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真実の信仰とは何か
信仰は与えられるものですか? 与えられたものを受け取りそれを拝むのが信仰ですか? 真実の信仰は与えられるものではなく、自らの人間精神によって築きあげるものでは無いのですか? もしも与えられたものを受け取りそれを拝むのが信仰であれば、それは宇多田オートマチックですよね。 人間精神の介在する余地はありませんよね? あなた方に問います。 信仰は与えられるものですか? それとも自らの人間精神によって作りあげるものですか?
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信仰とは、「自分にとって究極的な価値や意味をもっている対象と全人格的な関係をもち、その対象に無条件に依存し献身する心的態度」とkotobankでは定義されています。 *引用元 https://kotobank.jp/word/信仰-81649#:~:text=信仰しんこう&text=神仏のように、自分,信仰として形成される%E3%80%82 そもそも信仰においては「信仰対象」と「信仰者」が凡そ必ず存在します。前者はキリストや太陽、後者は私たちのような信徒です。 そのため自分自身(の考え)が信仰対象にならない限りは信仰は他者より与えられるものであるとも考えられます。 一方、対象だけあっても成立しないのもまた信仰です。信仰に至るまでには必ずこの考えを信仰したいと思う人間の心があるからです。 与えられるものではあるが、自らの築き上げた経験や信念に基づいてそれを選択的に拠り所として信じることを信仰と呼ぶ、というのが結論ではないでしょうか。 なお、質問者様の意図するところが宗教的なそれではなく比喩的な意味での信仰だとしても対象と信仰者というかたちは変わらないと思います。 あくまで私の考えであることはご留意ください。 長文失礼いたしました。
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- siyahqalam
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信仰は与えられるものです。 与えられずに自分の力で手に入れるものを信仰とは呼びません。 それは偽りの神を信じる偽りの信仰です。 自らの人間精神によって築き上げるものは不信仰以外にありません。それは自己神格化であり、自分を神とする偶像崇拝であり、不信仰を正当化する罪深い行いです。 あなたがいくら偽の信仰を真の信仰と取り替えようと企んでも無駄です。 ヒトノミチは邪道であり、滅びに通じています。 この道を辿る者の魂は呪われています。
お礼