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信長が天下統一できなかったのは?

以前NHKの「土曜スタジオパーク」で舘ひろしが出演したとき 「織田信長は平氏だったから天下統一できなった」 と話していました。 これはどうゆう意味なのでしょうか? 平氏だとなぜ天下統一できないのでしょうか? お分かりの方は宜しくお願いいたします。

みんなの回答

  • tkachi
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回答No.9

信長にとって、尾張地方で勢力を拡大していく都合上、源平藤のいずれかの氏族を源流とすることが不可欠であったため、平家を名乗ったのだと思われます。なぜ平氏かというと、推測ではありますが、尾張時代の主家の斯波家は足利一門の源氏。また敵対者美濃の斉藤家は藤原氏、同じく敵対者の駿河今川氏も源氏、三河松平氏源氏 というように周辺に平家出身有力氏族がひとつもないことから名門氏族 平氏を名乗ったのではないでしょうか。 平氏出身の将軍が一人もいなかったのは偶然で、条件さえ合えば誕生 していた可能性はあると思います。

回答No.8

源平交代思想を踏まえての話でしょうが 正直全く根拠の無い発言だと思います

  • showta
  • ベストアンサー率30% (129/422)
回答No.7

信長は、書物文献からすると もともとは、藤原氏を名乗っていたようです。 古くから日本には、『源平藤橘』と言う氏族があり。『四姓』とも呼ばれますが。 『源平交代政権思想』というものが、実しやかに 信じられていました。 平氏(清盛の太政大臣をはじめとし) ↓ 源氏(鎌倉幕府) ↓ 北条氏(鎌倉幕府執権) ↓ 足利氏(源氏) それで、次に政権を執るのは、平氏だと思われていたのです。 これは、こういった流れになります 平清盛(平氏) →源頼朝・源頼家・源実朝(源氏) →執権北条氏(平氏) →足利氏(源氏) →織田信長(平氏・忌部姓(いんべし)・藤原姓) →明智光秀(源氏・清和源氏の流れである土岐氏一族の明智氏) →豊臣秀吉(農民・仮平氏・藤原氏) →徳川氏(源氏) 織田信長は、完全な、天下統一はできていませんが 事実、当時の天下の覇者であった そのわずかの間、天下をとった光秀 織田信長は、藤原の出といいながらも、この 『源平交代政権思想』により、平氏の出身をいうようになるのです。 この平氏将軍の試みましたが 征夷大将軍は源氏でなければならないと言う朝廷の巧妙な駆け引きで頓挫することとなる。 この「織田信長は平氏だったから天下統一できなった」のは、大うそで、征夷大将軍になれなかった だけのことです。 別に、なれなくても後の秀吉は、関白に付きますが これも、秀吉は、摂政関白につくためには、農民の出ではなれないので1585年には近衛前久の猶子として関白宣下を受け、翌年には豊臣の姓を賜って太政大臣に就任 実は、それ以前、正二位内大臣になった秀吉は、公武合体の平家型政権を意識し、署名にも、「平秀吉」と書く、 その後、関白になったらとの誘いで近衛に猶子として 入るわけです、まあ金で、買ったということですよね それほど、この交代説は信じられていたんです そして、出身の溝は深いものがあったわけです 関白太政大臣にまでなった秀吉にとっては、もう 下位の武士の最高位といわれた、征夷大将軍なんか いらないわけです。

回答No.6

信長は元来平氏でなく藤原氏または忌部氏の出身だという説が強いです。 信長の父・信秀、祖父・信定(信貞)は清須城(現・清須市)を居城とする清須織田氏(代々大和守を名乗った)の三奉行の一人であった。 尾張国には、守護の斯波氏(室町幕府の管領を務める家柄)の下に守護代(名目だけで力は実際失っていた)がいて、その守護代は清須織田氏以外に、岩倉城(現・岩倉市)の岩倉織田氏(伊勢守を名乗っていた)がいて、清須側が下四郡、岩倉側が上四郡を治めていた。 信定は勝幡城(現・愛西市)を本拠としていて、経済力などを背景にして、3代かけて尾張を統一していった。 それらの織田氏の祖先は越前から出た。 先ほど述べた尾張国守護斯波氏は、越前国守護も兼ねていた(この国の守護代は信長の仇敵・朝倉氏)。 越前の丹生郡にある織田剣神社(現・越前町)の神官で、その周辺地の織田庄(織田荘)を兼ねていた。 で、斯波氏が尾張に行くときに連れて行ったのが織田氏。 剣神社に、藤原氏との署名があり、また信長の初見文書(実際には制札。もう残ってないけど、残ってるのは写)も「藤原信長」と署名している(1549年)ところから、「藤原氏」説がある。 また、神官出身ということで「忌部氏」説がある。 忌部の名が示すとおり、神官=忌む職についているということね。 その関係で「大中臣氏」(中臣鎌足の親戚)説もあるよ。 「平氏」説は、信長が源平交替思想から名乗り始めたという学説が強い。 因みに初見は、1571年に白山中居神社の太子堂(現・岐阜県郡上市)に寄進された鰐口に「平信長」とあるもの。 結局は、平だろうが藤原であろうが彼には関係なかったのかも。 そんな箔付けなどは、大義名分であり、 結局は力こそ全てと考えていたのだと自分は思います。

参考URL:
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/oda_k.html
  • pyon1956
  • ベストアンサー率35% (484/1350)
回答No.5

平氏では天下は取れない、というのは全くの俗説なのですが、結果として源氏将軍が鎌倉中後期を除き(といっても100年以上そういう状態だったのですが)続いたことなどからそういう俗説を言う人が出てきたわけですね。 秀吉について言えばたしかに平秀吉を名乗っていた時期もありますが、最終的には豊臣が本姓になっています。なぜならもともと姓のない階層出身でも天皇家が与えれば姓です。そういう意味では「豊臣」秀吉は平氏でも源氏でもありません。 もし当時そういう平氏では天下が取れない、という考えが一般的であったとすればどの大名も平氏を名乗る事はやめたでしょうね。このことからも実際にはそういう決まりも常識もなかったと思われます。 では源氏というものの価値はといえば、「源氏と日本国王」 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061496905/249-7932277-6597123 の説によると、様々な経過の後に「王族、王氏全体の代表」の如き地位を得たことにあると思われます。ただ、これは実は清和源氏とは限りません。実際源氏長者というものがありますが、これにはむしろ村上源氏のほうが多くついています。また徳川家のあと、最後の源氏長者になったのも村上源氏です。ですから源氏長者=武家の棟梁とも限りませんが、征夷大将軍となるとその職責から武家の棟梁がつくべき職分になっていったことがわかります。実は鎖国以前日本国王をなのった源氏が何人かいますが、逆を言えば名乗れなかった将軍や源氏がいる、ということです。 名実ともに天下人であるということはそのくらい困難だった、といったほうがいいかもしれません。 もし信長が生き延びたとすれば、天皇家にどういう態度をとったかはともかく「日本国王」にはなっていたと思われます。 ま、舘ひろしあたりがこういうこと真剣に勉強しているとは思えないので、聞きかじり程度でそういう事を言っただけでしょうけど。

  • pius
  • ベストアンサー率38% (73/191)
回答No.4

源平交代思想と言うこと前に指摘されています。もう少し具体的に書くと、平清盛→源氏→北条氏→足利氏→織田信長→(豊臣秀吉)徳川氏と言う順番になります。そのことを指して舘ひろしさんは言ったのだと思われますが、俗説です。 実際、鎌倉幕府三代将軍、源実朝が暗殺された後は、“摂家将軍”(藤原氏)、“皇族将軍”(天皇家)と言う例があります。 また、信長は本能寺の変の前に朝廷から「征夷大将軍」「関白」「太政大臣」のいずれかに就任するよう打診がありました。それ以前にも、「右大臣」の職についています。右大臣は正二位で正三位の征夷大将軍より位が上です。 信長は“朝廷の天皇を中心としたピラミッドから外れることで、新たな秩序を構築しようとしていた”と言う説があり(官位を頂くという事は、天皇の臣下であることを認めることですから、官位は頂かず天皇の支配圏外に身をおいて、政治を行う)、このピラミッドの中に入るのを拒んだため朝廷が明智光秀をけしかけたとされます。 ちなみに秀吉は足利義昭の養子になるという申し出を義昭に断られ、藤原に養子に入り関白、太政大臣になりました。関白、太政大臣は朝廷内で征夷大将軍よりも上位の地位なので、もはや征夷大将軍に執着する必要がなくなったということでしょう。 決して、平氏だから将軍になれなかった、天下統一ができなかったというわけではありません。

  • 6dou_rinne
  • ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.3

天下統一というのはたぶん征夷大将軍として幕府を開くという意味だと思うのでその点から説明します。 織田信長は平氏を称していました。 歴史的には幕府を開いたのは、源氏、足利氏、徳川氏で足利氏は源氏の一族であり、徳川氏は源氏の一族である新田氏の子孫を称していましたから、後年になると征夷大将軍は源氏でなければなれなかったなどという説ができましたが、それはあくまでも結果論で実際とは異なりますが、その節から言うと織田信長は平氏であったために征夷大将軍にはなれなかったというわけです。 しかし実際には織田信長が本能寺で暗殺されなければ朝廷は征夷大将軍に任命するつもりだったという説もあります。 ただ、征夷大将軍である以上関東地方の支配権、指揮権が必要であり、豊臣秀吉が征夷大将軍にならなかったのは秀吉が実験を握ったときにはまだ関東が完全に秀吉の支配権が及んでいなかったためであり、関東にも支配権を及ぼせるようになったときにはすでに関白政権が確立していていまさら征夷大将軍になる意味がないためだったと考えられます。

overair
質問者

補足

早々の回答ありがとうございます。 わかりやすい説明で感謝します。 一点質問があるのですが、 >織田信長は平氏を称していました の箇所なのですが、本当に信長は平氏の一族だったのでしょうか?それとも足利氏に対抗するために平氏を名乗っていただけなのでしょうか? 何も知らなくて申し訳ありませんが教えていただけましたら幸いです。 宜しくお願いいたします。

  • 4500rpm
  • ベストアンサー率51% (3235/6341)
回答No.2

武家の棟梁である将軍(征夷大将軍)は源氏がなるという慣例があるため、将軍になって幕府を開き天下を治めることができなかった事を言っていると思います。(慣例といってもその当時は鎌倉、室町のみですが) なぜ平氏を名乗ったかといえば、源平交替思想によって源氏の将軍・足利義昭に替わり、平氏の信長が天下を治めることを正当化するためだったという説があります。または当初、足利義昭を擁護していた為、将軍になるつもりはないと周りに示すつもりだったのかも知れません。 同じく平氏を名乗った秀吉も将軍にならずに、太政大臣&関白になって天下を治めています。

overair
質問者

補足

早々の回答ありがとうございます。 よくわからないことがあるのですが、 >なぜ平氏を名乗ったかといえば ということは本当は平氏ではなく、信長が天下を治めることを正当化するために偽っていたのでしょうか? 的はずれな質問かもしれませんが宜しくお願いいたします。

  • jyamamoto
  • ベストアンサー率39% (1723/4318)
回答No.1

源氏と平氏を比較してみた場合に、日本の歴史の中では、平氏の隆盛は短時日で源氏の隆盛は比較的長期にわたっていることになっています。 そのことと、関連付けたかったのでしょう・・・。

overair
質問者

補足

早々の回答ありがとうございます。 >そのことと、関連付けたかったのでしょう・・・。 の意味がよくわかりません。 歴史に疎い私でもわかるように説明していただけるとありがたいです。 宜しくお願いいたします。

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