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与えられるものと自ら築き上げるもの
与えられるものとは何ですか? 自ら築くべきものとは何ですか? 与えられるものと自ら築くべきものは本質的に何が違いますか? 信仰は与えられるものですか、自ら築くべきものですか? なぜ信仰は与えられるものと考えるのですか? なぜ信仰は自ら築くべきものではないと考えるのですか? 与えられた信仰を無批判に受け入れ、それを拝むことは真実の信仰ですか? 大勢の人たちが寄ってたかって広布の広場に集まり南無妙法蓮華経と唱えていますね。 https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcQhhj0dRl-PJJYuvljCh9oBCIdRXvCACYbA-jsKV1ESzTV0TH-9B86M7VbDicSRO4lXF_0&usqp=CAU これは与えられた信仰の結果ではないのですか? 与えられた信仰は真実の信仰ですか? 信仰は自らの人間精神によって築くものではないのですか? 真実の信仰は自らの人間精神によって築く以外にないのではありませんか?
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- 濡れ猫のミコ(@nurenekonomiko)
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回答No.3
a) 人間が正しい道を孤独に進む時、神はそれを見ておられ、その人間に手を差し伸べてくれます。神の導きによって、その人は孤独な道をもっと先まで歩くこともできるようになります。これが、信仰の実際です。だから、信仰は、孤独にも耐える自分の意志と、神から与えられる援助との共同作業です。