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秀吉の朝鮮半島への侵攻は明治以後日本の指導者の
参考になっていたのでしょうか。
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日本軍は火縄銃30万丁を所持し、当時、世界最強の陸軍でした。 英国のビクトリア女王が仏国との戦争で英国全土から、かき集めた 銃が3千丁だったとの記録が残って居ます。 また、宣教師の報告を受けた、無敵艦隊のスペインが日本への 侵攻を諦めた文言がバチカンに残って居ます。 秀吉の朝鮮出兵は、高麗がモンゴル軍の手先になってたとか、 度々対馬を襲って来た、などの歴史の背景が積もって居た事柄が 要因の一つです、世に言う、秀吉が慢心したからとか耄碌したとか では無いのですよ。 西洋列強の植民地化に恐れおののいていた、明治維新政府は、 防御一辺倒で、大陸侵攻の考えは微塵も無かったと思いますよ。 不凍港を持たないロシアがクリミヤ戦争で敗北した後アジア への侵攻を画策していました。 清国からの属国から脱した大韓帝国が自前でロシアの南下政策に 抗する力があれば、大日本帝国は朝鮮半島に大きく関わる事は 無かったと思います。
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- oska2
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> 秀吉の朝鮮半島への侵攻は、明治以後日本の指導者の参考になっていたのでしょうか。 参考には、なっていません。 参考になったのは「吉田松陰の思想」です。 松陰は「日本は神の国で。天皇は神様だ。この尊さを、朝鮮を手始めに中国にまで広めなくてはならない」と、塾で述べていました。 塾卒業生には、明治政府の重鎮(政治・外交・軍事)が多くいますよね。 秀吉の場合は、老人性の妄想で歯止めが利かなくなった事。 (1274年・1281に元国・高麗国から侵略を受けた。百倍かえしだ!) ※先陣は高麗軍で、武器・弾薬・食料・戦闘員・軍船準備も高麗国。 自民創価学会連立政権でも、老人性妄想「俺は正しい。何でも出来る」で勘違いしている政治家が多々いるのと同じ。 今回の自民大敗でも「俺は正しい。石破など執行部が悪い」と、裏金問題を抱えた落選議員が騒いでいるのと同じ。^^; ※噓つきは、石破のはじまり。 秀吉としては、元国の後継国である明国と戦闘行為を行っていたとの認識です。 属国の朝鮮軍は、明国配下の部隊に過ぎません。 実際、当時の絵でも「日本軍を取り巻いているのは、7割以上が明国軍」です。 秀吉の死後、武将が日本へ引き返す為の休戦講和条約を結んだのも明国間とです。 朝鮮国は、蚊帳の外でした。 休戦した事を知らないので、武装解除した秀吉軍が撤収している所へ朝鮮軍が後方から攻撃をしたのです。 「休戦になったのに、何故攻撃してくるんだ?」 多くの秀吉軍武将・戦闘員は思ったでしようね。 ※韓国の正しい歴史では、朝鮮軍が秀吉軍を撃退した!らしい。 まぁ、日本・中国の古文書を読めば現在の日韓関係が嘘の塊である事が分かります。
- eroero4649
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秀吉の朝鮮出兵は、大義も何もないただの侵略ですからね。それに比べると大日本帝国になってからの朝鮮半島侵攻は、朝鮮王朝から支援の要請があったとか、一応大義を掲げています。 秀吉カンパニーという会社は、とにかく一代で成り上がった組織なので永遠に膨張する必要がありました。よく似ていたのが堀江貴文氏が率いていた頃のライブドアです。当時のライブドアはM&Aをくり返してひたすら組織を大きくすることで株価を上昇させ、株価が上昇することによって時価総額で会社に価値があるように見せかけるものでした。そのためには組織がどこまでも膨張し続けなければなりませんでした。ライブドアは国策によって意図的に潰される結果になりましたが、もしあのライブドア事件がなかったとしたら、どんなに遅くともリーマンショックが起きたときにビジネスは崩壊していたでしょう。国のせいにできたぶん、堀江氏は社会的に生き残れたと思います。 天下が統一されて戦国時代が終わると、ある深刻な問題がありました。それが「フリーター武士失業問題」です。当時は合戦のときだけ雇われるフリーター武士がいました。映画「七人の侍」に出てきた武士たちはそのフリーター武士です。 彼らは合戦のときに都度短期契約で雇われる立場なので、戦国時代が終わると失業してしまいます。困ったことに、彼らは合戦に慣れていて戦争には強いのです。所属フリーの元軍人みたいなのがそこらじゅうにいるので、彼らに仕事がないのは社会と治安に不安を与えます。彼らが大人しく商人や農民に転職してくれればいいのですが、それができないからフリーター武士をやっているような人たちです。 秀吉は、そのフリーター武士の失業問題を朝鮮半島に彼らの活躍の場を用意することで解決しようとした、という一面もあるのです。まあ治安に不安を与える連中を外国に持っていってしまおう、というわけです。 家康はその対策を、大坂の陣で対策しようとしました。豊臣方が、全国のフリーター武士を雇いまくったからです。大坂の陣で彼らの多くを「潰す」ことでまずはかなり数を減らしました。彼らは殺されるか、装備を捨てて着の身着のままで逃げて「もう武士はアカン。他のことでもやろう」となりました。 それでもまだ数多くの実戦経験豊かなフリーター武士がいまして、そんな彼らが集まったのが、あの「島原の乱」です。江戸幕府は、失業したフリーター武士が島原に集まるのをあえて規制しませんでした。まあどうせなら一か所に集めたほうが「処理」が楽だというわけです。 彼らは百戦錬磨の古強者ですから、島原の乱では幕府軍は初戦には文字通りにコテンパンにやられます。しかし最後は数で押し切って、なんとか乱を鎮圧しました。 それでもまだ失業武士問題は社会不安の原因となり、最終的に解決に至るのは由井正雪の乱が鎮圧されてからとなります。なんと三代将軍家光の時代でした。
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