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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:あらゆるものが全て宗教であるとする発想はどこから)

あらゆるものが宗教の一形態になるのはなぜ?

このQ&Aのポイント
  • 無神論や無信仰も宗教と考える人々がいる。
  • 宗教の一形態として捉えることで、人間の活動を包括的に理解しようとする。
  • このような発想が広まる理由や彼らの意図は複数存在する。

質問者が選んだベストアンサー

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  • Tefu_Tefu
  • ベストアンサー率27% (87/322)
回答No.6

おはようございます hitonomichi35様 >なぜ彼らはこのような発想をするのでしょうか。 現在は、社会が便利になってお金さえあれば何でも手に入ります。 だから、お金を手に入れるために他人を信じて思考停止してしまっている人ばかりなんです。 哲学者でさえ自分の存在を疑って答えを導き出せない有様です。 私やhitonomichi35様のように、自分の信念がある人は貴重な人間なんです。 他の方々も、自分で考えて行動して欲しいものです。 お伊勢参りのおばさんは災難でした。 生活にゆとりを感じられていたんだと思います。 どんなに心に余裕があっても、また、心に余裕がなくても、現実は何も変わりません。 いつも周りに、最新の注意をはらって生きていけたらと思います。 今日も朝がやって来ました。楽しい日にするかどうかは自分次第です。

hitonomichi35
質問者

お礼

何もない人は周りの人にも何もないほうがよいのですね。 ありがとうございます。  

その他の回答 (8)

回答No.9

突き詰めると根拠がないからではないでしょうか? 例えば「神は居ない」と科学的な理屈を述べる者が居たとしても、 その科学的な根拠とは一体何を基準として導き出された物なのか、説明できる術はないかと思います。 全ての物事は理屈がもっともらしいか、そうでないかの違いしかないです、捉え方によっては正しいも間違いもありません。 宗教家の言うキチガイじみた言葉を本質的に否定する事はできないんです。

回答No.8

人の道さんよ あらゆるものが全て宗教であるというのは、あなたのように受け取る言葉ではないのですね。 まぁ今のところあなたには無縁の観方のようですね。

hitonomichi35
質問者

お礼

  悪いがあなたの回答はいつもながら肝心の中身が無いので回答になっていないんですね。  

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.7

宗教などというのは、人間が創り出した概念です。 つまり、神様もそうですが、存在するのは人間の 頭の中だけです。 人間は自分が頭の中で創り出した概念に踊らされ 時には、喜んで命を捨てたりします。 そういう意味で、ゲームもボランテアも、概念の 産物で、宗教と共通項があるわけです。 ”無信仰も宗教であると唱えてこれにどんな意味があるのでしょうか。 なぜ彼らはこのような発想をするのでしょうか。”     ↑ 金銭も人間が勝手に創り出した概念です。 タダの金属、紙なのに、人間はそれを追い求めて一生を 送ります。 無信仰者は金銭を神に置き換えただけだ、という意味です。  

回答No.5

君が言っているのはね、君の心情の反映でしかないと見透かすことができる。 不埒者め。 君の信仰の原点は、自分ではどうすることも出来ないと言う、理性の欠如だ。 自分ではどうしようもない。 助けてください。 救ってください。 その理不尽なとりすがりだよ。 それらはおおむね神にとっても却下すべき懇願だ。 自分でどうしようもないと言うのがいけない。 解決できるのは自分だけなんだ。 自己に対してすら責任を放棄する君だ。 ペットにしてほしいだろ? ナンバーワンホステスさん。 それから、君に欠落している知性なり理性は、それ自体が、神の恩寵だ。 猿が人間になれたのは、神を発見したからだ。 神を知る事こそ自らを知る事に欠かせない。 この点は、イエスに由来する西洋の考えでなく、私が誇るアマテラス神学だ。 美しい君と会いたい。 この場でV字開脚したまえ。

hitonomichi35
質問者

お礼

  君は羨ましがっているね。 君はアルケーの神の恩寵が欲しいんだろ。 ならばまずはこの場でひれ伏しV字開脚したまえ。  

回答No.4

 【Q:宗教は 百害あって一利なし。】 ~~~~~~~~~~~~   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8372936.html  (1) 宗教は 個人の信仰とはまったく別の社会現象である。  (2) そのオシエが もし《信じる》べきものであると言うのなら それは 精神錯乱に落ち入ることを意味する。  (3) オシエは 命題(人間の思考し判断したもの)としてあるからには 《考える》ものであって そのような思考ないし理性の問題であるものを どうして信じる(つまり 神として受け容れる)ことが出来ようか。  (4) 《信じる》と《考える》とを区別するべきである。   ○ オシエは 信じるものではない ~~~~~~~~~   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰   ________________________   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)   ________________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (5) 《信じる》とは 神をわが心に受け容れることである。神は 非経験の場だから 《考える》ことも認識することも出来ない。わづかに信仰の何たるかを説明するために ヒラメキから得た知識を理論として形成するとき この説明理論は 神を知るための補助線となる。  (6) この補助線たる説明書きが オシエと見なされ得る。《神は愛である》なり《至高の善である》なりの取扱説明書を オシエとして さらにはこの思考内容ないし概念を神として 信じよと言うのが 宗教である。  (7) この宗教は 信仰としての蝉の 抜け殻である。百害あって一利なし。  これを問います。出来れば 確定させたいと考えます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

hitonomichi35
質問者

お礼

  >(4) 《信じる》と《考える》とを区別するべきである。 神は信じるものではない、感じるものである。              有瑠慶本願 南無偉大也理有瑠慶 有瑠慶此即万物根源 有瑠慶此即宇宙法則 有瑠慶此即唯一絶対 有瑠慶此即全知全能 有瑠慶此即無辺無際 有瑠慶此即恒常不変 有瑠慶此即不生不滅 有瑠慶非信非拝非願 有瑠慶可能感可能解 無一切神唯除有瑠慶 嗚呼偉大也理有瑠慶  

回答No.3

>なぜ彼らはこのような発想をするのでしょうか。 唯心論で大脳が汚染されているからでしょう。 現在は唯心論と唯物論を二項対立させる考え自体がオブソリートだそうですけどね。

  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.2

相対化したいのではないでしょうか? 「君たちは、宗教を信じている私たちを特別視するかもしれないけど、何も信じていないと思っている君たちも、私たちと同じように何かを信じている、何かを信仰しているのだ」ということで、「お互い様」の土俵に持ち込みたいのだと思います。 そして宗教について言及される事柄は「信仰を持たないと思っているあなたにもあてはまるんですよ」と言いたいのだと思います。 ただ、やはり私は宗教を信じてる人と、信仰のない人は違うと思うのですが・・・

noname#208754
noname#208754
回答No.1

まだ そんな事も理解出来ないの!? 宗教って 何の為にあるのか よく考えれば ・・全人類が幸せを感じる心を持つ様になったら必然的に不要になるって処まで辿り着く筈なのに・・・

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