,小軍隊ですか。思い出すのは,日本が太平洋戦争に敗戦した直後から,米軍は急いで航空機で日本全土の空中写真を撮影しました。日本統治のためです。ぼく個人は,「軍隊に守られた学術調査団説」を主張したいところです(笑)。 「朝貢国に一旦事あるときは、軍隊を派遣しなければならない」。これも日米安保条約と置き換えると,よくわかりますね。しかし,そういう重要な記述のわりには,邪馬台国論争を起こすような曖昧な旅程が書いてあるのはどうも腑に落ちません。
お礼
詳しいお答えをありがとうございました。不真面目といわれればその通りで,「同僚の歴史学者との酒席での馬鹿話」ふうではあります。そういう「じつは中学時代から不思議なんだけどさ」という素朴な疑問に,半ばあきれつつきあっていただける回答者を求めていたのです。この読者も,けっこう楽しんでいると思います。 間違いなく文献学的なお答えもいただくだろうと思っていました。ぼくの疑問は,前の質疑応答でちょっと論点がぶれてしまいましたが,「妙に詳しい情報は誰がもらたしたのか」ということでした。お書きのように「ある程度長く居ないと書けないようなこと(良田がない云々)が書かれていて、魏使として通過しただけで書けないと思われることが書かれている」ので,倭人自身が情報をもたらしたか,専門的知識を持つ中国人がちゃんと調査したかでないと,「やたらと詳しすぎる」記載を説明できないのではないかという疑問がぼくにはありました。倭人伝の成立についてご教示いただき感謝いたします。 漢字習得については,中国の強烈な文字文化に触れても「紙になにやら図形を書いて情報伝達できるらしい」と倭人が悟らず(少なくとも政治の場で)普及させなかったのは,ぼくの中では疑問として残ります。明治期にあれだけ熱心に欧米の言語や近代科学を学んだことと比較して。