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ギリシアにおける「驚き」について
ギリシアにおける「驚き」についてどのような内容を考察し、理解すれば良いのか困っています。 (考察のすべき内容を下記に一部記載します。) 哲学が驚きに始まると語った最初の人は,周知のとおりプラトンである。彼はその後期の対話篇『テアイテトス』の中で,ソクラテスをして次のように言わしめている。 驚きの心こそ,知恵を愛し求める者の心なのだ。 つまり,愛知(philosophia哲学)の始まりはこれよりほかにない。 (プラトン『テアイテトス』155D) これは,「知識とは何か」というこの対話篇の主題をめぐって提出される様々な見方に、若きテアイテトスが「驚き怪しみ(thaumazo)「目がくらむ」と言ったことへの、応答であった。 と書かれています。哲学初心者としては、「驚き」をどのように理解したら良いのか全体像が掴めていません。哲学に精通していらっしゃる方のご意見、ご回答宜しくお願い致します。
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- mmky
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回答No.1
参考程度に プラトン先生ぐらいになるとその「驚き」というのは、おそらく西田先生のおっしゃる「絶対矛盾的自己同一的世界」を観た、あるいは体感したときの驚きなんでしょうね。誰でもが見ることができ、理解できる程度の知識のものを驚きといっているのではないように思います。仏教では「摩訶不思議観」の理解ぐらいでないと智慧の驚きにはならないですね。そんな感じかなと。