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西南戦争後、鹿児島県の処遇はどうだったのでしょう?
明治維新成功の原動力は薩摩藩と長州藩でした。 しかし、薩摩藩の中心人物である西郷隆盛は、明治6年、征韓論が認められず下野、同10年には西南戦争を起こして敗北、自決しました。 また、薩摩藩のもう一人の雄、大久保利通は翌11年に暗殺されてしまいました。 このように、明治政府に反旗を翻したうえ、大久保という柱を失った鹿児島県のその後の処遇はどうだったのでしょうか? 鹿児島県は、新政府から冷遇されて大正、昭和に至ったのでしょうか? 歴史に詳しい方、どうぞお教えください。
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まず、知っといてほしいことは、新政府は薩長土肥の出身者がほとんどで、藩閥同士、あるいは自藩閥同士で権力闘争をしていたということです。武力反乱を起こしたからといってその藩出身者全員が加担しているわけではないのでその藩閥が根絶やしになることはないのです。西郷隆盛下野後、薩摩からは寺島宗則や黒田清隆が参議に登用され、大久保は暗殺後にも薩摩から多数参議になっています。。同様に佐賀の乱をおこした肥前も江藤は討たれたが、大隈重信、大木喬任は参議に残りました。土佐も板垣退助、後藤象二郎は下野後、なんだかんだいって復職してまたやめたりを繰り返しました。長州も征韓論の前に下野した元参議前原一誠(木戸と不仲)が萩の乱を起こしています。同じ藩の権力闘争の一方が残っているわけですから、また新たに自藩出身者を登用していけばいいのです。 それから西郷は、明治天皇から好かれていたこともあり、比較的早く罪を赦され、子孫も華族(侯爵!)に列せられました。赦される前も薩摩出身者で集まって堂々と西郷の法事をしていました。長州としたらおもしろくないのですが、明治天皇も内々認めていたので、文句言えなかったようです。
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- takatukireds
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鹿児島県は西郷が死んだ後は冷遇されたかといえば全然そんなことはありません。 西郷自身は死んだ10年後に官位も元に戻されましたし。国賊の汚名はなくなりました。 しかし、西郷の教え子や親戚は明治の元勲として活躍します。 山本権兵衛や大山巌など西郷弟など。 もっとも、明治の政治家としてはマイナーな方が多いですね。どちらかと言えば軍人が多いですし。 むしろ、普通に扱われていたのではないのでしょうか。
お礼
>「西郷自身は死んだ10年後に官位も元に戻されましたし。国賊の汚名はなくなりました。 しかし、西郷の教え子や親戚は明治の元勲として活躍します。山本権兵衛や大山巌など西郷弟など。」 →詳しく教えていただき大変参考になりました。 ありがとうございました。
- koon1600
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No1の人がいうとおり、鹿児島出の軍人は数多いです。 ただし、陸海軍のバランスで言うと、やはり初期におけるバランスでは長州が主であった陸軍のほうが上でして、海軍は陸軍の下、という位置づけでした。最終的には日露戦争での勝利やその後の政治的攻勢などで相対的に力バランスは対等となりましたが。 ただし、薩摩が冷遇されたということはないですね。 むしろ、明治期における薩長からの軍官、官僚排出量はそれほど変わっていませんので、他の県にくらべると優遇されていたと考えられるでしょう。 大正期になると東北軍人が力をつけてくるのですが、これはまた別の話ですね。
お礼
>「むしろ、明治期における薩長からの軍官、官僚排出量はそれほど変わっていませんので、他の県にくらべると優遇されていたと考えられるでしょう。」 →大変参考になりました。ありがとうございました!
- kawakawakawa13
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薩の海軍長州の陸軍という言葉があります。 西郷隆盛の弟、従道はその後も政府に残っています。 また、東郷平八郎も、隆盛の係累です。 鹿児島が冷遇されたとか鹿児島出身だからとかは無かったようです。
お礼
>「薩の海軍長州の陸軍という言葉があります。」 →う~ん、初めて聞きました。 また、東郷平八郎が鹿児島出身とは知りませんでした。 >「鹿児島が冷遇されたとか鹿児島出身だからとかは無かったようです。」 →ありがとうございました!
お礼
>「まず、知っといてほしいことは、新政府は薩長土肥の出身者がほとんどで、藩閥同士、あるいは自藩閥同士で権力闘争をしていたということです。武力反乱を起こしたからといってその藩出身者全員が加担しているわけではないのでその藩閥が根絶やしになることはないのです。」 →貴重なご意見、ありがとうございました!