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徳川家康配下の忍者は、甲賀衆のようです。
徳川家康配下の忍者は、甲賀衆のようです。三河物語で、蒲郡の城を、忍で取るとあります。伊賀出身の服部は、後に伊賀同心を預けられますが、忍者ではないようです。家康=伊賀ではなく甲賀の誤りでは? 寛政重修諸家譜の記述です。それ。こちらは、三河物語と甲賀武士の書状から、蒲郡の城=西之郡の城(=上郷城=宇土城)を、甲賀衆(甲賀忍者)が落としています。
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- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 bungetsuです。 もう少し付け加えるならば・・・。 まず、忍者では「陽忍」と「陰忍」とに分かれます。 「陰忍(いんにん)」は一般的に知られる、種々の「技(わざ)」を使う忍者で、源平合戦のころの「義経流(ぎけいりゅう)」に端を発している。つまり、鞍馬山中で修行した「体術」を駆使する者である。 これに対して、「陽忍(ようにん)」は知能的な諜報、謀略を主としている。南北朝の「楠流(くすのきりゅう)」を受け継いだといわれている。 さらに、忍者の格としては、 「上忍(じょうにん)」、「中忍(ちゅうにん)」、「下忍(げにん)」の3階級に分かれる。 「上忍」は豪族で、主に、「陽忍」を使った。 「下忍」は、もっぱら、体術を使う「陰忍」であった。 「中忍」は両方を使い、「下忍」の組頭的存在であった。 従って、服部半蔵は「上忍」の「陽忍」だったのです。
- 1582
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なんでどっちか片方じゃなきゃダメなん 両方使ってたでいいやん
- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>後に伊賀同心を預けられますが、忍者ではないようです。家康=伊賀ではなく甲賀の誤りでは? いえいえ、当初の頃は、服部半蔵に引き入れられて家康の守護をつとめました。そして、伊賀組の頭領として3,000石を与えられていました。 これは、言わずと知れた、天正10年(1582)6月2日に織田信長が本能寺の変で裏切りにより死亡すると、その時、信長の招待で堺を遊覧中であった徳川家康は、急遽、堺からの脱出を試みました。この時、家康を援けたのが、伊賀衆と甲賀衆でした。家康はこれらの人々に抱きかかえられながら、白子浜から舟で無事駿府の城へ帰還しました。 そこで、家康は天下をとってから、伊賀の服部半蔵を迎え入れ、伊賀同心組をつくりその頭(かしら)としました。 しかし、2代目の服部石見守正就が、父の死後10年目に、人違いから、家康の信任厚い家臣を2人まで闇討ちにしてしまいました。また、部下に対しても信頼関係が薄れ、伊賀者が四谷の西念寺に立てこもってストライキを起こしてしまいました。正就は責任を問われ改易となりました。それ以後、江戸城内でも、伊賀同心組は首領を置くことなく、単なる「警護役」「門番」などの軽輩として扱われました。 警護役・・・奥女中などが寺院に参拝する時の警護。 門番・・・・・江戸城内でも不浄門といわれた「白河門むの警護。 一方、甲賀衆は、早くから家康に接近をしており、忍術そのものは甲賀とはあまり変わりないが、関ヶ原の戦いで、伏見籠城に参加して西軍の進撃を阻みました。しかし、、伏見城は陥落し、この時100人もの戦死者を出しました。 家康は、江戸に幕府を開いてから、この伏見城で戦死した子息100人を召し抱え、江戸城の大手三門の番子とし、「甲賀100人衆」と呼び、「伊賀同心」より一階級上の「与力」に任じました。 なお、甲賀については、正式には甲賀市(こうかし)と呼び、忍者に限って甲賀(こうが)と呼びます。 >>伊賀出身の服部は、後に伊賀同心を預けられますが、忍者ではないようです。 服部家は、甲賀でも豪族で、れっきとして忍者です。 >>寛政重修諸家譜の記述です。それ。こちらは、三河物語と甲賀武士の書状から、蒲郡の城=西之郡の城(=上郷城=宇土城)を、甲賀衆(甲賀忍者)が落としています。 この頃の忍者は、敵味方なく、雇ってくれる者がいれば、同じ甲賀衆であっても、それぞれが敵味方に分かれて使われていました。 忍者には掟があって、たとえ戦場であっても、忍者と悟られないようにしましたし、例え、同僚の忍者といえども双方の身分を明かすことなく戦いました。 蒲群の城については、主に甲賀衆が落としたとされていますが、それは、服部半蔵が家康に召し抱えられることへの称賛の語り部と、私は考えます。 この当時は、先にも述べましたが、甲賀衆が一集団となることはありませんでした。 後後、伊賀衆(ひいては、服部半蔵)の偉業をたたえるものとして書かれた文書と考えます。
- goold-man
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徳川家康が桶狭間の戦い後三河国奪還の争では甲賀衆が活躍し、本能寺の変の後に徳川家康を護衛して伊賀越えを行なったのは2代目 服部半蔵 率いる伊賀衆。 >伊賀出身の服部は、後に伊賀同心を預けられます 徳川家康に仕えたのは、「2代目 服部半蔵」服部正成(は伊賀同心の支配役で、伊賀忍者を管轄) 本能寺の変の際に、堺の見物に訪れていた徳川家康を「伊賀忍者」が護衛して伊賀越えを行なった。 >三河物語と甲賀武士 甲賀21家 徳川家康が桶狭間の戦い後、三河国奪還の争で、蒲郡の西之郡城(上ノ郷城)を忍で取る、との武功(近江国甲賀武士の甲賀21家が援軍として駆け付け鵜殿藤太郎の首を討ち取った)は、伊賀ではなく甲賀。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%8D%8A%E8%94%B5