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ソクラテスのダイモニオン信仰とユダヤの一神教の関係
- ソクラテスのダイモニオン信仰と、ユダヤの一神教の関係について教えてください。
- ソクラテスのダイモニオン信仰とユダヤの一神教の関係について、詳細な情報を教えてください。
- ソクラテスのダイモニオン信仰とユダヤの一神教の関係について、古代ギリシャ哲学との関連や影響などを教えてください。
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No.1です。 ▼ (新約聖書:使徒言行録/ 17章 19‐25) ~~~~~~ 19: そこで、彼ら(=アテナイのエピクロス派やストア派の幾人かの哲学者)はパウロをアレオパゴスに連れて行き、こう言った。「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。 20: 奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ。」 ・・・ 22: パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。 23: 道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。 24: 世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。 25: また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。 ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ということですから 《知られざる神》というのが わたしの言葉で《非知》なる神だと見ます。それと同じ内容で アテナイの人びとが・そして もしそうだとするならば ソクラテスもが 神をいだいていたのかも知れません。――はっきりとは分からないと思います。 印象で言うとすれば 《ダイモーン》は 信仰なる非思考の庭にかかわる《ヒラメキ直観(インスピレーション)》と・そして感性の原野なる《直感》との両方につながっているように思われます。ソクラテス自身が明確にはしていないのではないでしょうか? * そのむかし アブラハムは信仰を与えられたあと その長子のイサクをいけにえに捧げよという神の声を聞いたよう思った。ここから かれの悩みも苦しみも始まります。 百歳ほどになってやっとさづかった独り息子(非嫡男は もうひとりいます)を失うことになるのですから 並大抵の苦悩ではなかったでしょう。 朦朧とした頭の中からやっとつかみ得た結論は 《ひとは 他人にしても自己にしても 人をころしはしないものである》でした。 その後モーセのとき――モーセも個人としては アブラハムと同じようにこの信仰を得ていたのですが―― 民衆のあいだの秩序をどうするか・そして特には 奴隷状態に落ち入ったエジプトから同じ同胞を抜け出させるためにそのまとまりをどう作ればよいか。これに際して 信仰から得た観想を 思想として表明することにしました。 なんぢ ころすなかれ。むさぼるなかれ。・・・ つまり オシエです。律法と呼ばれます。 オシエがオシエであるにとどまる限りでは まだそれは単に思想であるだけですが このオシエを絶対に守るべき命題であるとするときには オシエ〔や教祖や教団組織〕を おかしなことに《信じる》という奇妙奇天烈な振る舞いとその慣行化が出来てきます。 これが シュウキョウの始まりです。信仰なる蝉の抜け殻です。いちおう《蝉》の恰好はしています。 地上における神の代理人を名乗る場合――ローマ法王(?)――も現われました。この人間またはその発言に絶対的に従わざるを得ないといった悪夢の世界が繰り広げられます。 ★ (No.1補足欄) ヌケガラのほうの、具体的な展開について ☆ いろいろありましょうが 基本は こういう問題点が歴史に現われたことにあると考えます。どうでしょう。 ずれていますか? 《信仰の成果》の宗教化 これに与する人たちは 《非知》としての知=それゆえにむしろ《無知の知》 をないがしろにし 《既知や未知やあるいは不可知》といった経験事象を重んじるようになった。つまりこの場合は思想(オシエ)を後生大事にするようになったのだと思います。そういう意味では 議論はソクラテスともつながっているように思われます。
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No.2です 補足を頂戴しました。 追加のご質問がありましたので、説明させていただきます。 >思想論としての説明とは、思想の内容そのものを検討するということでしょうか? >さしつかえなければ、思想論としてのアプローチを教えていただけますか。 内容という言葉が極めて曖昧といいますか多岐にわたる概念を含んでいますので、ご希望とは若干ズレた説明になるかと思います。 当初のご質問のように二つの思想について議論する場合 〇一つの思想が他の思想の影響を受けているのか否か 〇その思想が現れた時代よりも前の時代の思想の延長線上のものか否か 〇前の時代の思想とは全く異なる思想なのか否か 〇各々の時代の人々の考え方を要約集大成したものなのか否か という観点から議論していくのが思想論側からの議論となります。 この為には、使われている片言隻語に拘るのではなく、その思想の骨格と言いますか、原点は何かということを読み取る必要があります。 この辺のことにつきましてはよく「全編の底流に流れている思想(価値観)」というような言い方がされます。 オーケストラになぞらえて重層低音などという言い方をする人もいます。 取っ掛かりとしては、何について書かれているのか、あるいは著者が何に興味や関心を持っているのか、ということを読み取るようにされるのが宜しいでしょう。 簡単に言えば、全体を要約して簡潔に表現して第三者に伝えることができるかどうかということを考えながら読み取っていかれることをお勧めします。 この為には、同じ問題と言いますか、同種の事柄を扱った書籍を複数読む必要が出てきます。 逆に言いますと、複数の書籍を読んでいれば、自ずとこの文章は同じような考え方に基づいて書かれている、ということが把握できるようになります。 これには片言隻語に拘らずに乱読するという手法があります。 後は何時の時代の何処の国(地方)の人で、どのような社会的地位の人かなどで整理すれば、自ずと比較して議論ができるようになります。 蛇足 ソクラテスはダイモニオンを信仰していた訳ではありません。 ダイモニオンというのは神託とか啓示と呼ばれるもので、現代では宗教体験と表現されている精神的状況のことです。 これは人類共通のもので、仏教などでは頓悟と表現されて非常に大切にされています。 インドのヨーガなどもこの宗教体験を得るための手法です。 コーランもマホメットが受けたとされる神託を整理要約したものがもととなっています。 日本の新興宗教である天理教も教祖が受けたとされる神託がもとになっています。 wikipediaでも以下のような説明がされています ソクラテスは時折「ダイモニオン」(超自然的・神的な合図・徴(しるし))を受け取ることがあったという。そして、それが彼の考えや行動の重要な指針にもなっている。彼によると、それは幼年時代からあらわれるようになった、一種の声(幻聴)であり、常に何事かを諫止・禁止する形であらわれ、何かを薦める形ではあらわれない。なお、こういったことを放言していたことが、「国家の信ずる神々を信ぜずして他の新しき神霊(ダイモニア)を信ずる」といった訴状の内容にも影響を与えたと考えられる。 この説明とは別な観点からのものとして下記のサイトがあります。 ソクラテスのダイモニオンと理性(ロゴス) - 龍谷大学学術機関リポジトリ repo.lib.ryukoku.ac.jp/jspui/bitstream/10519/725/1/r-tt-rn_0... 旧約聖書にご興味をお持ちのようですので、是非下記の書籍をお読みになられることをお薦めします。 バベルの謎 ヤハウエストの冒険 長谷川三千子 中公新書 旧約聖書を作りあげた人々がどのような考え方をしていたのかということを詳細に検討しています。
お礼
ご回答ありがとうございました。 思想論的な考え方について理解できました。 「重層低音」という言葉を目にしたことはありましたが、その意図されるところを理解しました。 思想史的に議論する際にももちろんそうなのでしょうが、やはり多くの書籍にあたる必要を感じました。 その分野での情報量がとぼしいため、片言隻語にふりまわされることにもなるのだと考えます。 >ダイモニオンというのは神託とか啓示と呼ばれるもので、現代では宗教体験と表現されている精神的状況のことです。 ソクラテスがダイモニオンを「信仰している」と表現することで、ソクラテスを告発したひとたちと同様の誤解を、自分がしていたのではないかと思いました。 たしかに、悟りや神秘体験のような、経験を信仰する、とは言いませんね。 それは、他人からみたら、そういう経験にもとづいて行動するようなひとを、「新奇な鬼神を信仰している」ふうに見えるのかもしれません。 >ソクラテスは時折「ダイモニオン」(超自然的・神的な合図・徴(しるし))を受け取る ダイモニオン「を」受け取る、とありますね。おっしゃるとおりです。 ソクラテス訴状内容のひとつについて、自分なりの理解が得られました。 おもわぬ「蛇足」に感謝いたします。 回答とは自分にとって未知のことであるのに、その未知のことをなにか予測しながら質問を発する、という作業をつづけていて、自分の言葉の使い方や理解の度合いが、そのまま回答となって帰ってくるので、よりよく質問するためには、言葉を磨く作業が必要だと感じました。 表題の質問について、現在の私が望みうる限りの回答を、これでいただけたと思います。 ご紹介の書籍を注文いたしました。 これからまた、書籍を乱読しながら、自分の疑問を鍛え上げていきたいと思います。 ありがとうございました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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補足要求をいただきました。 ★ (No.3補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 「《信仰の成果》の宗教化 これに与する人たちは 《非知》としての知=それゆえにむしろ《無知の知》 をないがしろにし 《既知や未知やあるいは不可知》といった経験事象を重んじるようになった。」 この、「ないがしろにする」ということの歴史の中での実際が、ソクラテスやイエスの裁判をめぐる一連の記録だと考えてもよいでしょうか。 ひとが、思想=オシエを後生大事にする(ようになった)のは、どうしてであるか、という風な疑問がうまれましたが、なにかお考えはありますか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 自分で振っておきながらですが むつかしいですね。 (1) ソクラテスとイエスの裁判は かなり違いがあるように思います。 (2) ソクラテスは まづ当時賢人とされていたソフィストたちと対話をおこない かれらが自分の無知に対して無自覚であると知らせてしまった。このことによって反感を買っていたと思われます。 そこで ▼ (ヰキぺ:ソクラテス) ~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%86%E3%82%B9 「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」などの罪状で公開裁判にかけられることになった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ようですが ソクラテスの胸の中では 次の事態に対する責任を問われたことがいちばん大きくこたえたのではないかと考えられます。《弟子》だと見なされた者たちがやったことだとは言え 負い目を感じたのではないかと。 ▼ ペロポネソス戦争で講和を破って戦争を再開した挙句、敵国スパルタに亡命し、アテナイの敗北を招いたアルキビアデスや、その後の三十人政権の指導者となったクリティアスなどが、ソクラテスに教えを施された弟子であったとみなされていたことも、ソクラテスを非難する絶好の口実となった。 (3) イエスの場合は まづ確かに神の冒涜という点で罪状が同じようです。 ▲ (ヰキぺ:キリストの裁判) ~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E8%A3%81%E5%88%A4 § 2 カヤパによる裁判 ・・・〔大祭司〕カヤパはイエスに「神の子キリスト」であるかどうかという質問をした。イエスはそれに対して、自らが権威をもって人間を裁くために天から地上に戻ってくる神であることを意味する答えをした。 それを、聞いたカヤパは自分の衣を引き裂いて、イエスが神を冒涜したことを宣言した。そして、それをサンヘドリンの議員全員が聞いていたので、冒涜を立証する証人が必要なく、すぐに判決を下すように求めた。議員は一致して、死刑に相当すると答えた。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そして この罪状は――ローマ総督ピラトにとっては また別の意味があったようですが(つまり イエスは無罪だと判断したようですが)―― ユダヤ人たちにとっては 額面どおりの内容であったのだと思われます。 (4) ということは どういうことか? こちらの場合は そのまま《〈非知〉の知》をないがしろにした。非知に対して無知となっていた。 つまり 《わたしのほかに神があってはならない》というモーセの律法に文字通り忠実に従った高等法院の長老たちは 《発言》として《人間が神の子である》と言ったことに反発した。つまりは 思想=オシエを後生大事にするというナラハシがすでに身に着いていて 非知なる神を人間のおこなう思考や想像の中に閉じ込めるかたちとなっていた。イエスは それに違反したと人びとは考えた。 (5) では ★ ひとが、思想=オシエを後生大事にする(ようになった)のは、どうしてであるか ☆ むつかしいですね。 (6) モーセがこの思想=オシエとしての律法を持ち出した(または 神によって与えられた)のは 基本的に社会の秩序と人びとの団結のためだと考えられます。 法律は 遅かれ早かれ・また成文法でなくても慣習法や判例集なる不文法としてでも 社会にあって人びとによって取り決められるようになると見られます。《文》化ですね。不文としてもナラハシとしての定めが持たれます。 (7) 文化は 人びとが言わばあたまを耕した成果でしょうし 文明は 互いに市民として接し合い共生するという人間性の発露であると言ってもよいのでしょう。 (8) ここから一気に《われ考える ゆえにわれあり》に飛んでは 短絡すぎますか? 人びとは知識の有る無しに・つまり物知りに弱いのでしょうか? (9) と言っても 問題は 知識の有無によりは判断力にあるでしょうし もともとアウグスティヌスが 《われあやまつ(または欺かれる)ならば われあり( Si fallor, sum. )》と言ったところから デカルトは先ほどの命題をみちびき出して来たのではあるようです。 (10) あやまつならば われに還る。わたしはもとの(自然本性の素直な)わたしに立ち還る。また そのアヤマチについて原因をさぐりその情況についても認識しておこうとする。つまり 《われ考える》。――こういう意味から コギトはみちびかれたと言います。 ひとつの手掛かりを捉えようとしてみました。 おそらくもともとこのご質問は 主題が大きく論点も幅広い分野にかかわっているようです。 わたしを含めてここでの参加者は 質問者さんの問題点や探究の方向にしたがって対処して行くものと思います。
お礼
ご回答ありがとうございました。 前者の質問につきまして、ソクラテスとイエスの裁判は、単純に同様のものであるとみなせないこと、納得ゆきました。 ソクラテスは、かなり「俗」なひとですね。 後者の質問は、わたしのもともとの質問の範囲を超えてしまっていて、いただいたご回答の中からうまれたものでしたが、ぼんやりと関心のようなものを払っていた内容で、この機会になにか手がかりをつかめないかと、思い切って質問させていただきました。 いただいたご回答からも、この質問は、人が言葉を使い始めたり文字を用いだしたりした頃だとか、定住して都市のような場所に集団生活を始めた頃だとか、人間の太古の記憶にかかわるテーマじゃないかと考えさせられました。 オシエのほうをむしろ大事にするからこそ、人間は人間らしいような気もするし、言葉や文字を使い始めた時点で、そういう倒錯した状況は運命づけられているような気もします。ヌケガラに価値をみつけるのは、ヒトぐらいのものかもしれません。 デカルト=アウグスティヌスは、とても洗練されていますね。 「非知」としての神およびヌケガラとしての宗教についてのお考えから、大変刺激をいただきました。 もともとの質問内容について、これ以上掘り下げた問いを発することはできません。 知りたいと思っていたことについて、みなさまから十二分に満足のゆく回答をいただきました。 ここで質問を打ち切り、次の探求へと歩を進めたいと思います。 すばらしい勉強ができました。ありがとうございました。
思想史での相互影響の議論というのはおそろしくややこしくなります。 簡便化として多少時系列的に考えてみます。 >それとも、古代ギリシア哲学のほうが、ユダヤ教のテキストのような神の概念に影響されているということでしょうか。 時系列的にどちらが古いかということを考えますと、 ユダヤ教なるものを信仰したユダヤ人の方がギリシャ人と呼ばれる人よりも古いであろうと考え有られています。 チグリス・ユーフタティス川流域で文明を生み出した人々の中から、ヤハウエなる神を共通の神とする集団が分離独立していったのがユダヤ人すなわち古代イスラエル人と考えられています。 このヤハウエを信仰する人達の教義をまとめたものが現在旧約聖書と呼ばれるものです。 旧約聖書も現在の形に整えられる前は幾つかのものに分かれていたようです。 第13回 「旧約聖書の成立と構造」 jhcs2.org/_src/sc26/hukuin13.pdf この中でご指摘の創世記はすくなくても、ソクラテスが生まれる前には出来上がっていたと考えられています。 ソクラテスが旧約聖書を読む機会があったかどうかということになります。 旧約聖書がヘブライ語からギリシャ語に翻訳されたのはソクラテスよりも少し後の時代だとされています。 まぁ~ギリシャは交易都市国家でしたから、読まないまでも話としては聞いていたかもしれません。 ヤハウエの神の概念に先立つものとしてはいわゆるゾロアスター教と呼ばれるものがあります。 別名拝火教と呼ばれるように、火すなわち光を非常に大切にした信仰です。 ここで注意をしなくてはならないのは一神教という考え方です。 一神教にも大きく分けて二つの考え方があります。 一つは多くの神の存在を認めてその中の一人の神を崇拝する考え方です。 もう一つが他の神の存在は認めずにたった一人の神のみが存在するという考え方です。 前者はギリシャの神々やゾロアスター教の考え方です。 唯一絶対神というのが後世のイダヤ教やキリスト教、イスラム教などです。 大枠で見ますと共通部分を持っているということです。 ゾロアスター教 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/ゾロアスター教 ザラスシュトラ - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/ザラスシュトラ ギリシャと言いますのは、交易を主体としていましたから結果として多民族による混血国家でした 当然ゾロアスター教の考え方も入り込んでいたでしょう。 以上からしますと光を崇高なものと考える考え方はソクラテスも旧約聖書も共通の基盤を持っていたと考えられます。 ソクラテスと旧約聖書が相互に影響したというよりも、共通の基盤の影響を受けていたと考える方が自然ではないのかと考えます。 >ソクラテスのダイモーンとユダヤ・キリスト教の「神」の関係について 先にも書きましたが一神教としての考え方の違いです。 どちらも一人の神を想定していますが、ソクラテスは他の神の存在も認めていたのに対してユダヤ教やキリスト教は先鋭化して他の神の存在を否定しています。 ローマ時代以降は尊崇はしないものの土着の神の存在は受け入れるようになりました。 現在のキリスト教でも天使や妖精やサンタクロースなどを抵抗なく受け入れています。 この結果三位一体論(父と子と聖霊)などというややこしい議論が出て来て未だに決着していません。 ギリシア神話 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/ギリシア神話 旧約聖書を議論する際に面倒なのは、欧米の考古学が聖書の記述を史実として証明するために発達したということが挙げられます。 考古学上の発見に対して、多くの議論が旧約聖書に書かれているや部族名や事象と短絡的に比定してしまいます。 場合によっては論拠として旧約聖書を持ち出すことも多々あります。 Wikipediaの説明にもこの傾向が強いので注意して下さい。 思想史を議論する際に提唱者の潜在意識の形成過程だけではなく、その思想が後世まで受け継がれてきた社会的な価値観も同時に考慮する必要があります。 その時代になぜ考え出され、何故受け入れられたのか、という点も考慮しませんと議論が迷走してしまいます。 よく似た片言隻句や考えが書かれているからと言って直ちに直接的な影響があったと看做しますと誤解を生じることが多々ありますので注意して下さい。 思想論としての説明ではなかったので的外れで分かり難かったかと思います。補足で追加質問をお願いします。 なお、旧約聖書の宗教的解釈は御容赦願います。
お礼
ご回答ありがとうございました。 >ソクラテスと旧約聖書が相互に影響したというよりも、共通の基盤の影響を受けていたと考える方が自然ではないのかと考えます。 私にとって真っ暗闇である、古代思想の点と点をむすぶ、一筋の光をみつけたように思い、表題のような質問をいたしました。 類似した点と点を因果でむすびつけることよりほかに目のいかなかったわたしに、「共通の基盤」を示していただいたことは、ひとつ次元の上昇した認識を得られたように感じます。 思想史について話をする際の大変よい勉強になりました。 ゾロアスター教について調べる過程で、よい研究ノートにであうことができました。 古代思想は何処へ行ったのかhttp://journal.seijo.ac.jp/gslit/student/europe/pdf/eur-020-01.pdf 旧約聖書の成立について、またその取り扱いの注意が必要であることも勉強になりました。 「多くの神の存在を認めてその中の一人の神を崇拝する考え方」こういう一神教もあるのだな、とはじめて知らされました。 私が質問したときに期待していた以上の回答をいただくことができました。 それだけでベストアンサー認定いたしたいのですが、もうお一方、貴重な回答を下さっておられて、そちらにお返事もうしあげた後に、決定いたしたく存じます。
補足
ご回答くださりましてありがとうございました。 質問の仕方にも悩むため、お返事に時間がかかってしまい、間が悪くなってしまいます。すみません。 いただいたご回答が思想史的な説明であったことは理解いたしましたが、 思想論としての説明とは、思想の内容そのものを検討するということでしょうか? わたしの発することのできる質問が、およそ思想史的な問いかけ方や発想法より他でないために、思想史的なお返事をいただく結果になっているのだと考えました。 さしつかえなければ、思想論としてのアプローチを教えていただけますか。 現代の思想や文化の根本であるような、ソクラテスの思想や創世記の記述の中に、共通して「人間のためにもろもろ便宜をつくしてくださった神」という、人間にとってある種都合のいいような発想がみられたことに対する驚きが、今回の質問の初期衝動にあります。 よろしくおねがいいたします。 ソクラテスの信仰していた「神」って、いったいどういう存在なのだ?という疑問http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11135289591から発して、現在ここへいたっております。 (この場をお借りいたしまして。上記知恵袋にて回答くださった方。お礼のコメントをつける前に締め切られてしまいました。お返事遅くてもうしわけありません。この場でお礼申し上げます。)
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 間接的な回答になります。 《神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てなる〕宗教についての一般理論》をしるします。ここから ソクラテスあるいは旧約や新約の神について判断してみてください。 ○ (神とは《非知》のことである) ~~~~~~~ 経験事象 可知 既知 未知 不可知(知り得ないと人間が知り得た) 非経験の場(因果関係を超えていると想定) 非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない) ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~ 信じる:《非思考の庭》:ヒラメキ直観 ---------------------- 考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教 感じる:《感性の原野》:知覚;直感 ○ (信仰は 《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~ A. ブラフマニズム:梵我一如 梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神 我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)(*) 無梵:空・シューニャター・ゼロ 無我:アン‐アートマン;ニルワーナ C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)(*) 仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来) / マハーワイローチャナ(大日如来) 仏:如来蔵・ブッダター(仏性) D. クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 E. (プラトン?):霊霊一如 霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ) 霊:《われ》 F. 《もののあはれを知る》 霊:かみ(自然および超自然) 霊:われ(自然本性) * 無神論と有神論:《非知》を――なぜなら 因果関係を超えているゆえ それが有るとも無いとも人間には規定できないので 好きにどちらかをえらべばよいから――《無い神》としてえらんだ結果の信仰が 無神論である。《有る神》として非知を受け取る有神論と それはまったく対等で同じ信仰である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《ソクラテスのダイモーン》は はっきりしませんね。本人にとっては この梵我一如なる類型におけるやはり梵神ブラフマンであるのでしょうね。プラトンの場合に重なるのかどうなのか。 なおこのように区分し捉える視点は 聖書に伝えるキリスト・イエスの指し示した神およびその信仰のもとに得られた世界認識であるとうったえます。 なおシュウキョウは 信仰のもたらしたヒラメキ直観の内容をオシエとして展開しこれを――あろうことか(なぜならオシエは思想であって考えるものであるのに)――信じなさいと言い張る精神錯乱から打ち出されたウゴキです。信仰という蝉の抜け殻です。 ヤハヱ―と呼ばれるユダヤイズムの神は ユダヤという一民族のための神であるという側面がつよいものです。閉じられている。イエスはこれを開いた。旧約の時代としては世界は民族ごとにまとまって――いまでも隣りの国をまるで鬼か邪であるかのようにあやまって扱うことにかけては強固にまとまっている国もあります――生活していたという実際問題だったのでしょう。 ツッコミを歓迎します。
お礼
ありがとうございます。明快な区分ですっきりと理解できます。
補足
どちらかというと、ヌケガラのほうの、具体的な展開についてのお話をいただきたく存じます。ちょっとフィールドが広がりすぎてしまったように感じます。
お礼
使徒言行録の引用が、私の質問に対して完璧だったように感じました。 聖書の読み方をひとつご教示いただきました。 「知られざる神」をありがとうございました。 《非知》の知についての説は、学術や宗教以外でも、応用できる範囲がひろいように感じました。 おおいに示唆をいただきました。 ありがとうございました。
補足
重ねてのご回答をありがとうございます。 また質問してよろしいでしょうか。 「《信仰の成果》の宗教化 これに与する人たちは 《非知》としての知=それゆえにむしろ《無知の知》 をないがしろにし 《既知や未知やあるいは不可知》といった経験事象を重んじるようになった。」 この、「ないがしろにする」ということの歴史の中での実際が、ソクラテスやイエスの裁判をめぐる一連の記録だと考えてもよいでしょうか。 ひとが、思想=オシエを後生大事にする(ようになった)のは、どうしてであるか、という風な疑問がうまれましたが、なにかお考えはありますか。 お返事がおそくなりまして、失礼いたしております。