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文学と科学について
ニュートンは数学者であり、物理学者でした。微分法を発明したことは周知のことです。そしてイギリスでは産業革命が起こって、工業化が進み、ニュートンの数学や物理学は重宝され、またフランスでもフランス革命の時期、ナポレオンが数学が得意だったこともあって、多くの数学者が現れました。ジョゼフ・ルイ・ラグランジュ、オーギュスタン・コーシーなどです。この数学や物理学はイギリス以外のヨーロッパ諸国、フランスやプロイセンでも重視されて、ロシア帝国、日本人も学びました。ここまで述べたのが科学だと思います。 一方で文学もあります。古代ギリシャや古代ローマ、ルネッサンスの文芸復興期、ドストエフスキーやトルストイ、ニコライ・ゴーゴリなどです。 日本でも近代になって夏目漱石や芥川龍之介といった人が出ています。僕にとって興味深いのは漱石も芥川も東大の「英文科」を卒業していることです。漱石に至っては東京帝国大学で小泉八雲の後任として教える側になっているのですから、さぞ英文学に通じていたのでしょう。 タイトルに「文学と科学について」としましたが、これらは、どういう関係があると思いますか? 文学は小説を始め、詩とか、評論などです。古典に関しては、僕は古典のことが嫌いではないのですが、徒然草とか方丈記、杜甫や李白を読んでも時間の無駄だ、と言うか面白くないのでしょう。だってスマホやゲームをする時間はたっぷりあるのですから。 明治時代からそうですが、文学や絵や、音楽では飯は食っていけねえと考えている人が多いですね。 理系の方が重視されていて、太平洋戦争の時も理系の大学生は戦場へ行くことは滅多になかったようです。 僕は理系で高校を卒業して、今でもたまに複素数平面とか二次曲線をやったりしています。 皆さんは「文学と科学」についてどう考えますか? 回答宜しくお願いします。
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>「文学と科学について」としましたが、これらは、どういう関係があると思いますか? 単に頭が良かったのです、頭脳明晰な人は、何をやっても、 それなりの成果を出すのです。 >明治時代からそうですが、文学や絵や、音楽では飯は食っていけねえと考えている人が多いですね。 この認識は、何処から出て来たのでしょうか?単なる個人的な 考えであるように思えますが。 大日本帝国で学校制度が考えた時、科学や医学だけでなく、文学部 も創設し、更に音楽を教科に加えました、「文学と科学」の両方が 人間形成には必要と考えたからです。 古典は永く読み継がれてきたのは、心に訴える物が有るから でしょう、平家物語は琵琶法師が庶民に語りで伝え今日に 至ってます、芥川龍之介は今昔物語を現代風に書いた小説が 多いですね、日本の作家で源氏物語を読まない人は居ないと 言われます、人物の表現は元より、小説としての読者に面白く 飽きさせない形態のテクニックが色々と散りばめられている からです。 御伽草紙は江戸時代の講釈師が数多く題材に取り上げて居ます。 浦島太郎、一寸法師などの他にも面白ろ話が満載です。 6世紀のビザンチン帝国がギリシャ、ローマは多神教の異端の 物として、書籍を廃棄して、科学者達を追放しました、今日、 プラトンやピタゴラスが伝わっているのは、アラビア人達が ラテン語をアラビア語に翻訳して保存していてくれたからです。 オスマントルコ帝国が支配した時代に、世に現れ今に至ります。 キリスト教会は女性を魔女として、大勢、火炙りの刑にしただけ でなく、科学や芸術の自由を奪い、ガリレオ裁判などの様に発展を 妨げました、だから浮世絵の自由な描き方に、ゴッホを始めとした 印象派の画家達が眼を見張ったのです。 キリスト教関連の人物を人らしく描くと罰せられるので、ギリシャ 神話の女神の裸体を描きました、これがルネサンスで興っては 潰されので複数回興って居ます、教会自体が堕落して、権威が 無くなり、最期はマリア様が美人に描かれました、宗教改革が 始まったのは、この頃です。 YuoTube「山田五郎 オトナの教養講座」を視聴すると良く解ります。 https://www.youtube.com/@art-yamadagoro 複雑に絡み合った欧州の事も少し見えてきます、是非、御覧あれ。
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- Nakay702
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面白いテーマですね。回答No. 3さんのお話、興味を抱きました。拝読しながら、「多くの場合、文学は芸術に、科学は技術に結びつく傾向がある」と思いました。そして、どちらも人間にとって必要だと思いました。No. 3さんでほぼ語り尽くされたかもしれませんが、せっかく用意しましたので、私も一枚加わらせていただきます。 夏目漱石は『ロンドン塔』の中で、ノルダウの “Degeneration”『退化論』の一節に触れて、「技術文明が進歩するのに応じて、精神文化は退歩する」というようなことを言っていたと思います。みんながそうだとは思いませんが、部門や団体によってはそんな実態を彷彿させる場合があるような気もします。 実際はどちらにも偏らず、両方、あるいは言い換えてまとめれば、「総合的人間学」が求められるのだと思います。細分化され、個別に乱立する諸分野、自己主張には余念がないが、他の分野、とりわけ(文系対理系のように)系が異なる場合、相互の関係・串刺し理論・学際的な協力などに関する意識が皆無に近い、少なくとも、薄らいでいるような気がします。その意味では、今日ほど、文化・文明に関する我々の意識が分裂・憔悴している時はないとも言えますね。このように学問的統合の気風が消滅した現在ならばこそ、錯綜する科学を関係づけ、統合して指針を与えるよう発想、あるいはそういう学問分野(科学哲学?)が求められているのではないでしょうか。 ということで、これまでのような学問分野の区分、科学の細分化や専門化・個別化がはたして本当の進歩であったのか、単なる変化だったのか、ある意味ではむしろ退歩だったのではないか、真の幸福に寄与したのか、していくのか。どういう方向へ向かうのか、向かうべきなのか…。我々は今、この根本的な問題についてじっくり問い直してみることが必要だと思います。下手をすると、我々かけがえのない地球が一瞬にして廃墟と化すような出来事も起こりかねない状況を目の当たりにしている時代であってみればそれは、我々が人類の一員として我々に続く世代に対して負っている義務と言えるかも知れませんね。
お礼
- nagata2017
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渡辺淳一氏は医学部を出て 医師になった。 医局から指名されて僻地医療に行ったり 医学の最前線にいたが やがて作家の仕事のほうに重点を置くようなっていきました。 だから初期の作品は 自らの体験を基に描かれた多いですね。
お礼
補足
文学や画家、音楽家は一流で、本当に才能と努力をしないと食っていけないと言いたいのです。 アマチュアで小説を書いたり、絵を描いたり、ピアノを弾いたりする分には全然問題がないのですが、プロで小説家とか画家、作曲家にはなかなかなれないと思いませんか? 絵でも藝大とか出たり、音楽も音大を出て、才能と努力をしてコンクールとかで入賞するくらいの実力がないと、職業として生計を立ててはいけないという認識ですが、誤っていますかね? ゴッホだって生前は全くと言っていいほど評価されなかったし、モディリアーニという画家も貧困に苦しんでいました。 ランボーとか高村光太郎も詩人として有名ですが、それだけでは食っていけずに、貿易商とか彫刻家を兼業していました。 モーツァルトも子供の頃は神童ともてはやされましたが、貧困と病気で35歳の若さで夭逝しています。 こんな感じです。スポーツ選手とかアイドルとかと同じで誰にでもなれるものではないという認識です。