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関ヶ原の戦いの構図について

関ヶ原の戦いは、毛利対徳川の構図で見た方が、より分かりやすくなるというのは本当ですか?(石田・大谷も、頑張ってはいましたが)毛利は、五大老筆頭の地位を狙っていたのですか?

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  • jkpawapuro
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回答No.4

毛利輝元は家康が畿内を離れたとたん全力で船を飛ばし二日で上京し鮮やかに大坂城西の丸を乗っ取ったことが知られ、明らかに積極的な行動をしています。 そういった意味では毛利輝元本人は積極的と言えますが、毛利家の内情は極めて込み入っててわかりやすいとは言い難いです。外交工作も多くの書状が三奉行・大谷名で発せられていて、その狙いも五大老筆頭として豊臣家を率いる立場なのか西の覇者止まりなのか判然としません。三奉行より上に出ようという意思が見えない割には自分が積極的に戦場に出て武功により存在感をあげるといったふうにも見えません。 毛利家は吉川小早川(+その他家老)と集団指導体制で、それが毛利元就の孫の代となり関係が遠ざかって股割きになっています。そんな中毛利輝元は跡継ぎがおらず元就の孫を養子にとったら自分の実子が出来てなんとか豊臣の意向を背景に跡継ぎを実子に切り替えたいと大変ややこしい状況を抱えています。

kiyurohi88
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。目からウロコが落ちました。

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その他の回答 (3)

  • oska2
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回答No.3

>関ヶ原の戦いは、毛利対徳川の構図で見た方が、より分かりやすくなるというのは本当ですか? 初めて聞きました。 こんな話が、存在するのですね? 一般的には、幕末の討幕派と幕府の戦いは「毛利VS徳川」で見た方が分かり易いですがね。 そもそも、関が原では「毛利が西軍の大将になる事は、吉川・小早川だけでなく毛利本家も乗り気ではありません」よ。 「嫌々、名前を貸しただけ」って、事です。 実際、毛利軍は動いていません。 小早川金吾も、(秀吉正室)寧々さまの指示通り最初から徳川家に従っていました。 ※当日まで迷っていて鉄砲の音に驚いて寝返った!は、史実ではありません。 >毛利は、五大老筆頭の地位を狙っていたのですか? 「動かなければ、今の領土は保証する」という、家康の書状を信じていましたからね。 泥船からは、ネズミが逃げるの例え通りです。 戦後、約束を反故にされて激怒! 以後、幕末まで「徳川憎し」が年賀の挨拶だったのは有名です。

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  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11216/34839)
回答No.2

>毛利対徳川の構図で見た方が、より分かりやすくなるというのは本当ですか? うそです。関ヶ原を最も理解しやすい構図は、石田三成vs徳川家康です。 毛利輝元は、家臣に利用されただけです。毛利家の権力構造って複雑で、実は毛利家の当主って自分じゃ全然決められないのです。「毛利の両川」というと聞こえはいいですけど、小早川家と吉川家の発言力があり過ぎて、当主は小早川家と吉川家の了承なしには縦の物を横にもできなかったのです。 けれど結果論ですが、関ヶ原が終わると小早川家は(東軍につきましたが)滅亡し、吉川家(吉川広家)は「毛利家を潰しかけた諸悪の根源」で藩内での影響力を失い、実は吉川家はその後廃藩されるまでずーっと重用されることはなく冷や飯を食わせ続けられることになります。結果として毛利家当主は関ヶ原以前より発言力を得ることになりました。

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  • sebsereb
  • ベストアンサー率20% (116/570)
回答No.1

小早川って苗字は毛利の分家ですよね。 関ヶ原で裏切った小早川秀秋は、毛利方だと思います。

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