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関ヶ原の戦いについて
関ヶ原でも長篠でも、いちばん不思議なのは、なぜ、合戦の場所や日時がお互いに一致するのですか? 関ヶ原では西軍が関ヶ原で待っていたとしても、東軍が静岡市あたりで待っていたら、合戦は起きません。いつどこでやるぞとか、合戦のアポイントがあったのですか?
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- jkpawapuro
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関ヶ原と長篠はちょっと別に考えたほうがよういです。 関ヶ原や源平や南北朝期の騒乱は、敵味方が日本全国にモザイク状に居てどっちがどっちにつくかはっきりしません。 こういう状況では威勢よく前に前にでて優勢をアピールしたほうに多くの味方が集まります。 だから西軍は前に前にと大坂をスタートに進軍します。東軍も北関東に集結していたものが急に上方で戦となり、すぐに引き返し東軍グループの急先鋒福島正則の清洲城を拠点に前にと進軍します。 清洲(名古屋)と大坂から双方スタートして主力がぶつかったのが大垣~関ヶ原の一帯になります。 ただ全員集結したわけではなく、前哨戦で敗れた西軍岐阜城・東軍伏見城、出遅れた徳川秀忠隊、関ヶ原より奥深い敵地で孤立立て籠もってる上田城・宮津城、地方で各個に暴れてる上杉・黒田官兵衛などいろいろいますよ。 一方長篠の戦い、これは甲斐信濃を治める武田と東海を治める徳川織田との国境線上の要塞です。ここはそもそも両国を行き来する最前線で、お互いの進軍ルートの一番邪魔になるところにある城を強化し、双方押し通ろう・迎え撃とうと日頃から警戒されていた土地です。 日時を待ち合わせするわけはないですが、小城とはいえ城ですので、常備兵がいて急襲されても1ヶ月くらいは持ちこたえてその間に味方の本隊が駆けつけます。 現代こそ国道が張り巡らされていますが、戦国時代に大軍が荷車引いた食料をつれて通れるような道は数限られていて、そういった要地にはその道を塞ぐべく小城が築かれ激突が発生します。とくに山間部の隘路が多いですね。 伊達政宗が戦った人取橋の戦いであるとか武田信玄の塩尻峠越えなど、国境線上の細い道・絶対通らないと行けない道は、防衛側に取ってみればそこで待ち構えれば絶対相手が来る有利な場所なので戦場になりやすいです。
- gunsin
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狭い土地で戦っては、大軍の力を発揮出来ず、兵力の多くが 宝の持ち腐れになりますので、広い土地が必要に、なります。 長篠の戦いでは、徳川・織田の連合軍が自分達の有利な場所に 武田軍を誘い込みました、三方ヶ原の戦いで、武田信玄に誘い込ま れて、大敗した、家康の経験から生まれた事柄です。 関ヶ原の戦いでは、西軍が有利な地域に陣を配置しました。 家康側は陣を敷いて、睨み合う長期戦にして、結束の弱い 西軍の乱れを待つ手が有ったと思うのですが、秀忠の本隊の 到着が遅れたので、やもう得ず戦闘を始めました、豊臣家臣団 の内紛なので、家康に味方した豊臣家臣団が何時、寝返っても おかしくない状況でした。 三成より家康の諜略が上まったので、薄氷の勝利になりました。
- oska2
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>なぜ、合戦の場所や日時がお互いに一致するのですか? 過去の戦いを見れば、不思議ですよね。 まるで、申し合わせたようです。 >西軍が関ヶ原で待っていたとしても、東軍が静岡市あたりで待っていたら、合戦は起きません。 面白いところに気が付きましたね。 西軍が待っている関が原を避けて、直接大坂へ東軍が移動する戦法もありました。 >合戦のアポイントがあったのですか? 事前の「アポ」は、ありません。 ただ、関が原の戦いは「勝ち方に政治的な意味」があったのです。 ですから、東軍も西軍との直接の合戦が必要。 戦争での勝敗は、基本として「相手の本拠地を支配する」事ですよね。 西軍としては、家康の本拠である江戸攻撃を目指して東へ進軍。 東軍としては、反三成連合軍を率いて大坂へ進軍。 ※豊臣軍は、反豊臣でなく反三成軍として東軍に参加。 三成が関が原で進軍を止めたのは、三成の居城が東軍に攻撃されるのを恐れた!?との説もあります。 ※実際、三成の城を攻撃する!との噂が戦闘開始前から広まっています。 関が原で止まっている西軍に対して、東軍は徐々に接近します。 双方の先陣が交戦範囲に入った時点で、戦闘開始! 結果として、アポがあった様に戦闘が始まったのです。 余談ですが・・・。 旧日本陸軍作戦本部が「外国軍事顧問」に関ケ原の東西軍配置図を見せたところ「西軍が勝っただろ?」と言った実話は有名です。 まぁ、西軍の本気度が低かったですから仕方が無い。^^;
- kyokoma
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合戦寸前だけでなく、 偵察隊が配備されています。 合戦寸前ではその偵察隊から逐一動向が報告されてきます。 両軍共相手の動き次第で行動するので、 当然相手が攻め込んでくれば応戦することになり、 同時となるからです。
- y-y-y
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長篠の戦いは、日乃本で最強と自負する武田が、天下を取ろうと京へ上る途中で、徳川・織田の連合軍が阻止しようと、武田軍の行進ルートを考えて、自分の領地で戦いに有利な場所が、長篠の付近なのでしょう。 関ヶ原の戦いの場所は、日本の歴史上でもうひとつの「天下分け目の戦い」が飛鳥時代に起こりました。 その戦いは「壬申(じんしん)の乱」といいます。 https://rekimin-sekigahara.jp/main/jinsin_war/ また、関ヶ原には、昔の東日本と西日本の境界でもあり、「不破の関」で東西交流の検問をしていたほど重要な場所でした。 https://rekimin-sekigahara.jp/main/fuwa_no_seki/about/ 秀吉からの命令で、家康は江戸に移封(転封 (てんぽう) ・ 国替え)になっていいたし、家康は大阪から謀反の疑いのある会津藩の上杉へ出兵したのです。 大坂から家康一派が居なくなったので、石田三成は西軍を編成して、徳川と戦うためには戦いを少しでも有利にするため、昔の西日本からちょっと東日本のほうへ出た関ケ原で、徳川の東軍を待っていたのです。 家康直属の武士は、大阪にいる家族を人質に取られているので、会津藩へ行く途中の栃木県小山市での軍議で急遽徳川の東軍はUターンをしたのです。この軍議を「小山評定」といいます。 小山評定 https://www.google.com/search?q=%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E8%A9%95%E5%AE%9A&sourceid=chrome&ie=UTF-8 徳川の東軍がUターンして、石田三成の西軍が待っていたのがは関ケ原です。 石田三成の西軍は、昔の西日本各地(九州・中国・四国など)からの寄せ集めの編成ですから、大名はどちらが勝つか勝ったほうへ行こうとの日和見もいたのです。