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中2歴史についてです
ヨーロッパ人との出会いと天下統一はどのようなつながりがあるのでしょうか?できれば箇条書きで2、3個書いていただけると幸いです。お願いします。
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>ヨーロッパ人との出会いと天下統一はどのようなつながりがあるのでしょうか?できれば箇条書きで2、3個書いていただけると幸いです。 ⇒ヨーロッパ人との出会いが日本の社会にどんな影響を与えたかということですね。 以下のとおり箇条書きしながら、お尋ねにお答えします。 1.ポルトガル、スペインなどとの南蛮貿易により、鉄砲をはじめ、毛織物・ガラス製品などが伝来した。そのうち、特に鉄砲は諸大名の注目するところとなって、藩内での生産に着手、名だたる戦国大名が武器として使用するようになって、大きな戦で勝利する原動力となった。 2.宣教師によってキリスト教がもたらされ、一部地域で民衆の生活にも広まり、信教者が増加した。神道・仏教などの信仰領域が拡大し、ときにそれら相互間の争い、影響関係、習合などの現象も見られた。 3.欧米列強によって開国を迫られる過程で、日本の有志は、国土侵略を怖れ、公武合体、尊王攘夷、富国強兵策などに目覚めた。その具体的な動きとしては、外様的存在の地方諸藩から始まったが、次第に勢いを得て、最終的には幕藩体制の崩壊、明治維新と新政府樹立などへとつながった。
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- gunsin
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>ヨーロッパ人との出会いと天下統一はどのようなつながりがあるのでしょうか? 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、辺りの人物との繋がりの事? 情報が欲しかったのは鉄砲、大砲、造船と欧州の情勢で、キリスト教や欧州の政治体制には、関心が無かったでしょう、従って天下統一 への繋がりは武器製造以外は無いとします。 三人とも天皇にとって代わる何て事は考えていないので、源頼朝の ビジョンの踏襲で軍事権を得て大名に号令する事でしょう。 源頼朝には大江 広元が居たので、幕府を運営出来ましたが、三人 には、その様な側近はいません。 豊臣秀吉亡き後の布石として、五大老、五奉行の集団決議体制を 考えた石田三成のシステムを取り入れ徳川幕府で老中の集団決議 体制にしたので、石田三成が大江広元にやや近い存在かな・・・ 現体制に置き換わり、始皇帝の様に、新しい政策を施行して初めて 天下統一と成りるには、ビジョンを持っていなければダメです、 木曽義仲の様に武力で制圧しただけでは天下統一では、ないのです。 日本の歴史上、ビジョンを持って公家から武家にビジョンを 持っていたのは、平清盛だけと思っています。 盤石の平家の地盤の西国の戦で敗れたのは、規格外の戦の天才 源義経がいたからです。