- 締切済み
家康の「伊賀越え」
「本能寺の変」のあと、家康が堺から岡崎に引き返すのに、服部半蔵の手引きで、木津からいまの307号線経由で伊賀越えした、という話(途中に記念碑もあります)ですが、 京都南部から伊賀越えするためには、伊賀忍者のライバルである、甲賀を通ることになるのですが、甲賀忍者の助けを借りた、という話はききません。明智軍から隠れて移動するのに、伊賀より京都に近い甲賀は、警戒が厳しいはずですが、服部半蔵に甲賀まで遠征させたのでしょうか。 「家康は明智の謀反を知っていた」というのは、有力な説だということも聞きますが、実際に伊賀越えしたならば、甲賀はどうやってパスしたのでしょう。
- みんなの回答 (1)
- 専門家の回答
みんなの回答
- takesama
- ベストアンサー率24% (29/117)
回答No.1
諸説がいろいろとあって、あまり自信はないのですが、甲賀忍者も使っていたという説が、僕の中では一番有力な説です。 それについてのURLも見つけましたので、ご覧になって下さい。