- ベストアンサー
伊賀忍びの掟と半蔵との関係
初めて質問させていただきます。 戦国末期から江戸初期あたりの時代小説には、伊賀忍者がよく出てきますね。 で、「主取りをしない」というのが伊賀者の鉄の掟で、この掟に背くと暗殺の対象になることもある、なんて記述をよく見かけます。でも、大抵同じ本の中で、「服部半蔵は出世頭で伊賀の英雄」みたいな記述も出てきます。なんでですか? 伊賀者でありながら徳川の家臣となったのに、なぜ裏切り者とはならないのですか? 宜しくお願いします。カテゴリ違いならご指摘ください。
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
身も蓋もない話をすれば、それが「小説」だからです。 フィクションですから。 この場合、歴史的事実から言えば「鉄の掟」は無かったということになります。 他の国では土豪レベル、国衆から国レベルでの支配者が育ちました。 尾張の織田や北近江における浅井氏などですね。 伊賀では、その地形のためか、他国に傭兵的にいくものが多かったようです。 隣国の甲賀の出身ですが、滝川一益などはその例です。
その他の回答 (3)
- LINERS
- ベストアンサー率21% (211/974)
半蔵の父は足利将軍家に仕えて(というより仕事をもらっていた)いたのですが、将軍家では食っていけないと判断し、徳川家へ仕えました。ですが、忍者に対する風当たりは強かったようで、父は半蔵に忍術よりも槍を憶えろと言ったそうです。(忍者として仕えるのではなく、武士として仕えさせたかった。)半蔵は徳川家で必死にがんばり伊賀者を自分のところへ呼び、部下にして食わせました。 この辺が英雄的なところだと思います。 裏切り者と呼ばれるのは、多分、父の教えから、忍をすて武士として生きようという思いが強く、そのことから裏切り者的な感情が生まれたのかと。 余談ですが、織田信長が本能寺の変で亡くなった際に、家康は伊賀越えを決行し、堺(大阪)から三河へ逃げるわけですが、そのときに甲賀者に助けをかりたりしています。(家康へ仕えさせることを条件に味方にしたようです。結果として認められず、半蔵はその時の甲賀者を自分の部下として食わせています。) 江戸城が出来上がった時に半蔵ら伊賀者(甲賀含む)には門の警護を仕事として与えられますが、実は裏門でした。そのときに半蔵は「結局俺達は裏の人間か」と嘆いたそうな、それから江戸城裏門は半蔵門と呼ばれるようになったそうです。
お礼
どうもありがとうございました。
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
有名な服部半蔵は、その父親の段階で、すでに松平家の家臣となっております。 ※ 参考URL 足利義輝は足利家直属戦力の強化をねらっており、京都の近くの土豪層をリクルーティングしていたようです。 美濃の明智光秀もその一人ではないかという説もあります。 伊賀の服部半蔵(先代)もその一人であったのでしょう。
お礼
どうもありがとうございました。
- ss79
- ベストアンサー率33% (258/765)
伊賀という国は土地の生産力が低く貧しい土地柄でしたが交通の要衝でもあったので情報の通路でした。 このため情報収集に長けた忍者という職業が発達したのです。 彼らは特定の主をとると束縛されるので固定されるのは嫌う性行はありました。 契約金をとり必要とされた情報を契約主に届ければ終わりとする形で一種の一時的傭兵の様なものでした。 統制の為上、中、下の階級制を敷き絶対君主制のような体制を作りました。 このような半独立国だったので織田信長は反抗するものと認め徹底的に弾圧しました。 これが伊賀攻めです。 後継者の秀吉も同様な政策をとりましたから反豊臣の性格を帯びるようになったのです。 徳川家康とはそれ以前から結びつきはあり、家康の策謀もあってその陣営に組み込まれた時の上忍が服部半蔵でした。 この頃は既に徳川政権の萌芽が芽生えており、天下の統一が近い予感があり伊賀もそれに従うのが得策という意識は生じていたと思います。
お礼
ありがとうございます。大変勉強になりました。
お礼
ありがとうございます。あまり細かいツッコミ入れずに楽しんで読めばそれで良いですかね。