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2・26事件
2・26事件を解りやすく教えてもらえますか?また当時の天皇というのは政治とどのようなつながりだったのでしょうか?
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No.2です。 補足の質問がありましたので、それにお答えしたいと思います。 日本は小さな国です。 今のそうですが、多くのものを輸入に頼っています。 赤ちゃんが親に頼るように、多くの国からの輸入がなければ国として生きていけない島国です。 当時ももちろんそうでしたが、日本はまだ、「大国」の仲間入りもできていませんでした。 欧米に比べると、どうしても「ひとつ下」のレベル扱いをされていたようです。 国の力を強くして、世界の国々から「大国」と呼ばれるには色々な方法があります。 自分の国だけでは経済をそこまでアップさせることができない日本。ならば、軍隊を使い、ほかの国の土地を自分たちのものにし、他国の豊かな資源も自分たちのものにすることでしか「大国」になれない。 国際社会で生き残れない・・・ 本当に簡単に説明してしまうと、軍人さんたちが考えていたのはこのようなかんじです。 さらに、第一次世界大戦後、軍縮会議が行われましたが、その会議は力をつけてきた日本の軍事力を削減し、おさえつけるためのものでもありました。 このままでは欧米に日本はやられてしまう。 やられてしまう前にやらなくては。 欧米に対抗するためには、アジア浸出しかない。 軍縮条約に簡単に調印した政治家(政府の中心の人々)も許せなければ、このまま軍縮の道をたどることも許せなかった。 軍人さんたちの不満、の簡単な例でした。 歴史には色々な側面があります。 国、民族、当事者だったかどうかでも色々な解釈があります。 私のこの考えは、中学生に歴史を教える際の一般的な流れのひとつだととらえていただければ幸いですし、ほかの回答者の方の詳しいご説明もたいへん参考になると思います。
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- chicago911
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No. 5 です。何か二人で、補足をしている形になってしまいましたが。 結局、大日本帝国憲法の根本は、天皇絶対主義であり、明治時代には、明治天皇以下維新を行なった連中の合議に近い形で、国政を運営していたので、実質上の問題は余り見えなかっただけです。 裕仁に対し、当時の元老西園寺公望が、立憲君主制に近い立場を教育し、「臣下の吹奏を裁可する」 ことを薦め、天皇になった後、これを重視した、ことは歴史的に明らかです。そこで、大東亜戦争開戦決定の御前会議でも、臣下がそう決めた故、異論を唱えなかった、と言うことになります。敗戦後、本人も、「満州某重大事件」、「2・26」、「ポツダム宣言受諾」 は自分の意思を示した、とはっきり言っています。同時に 「満州某重大事件」 に関しては、当時の田中儀一内閣の処理に不満を漏らしたことが、内閣瓦解につながった、と認識していたようです。 つまり、2・26 事件を境に、軍部が力を持てた背景は、天皇絶対主義の大日本帝国憲法と、臣下の吹奏を実質無批判に裁可した天皇の存在、と言うことになります。 そこで、日本国憲法では、 〔天皇の権能と権能行使の委任〕 第4条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。 2 天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。 〔摂政〕 第5条 皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には、前条第一項の規定を準用する。 〔天皇の任命行為〕 第6条 天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。 2 天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。 〔天皇の国事行為〕 第7条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。 と、全項において、歯止めを明記し、単なる一行政機関として天皇の国事行為を定めているのです。
- smzsmz
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4です NO5さんの回答で概ね正しい回答です。 明治時代に戻りましょう。 当時の首相「伊藤博文」を中心に「日本帝国憲法」が作られました。 同時に「立憲民政党」の党首であり 政治綱領に〈議会中心政治ヲ徹底・社会不安ノ禍根ヲ芟除・国際正義・教育ノ実際化・時代錯誤ノ陋習ヲ打破〉を掲げています。 そして将来起こり得るであろうと思われる、 天皇の暴走、独断及び責任問題を回避する目的で第五条を条文に入れたのです。 つまり、民主政治の徹底です。 この条文があるために、天皇も統帥権が在るが自由に軍隊を動かせませんでした。 その為、統制派から分裂した若手将校が、「五.一五事件」で立憲民政党の犬養毅首相を殺害し、 軍は議会と関係なく天皇直属になり、天皇の命だけで動くシステムにしようとしたのです。 (NO5さんの解釈です) そのシステムにすれば事後報告で議会に懸けることなく軍の判断で軍を動かし易くなるからです。 良い例が関東軍の暴走です。 その後「2.26事件」が発生し軍部に反抗する事が困難になり 昭和十五年に近衛文麻首相、東条英機が中心になり「大政翼賛会」を設立、 ドイツのナチス党をまね一党独裁になり、 社会大衆党、政友会、民政党が解党して大政翼賛会の傘下に入り、 日本の政党歴史は終焉する所になりました。 この事により、天皇は議会を解散しても結局同じ顔ぶれが当選するだけになり発言も殆どなくなりました。 開戦当初、天皇は開戦に反対していましたが帝国議会が開戦決定、それに対し「勝てるのか?」と一言言ったそうです。 (私見ですが、 もし弱気な回答が在れば戦争回避に向けての発言があったと思われます。) ポツダム宣言時、終戦に向け国体の維持(天皇制の維持)を条件にし打診しましたが、 連合国から一蹴され、それに対し徹底抗戦派と国体を維持し再交渉派に別れ揉めていたところ、 天皇の判断で全面降伏が決定されたのです。 (私見です。 日本は戦争継続に対し、もう国力が無く議会そのものもこれ以上の犠牲を払うことに疑問があり、 しかし帝国議会は天皇をむざむざ殺されるような決定が出来なかった、と言うところが本音だと思います。 もちろん天皇は、この決定に対し死を覚悟したはずです。) 「 」内は、検索で出てきますので興味が在れば調べて下さい。
- chicago911
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当時の天皇の政治的立場について補足しておきます。No. 4 の方が大日本帝国憲法の条文を挙げておられますが、実はそれ以上に重要な条文があります。 第八条 1 天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス 2 此ノ勅令ハ次ノ会期ニ於テ帝国議会ニ提出スヘシ若議会ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ将来ニ向テ其ノ効力ヲ失フコトヲ公布スヘシ 第十一条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス 第十二条 天皇ハ陸海空軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム 第十三条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス 第十四条 1 天皇ハ戒厳ヲ宣告ス 2 戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以之ヲ定ム この第八条の定めにより、天皇の名の下では帝国議会の協賛を経ず、任意の法令を発布することができます。敗戦後行なわれた預金封鎖、新円切り替えは、この勅令で行なわれ (議会は一切関与していませ)、成書によりますとその一部は現在もまだ有効だそうです (6 勅令中、2 は失効、2 は不明、残り 2 は明らかに残存)。つまり、現在でも、議会の協賛なく発せられた勅令が、有効であると言うことです。 確かに第八条には 「帝国議会閉会ノ場合ニ於テ」 とあるので、一定の歯止めはありますが、同時に、 第七条 天皇ハ帝国議会ヲ召集シ其ノ開会閉会停会及衆議院ノ解散ヲ命ス とあるため、閉会を命じ勅令発布も任意で行なえます。 第十一・十二条が、所謂 「統帥権」 の規定であって、帝国議会をはじめとする、立法・行政は、統帥に立ち入ることはできず、軍縮条約の内閣による締結に対し 「統帥権干犯」 問題が発生した根拠です。 結局、帝国憲法上は天皇の絶対統治権が存在し、運用は別にして、天皇個人の意思に基づいてのみ、帝国の進むべき方向を定めることが、可能なようにできていました。その意味で、天皇個人の意見が 「通らなかった」 のではなく 「通そうとしなかった」 と解釈するべきです。ポツダム宣言受諾の御前会議では、鈴木貫太郎総理が求めた聖断を、「徹底抗戦派」 の陸軍首脳も受け入れた、歴史的事実から考え、大日本帝国憲法下では、天皇絶対主権 (天皇の意思はすべて通る) が確立しており、敗戦時の事実を考え合わせ、天皇は、「臣下の意見を尊重する」 との立場を取ることにより、国の進路を誤った責任からは逃れられない、と解釈するのが妥当でしょう。
- smzsmz
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昭和11年2月26日の未明、前夜からの雪の中で陸軍の一部決起将校が近衛師団の近衛歩兵第三連隊、第一師団の歩兵第一連隊、歩兵第三連隊の1,483名の将兵を使いク-デタ-を起こします。 しかしながらクーデター開始から2日後の28日午前5時、「叛乱軍は原隊に帰れ」との奉勅(ほうちょく)命令が下され(賊軍になりました)、この時点で決起将校たちの「昭和維新」の夢は完全に断たれます。 2・26事件に関しては、検索すればネット上に色々と出ています。参考にして下さい。 当時の天皇は政治に関し 明治憲法は下記に挙げます。 第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス 第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス 第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス 第4条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ 第5条 天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行 第6条 天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス 問題になるのは、第五条で天皇のいかなる発言も帝国議会の協賛(賛成)が無いと意見が通らないのです。 日露戦争や大東亜戦争で天皇の戦争反対意見が通らなかったのは、この条文に依り一蹴され戦争に突入したのです。明治憲法は、立憲君主制の元、政治が行われていたのですが、5.15事件2.26事件により政治に軍部が関与するようになって行ったのです。
- ret
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当時の陸軍は統制派と皇道派に分かれ対立した状況でした。 皇道派は直接行動によって軍事政権樹立を目的とする派閥 であり、帝中心の国家建国を目論んでいた派閥です。 いわば強引、クーデターも辞さないという派閥です。 一方の統制派は合法的に政府に圧力をかけ、 軍事政権樹立を目論んでいました。 そこに起こったのが2・26です。 皇道派の青年将校が大臣を襲うというクーデターを 実行しました。 当初、陸軍は実行者に政府改革を約し、クーデター成功と思われましたが、 昭和帝は「これは反乱である。朕自ら近衛兵を率い、 鎮圧せん」と憤られ、 軍部は急遽、方針を転換。 反乱として鎮圧を行いました。 これにより皇道派関係者も大量に処分され、 永田鉄山や東条英機といった統制派が実権を握ることとなります。 この後、陸軍大臣職をめぐり内閣は軍部に左右され、 また、統帥権を盾にとった軍部に政権を壟断されていくこととなります。
- misokko
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2.26事件を習う前に5.15事件というのを習ったと思います。 5.15事件は、軍部が政治家(犬養毅総理大臣)を暗殺したクーデター事件ですが、これは「軍隊が力で政治家をねじふせた」という、たいへん大きな事件です。 軍人さんたちが、政治家が自分たちの思い通りの政治をしてくれないから、殺してしまえ、と殺してしまった。 そんな事件です。 2.26事件はその第二段で、ダメ押しになりました。 政治家は、軍部に殺されるのが怖くて、それ以降公平な判断ができなくなってきました。 大正デモクラシーで習った原敬総理大臣からはじまった「政党政治」は、この2つの事件で終わり、軍部中心の政治がはじまることになります。 少し極端な表現もありますが、2.26事件の歴史的なポジションとして説明しました。 また、No,1さんの回答同様、2.26事件は政治家中心の政党政治をやめ、天皇がすべての権限を持つという天皇中心の政治に戻そうとしたものですが、その後の天皇はというと、政治に直接的に口は出していないようです。 一応、日本国の元首(一番トップ)という扱いですし、皆、「神様」のように扱っていましたが、政治の実行、方針の決定などを行うことはなかったようです。 会議には参加しますが、議論はもっぱらほかの参加者が行い、そこで決定したことを天皇の名前で発表する、というスタイルがとられていたようです。
簡単に言うと、日本陸軍の青年将校が起こしたクーデターです。 この事件で、当時の政党政治をしていた首相・大蔵大臣等を襲撃・暗殺して、 天皇中心の政治を復活させようとしたのです。 当時の陸軍の勢力争い(皇道派と統帥派)の背景もあるという事で、詳しいことは、結局わからないまま終結したようです。
補足
回答ありがとうございます。大体の内容はわかりました。ところで補足で質問したいのですが軍人が持っていた不満というのはなんだったのでしょうか?